お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
西南戦争戦死者の記事~尾島五次郎(饗庭村熊之本出身)の場合~ ― 2011/07/29
映画「コクリコ坂から」~痛みの共有~ ― 2011/07/29
深夜に、カミさんと二人で、映画「コクリコ坂から」を観ました。終わったら日付がかわっていました。これで、一週間もたたないうちに、2本(「ロック~わんこの島~」と)をシネマで観たことになります。午後10時30分からの上映ということもありましたが、100名以上の席に数人の観客でリッチな気分になりましたが・・・どこも同じなんでしょうか。
この作品には、朝鮮戦争が影を落としています。理事長が生徒の直訴をうけて、実地検分を決心する場面がでてきます。理事長が思わず吐いたセリフがうまく聞き取れませんでした。「LSTか・・・」と聞こえました。それは、主人公と世代を超えて痛みを共有する大事な瞬間でした。
ガリ切りはなつかしく思えたのに、この単語が分からず、半分情けなくなって、「朝鮮戦争 日本人 輸送船」でYahoo検索をかけました。
「LST」は出てきました。上陸用舟艇でした。ある種の「商船」を予想したのにはずれはしましたが、合っているのではないでしょうか。
この作品には、朝鮮戦争が影を落としています。理事長が生徒の直訴をうけて、実地検分を決心する場面がでてきます。理事長が思わず吐いたセリフがうまく聞き取れませんでした。「LSTか・・・」と聞こえました。それは、主人公と世代を超えて痛みを共有する大事な瞬間でした。
ガリ切りはなつかしく思えたのに、この単語が分からず、半分情けなくなって、「朝鮮戦争 日本人 輸送船」でYahoo検索をかけました。
「LST」は出てきました。上陸用舟艇でした。ある種の「商船」を予想したのにはずれはしましたが、合っているのではないでしょうか。
西万木墓地の小さな墓碑は西南戦争の墓碑ではないか ― 2011/07/29
西南戦争の墓碑が少なくとも2柱(海津の南部由松と三尾里の日置住吉)、高島市で見つかりました。徳田政吉の場合は、まだ確定はできません。しかし、少なくとも、今と明治10年とがつながる窓が見つかったのです。
西万木墓地を見て回ったときに、あまりの小ささに気になって仕方のない墓碑がありました。その話をします。
まず、西万木の墓地を見回して、二つの特徴に気づきました。第一は、西万木地域の戦没者が多いのに、石造の戦死者の墓碑は少ないという事実です。墓地の大部分には、木製の墓標がならんでいました。中野墓地に比べるとその違いは歴然としていました。
第二に、上の事実から、戦死者の墓碑はきっと特別な人たちだろうということです。つまり、墓標の風習を壊してでも、建てるべき理由があると地域が納得できる人たちにちがいないのです。
そう思って戦死者の墓碑を眺め直しました。
墓地の外周には、上の写真のように、戦死者の墓碑が垣根のように並んでいます。手前から砲弾型2基とその間に四角錐の頭をもつ通常の墓碑。その左手には、より大きな四角錐の頭をもった四角柱の墓碑が4柱ならんでいました。外周にはあと2柱ありました。ひとつは手前で隠れています。ごく最近のもののようすです。
問題は、残り1柱。
あまりの小ささに、存在に気づかない墓碑です。近い方の砲弾型墓碑のわきに写っている本体だけの墓碑です。
財政的に余裕がないために、こういうごく小さな墓碑になったと考えられなくもありません。しかし、残りの墓碑がりっぱすぎるのに、あとからあえて石造でしかも異様に小さな墓碑を建立するとは思えません。したがって、砲弾型墓碑よりも古いものではないか・・・。私はその正面の形を観察しながら、これが西南戦争戦死者・岸嘉七の墓碑ではないかと思ったのです。
次の記事で、具体的に、墓碑を観てみることにします。
西万木墓地を見て回ったときに、あまりの小ささに気になって仕方のない墓碑がありました。その話をします。
まず、西万木の墓地を見回して、二つの特徴に気づきました。第一は、西万木地域の戦没者が多いのに、石造の戦死者の墓碑は少ないという事実です。墓地の大部分には、木製の墓標がならんでいました。中野墓地に比べるとその違いは歴然としていました。
第二に、上の事実から、戦死者の墓碑はきっと特別な人たちだろうということです。つまり、墓標の風習を壊してでも、建てるべき理由があると地域が納得できる人たちにちがいないのです。
そう思って戦死者の墓碑を眺め直しました。
墓地の外周には、上の写真のように、戦死者の墓碑が垣根のように並んでいます。手前から砲弾型2基とその間に四角錐の頭をもつ通常の墓碑。その左手には、より大きな四角錐の頭をもった四角柱の墓碑が4柱ならんでいました。外周にはあと2柱ありました。ひとつは手前で隠れています。ごく最近のもののようすです。
問題は、残り1柱。
あまりの小ささに、存在に気づかない墓碑です。近い方の砲弾型墓碑のわきに写っている本体だけの墓碑です。
財政的に余裕がないために、こういうごく小さな墓碑になったと考えられなくもありません。しかし、残りの墓碑がりっぱすぎるのに、あとからあえて石造でしかも異様に小さな墓碑を建立するとは思えません。したがって、砲弾型墓碑よりも古いものではないか・・・。私はその正面の形を観察しながら、これが西南戦争戦死者・岸嘉七の墓碑ではないかと思ったのです。
次の記事で、具体的に、墓碑を観てみることにします。
西南戦争で田原坂で戦死した「岸嘉七」の墓碑??? ― 2011/07/29
『高島郡誌』には、高島郡の「明治十年西南戦役戦病死者」名簿が掲載されています。全体で15名ですが、安曇村出身者は2名のみ。一人が、三尾里の日置住吉。歩兵二等卒で所属部隊は不明。明治十年六月二十九日に宮崎県三田村で死亡したと記録されています。
もう一人が問題の、岸嘉七。安曇村大字西萬木出身。兵種不詳・階級不詳・所属部隊名不詳であり、明治十年三月十日に熊本県田原坂で亡くなったとあります。
墓碑の形は、今回実際に見ることができた南部由松の墓碑、日置住吉の墓碑と正面の形は同じ(将棋の駒の形)であり、日清や日露の墓碑の形(砲弾型、もしくは四角柱の上に四角錐が載っている形)ではありません。
墓碑名が判読できれば、推論など無用なわけですが、上の写真のように読み取るのがもはや困難です。「故陸軍歩兵一等兵」まではなんとか判読できそうです。私には、その次の一文字が「岸」に見えるのです。読み取れない部分も入れると「岸嘉七墓(碑)」ではないかと。
変だと思う点は、最初の「故」。これは新しい時代の墓碑にはついていますが、西南戦争の直後の時代につけたのかどうか、自信がありません。ちなみに、確実に西南戦争の戦死者である海津村の南部由松の墓碑は「陸軍兵卒南部由松碑」であり、それかどうか不明の徳田政吉の墓碑は、「故陸軍歩兵二等卒 徳田政吉墓」でした。
参考までに、上の写真が南部由松の墓碑で、下の写真が日置住吉の墓碑です。
もう一人が問題の、岸嘉七。安曇村大字西萬木出身。兵種不詳・階級不詳・所属部隊名不詳であり、明治十年三月十日に熊本県田原坂で亡くなったとあります。
墓碑の形は、今回実際に見ることができた南部由松の墓碑、日置住吉の墓碑と正面の形は同じ(将棋の駒の形)であり、日清や日露の墓碑の形(砲弾型、もしくは四角柱の上に四角錐が載っている形)ではありません。
墓碑名が判読できれば、推論など無用なわけですが、上の写真のように読み取るのがもはや困難です。「故陸軍歩兵一等兵」まではなんとか判読できそうです。私には、その次の一文字が「岸」に見えるのです。読み取れない部分も入れると「岸嘉七墓(碑)」ではないかと。
変だと思う点は、最初の「故」。これは新しい時代の墓碑にはついていますが、西南戦争の直後の時代につけたのかどうか、自信がありません。ちなみに、確実に西南戦争の戦死者である海津村の南部由松の墓碑は「陸軍兵卒南部由松碑」であり、それかどうか不明の徳田政吉の墓碑は、「故陸軍歩兵二等卒 徳田政吉墓」でした。
参考までに、上の写真が南部由松の墓碑で、下の写真が日置住吉の墓碑です。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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