お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争戦病死者「陸軍歩兵一等卒日置卯市碑」@高島市 ― 2011/07/24
高島市の旧安曇川町の墓地の一角にある「陸軍歩兵一等卒日置卯市碑」の本体の写真です。使い慣れない方のカメラで撮ったために、ピントがずれている気がします。
全貌は、一つまえの記事の写真でわかると思います。
左側面は建立の日付だと思われますが、明治三十一年七月とと読めます。以下は、あとで読み取ることにします。ただ、残念なことに、全方角から撮影しなかったので、背面や右側面に文字があったのかどうかは、わかりません。
また訪問して確かめることにします。
今、頭に浮かぶ疑問ですが、位置の問題。三尾里墓地は、最近整備されたと思われます。ですから、「日置卯市碑」が当初からこの場所にあったのかどうかが、気になります。
全貌は、一つまえの記事の写真でわかると思います。
左側面は建立の日付だと思われますが、明治三十一年七月とと読めます。以下は、あとで読み取ることにします。ただ、残念なことに、全方角から撮影しなかったので、背面や右側面に文字があったのかどうかは、わかりません。
また訪問して確かめることにします。
今、頭に浮かぶ疑問ですが、位置の問題。三尾里墓地は、最近整備されたと思われます。ですから、「日置卯市碑」が当初からこの場所にあったのかどうかが、気になります。
日清戦争戦病死者「陸軍歩兵二等卒奥村粂蔵」碑@高島市 ― 2011/07/24
日清戦争は、明治政府がはじめて行った外征戦争でした。内戦とは規模もちがう戦争であり、地域社会をまきこんで遂行されました。国民意識の高揚も意図されたところでした。
その戦没者の扱いについても、予想される日露間の戦争を考慮して、これまでにない取組が行われました。靖国神社の大祭をその頂点として。
戦死者には特別の碑が建てられました。その置かれた位置は、共同墓地とは限りません。たとえば、「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」。現在は安曇川町田中墓地にありますが、当初は、集落の交通の要所に置かれていました。
この「陸軍歩兵二等卒奥村粂蔵」(碑)の場合はどうでしょうか。
現在の位置は、下の写真にあるようにお寺の門前です。この場合は、当初の位置も同じではなかったかと推察しています。
奥村粂蔵の墓碑は、一つではありません。もう一基、旧大津陸軍墓地に存在します。もちろん、同一人物の墓碑です。
高島市で、西南戦争・日清戦争・日露戦争の戦病死者の墓碑を再発見する作業の中心となっているのが八代さんです。専門的知識をもってらっしゃるうえに、すさまじいばかりの執念を発揮されています。そうでもないと、簡単には発見できなかったと思いました。
苦労話をうかがいました。
この墓碑の場合は法話のなかで墓碑のことを語ったとき、参拝者の一人の女性から、「そういえば、あそこにあったんじゃないか」という話が手掛かりとなったそうです。
地域社会では、もはや、日清・日露の戦没者のことは忘れ去られており、墓碑だけが存在しているという場合が少なくありません。個人的な探究心ではじめたことですが、地域社会に調べた内容を返していきたいと考えるようになりました。
その戦没者の扱いについても、予想される日露間の戦争を考慮して、これまでにない取組が行われました。靖国神社の大祭をその頂点として。
戦死者には特別の碑が建てられました。その置かれた位置は、共同墓地とは限りません。たとえば、「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」。現在は安曇川町田中墓地にありますが、当初は、集落の交通の要所に置かれていました。
この「陸軍歩兵二等卒奥村粂蔵」(碑)の場合はどうでしょうか。
現在の位置は、下の写真にあるようにお寺の門前です。この場合は、当初の位置も同じではなかったかと推察しています。
奥村粂蔵の墓碑は、一つではありません。もう一基、旧大津陸軍墓地に存在します。もちろん、同一人物の墓碑です。
高島市で、西南戦争・日清戦争・日露戦争の戦病死者の墓碑を再発見する作業の中心となっているのが八代さんです。専門的知識をもってらっしゃるうえに、すさまじいばかりの執念を発揮されています。そうでもないと、簡単には発見できなかったと思いました。
苦労話をうかがいました。
この墓碑の場合は法話のなかで墓碑のことを語ったとき、参拝者の一人の女性から、「そういえば、あそこにあったんじゃないか」という話が手掛かりとなったそうです。
地域社会では、もはや、日清・日露の戦没者のことは忘れ去られており、墓碑だけが存在しているという場合が少なくありません。個人的な探究心ではじめたことですが、地域社会に調べた内容を返していきたいと考えるようになりました。
北湖(琵琶湖)の水 ― 2011/07/24
日清戦争戦病死者「陸軍歩兵一等軍曹島村幸次郎碑」@高島市 ― 2011/07/25
Qooの追っかけ遊び ― 2011/07/25
「縣社 水尾神社」の石碑の起源は日露戦争 ― 2011/07/25
水尾村「戦時事績」から日露戦争戦没者名簿 ― 2011/07/25
旧・高島村「戦時事績」から日露戦争戦病死者名簿 ― 2011/07/26
高島市の旧・高島村の日露戦争の戦病死者は5名。そのすべての墓碑が存在することは、八代さんが確認しています。
詳しくは、このブログの記事「高島村の日露戦争戦病死者1名抜けている理由」とそのコメントにあります。
詳しくは、このブログの記事「高島村の日露戦争戦病死者1名抜けている理由」とそのコメントにあります。
日露戦争にかかわる死者・大塚徳松と大塚久左衛門の墓碑@高島市 ― 2011/07/26
高島市の旧高島村にある黒谷墓地に連れていっていただきました。
上の写真には、墓碑がいくつか写っていますが、そのうちの2基が日露戦争戦病死者の墓碑です。一番手前が、大塚徳松、その左手に大塚久左衛門の墓碑がみえます。
前者は、おそらく当初からのもの。後者は、昭和19年に建てられたもの。
現在の大塚久左衛門の墓碑が建て直しなのかどうか、日露戦争の直後に建設されたのかどうかは、わかりません。しかし、久左衛門が戦地ではなく自宅で、しかも講和条約以降に亡くなったことを考えると、当初は建てられなかったように思えます。「戦時事績」の記事にあるように、この若者の「官等級」は空欄になっています。戦争にかかわる死とはみなされなかったのです。したがって、「高島郡誌」での戦病死者の名簿からはずされています。
現在の墓碑を見ると、「故」が冒頭についていること、当時の階級名は「一等兵卒」ですが「一等兵」となっていること、「戦時事績」当時はなかった官等名(勲八等)が刻まれていることなどに気づきます。
上の写真には、墓碑がいくつか写っていますが、そのうちの2基が日露戦争戦病死者の墓碑です。一番手前が、大塚徳松、その左手に大塚久左衛門の墓碑がみえます。
前者は、おそらく当初からのもの。後者は、昭和19年に建てられたもの。
現在の大塚久左衛門の墓碑が建て直しなのかどうか、日露戦争の直後に建設されたのかどうかは、わかりません。しかし、久左衛門が戦地ではなく自宅で、しかも講和条約以降に亡くなったことを考えると、当初は建てられなかったように思えます。「戦時事績」の記事にあるように、この若者の「官等級」は空欄になっています。戦争にかかわる死とはみなされなかったのです。したがって、「高島郡誌」での戦病死者の名簿からはずされています。
現在の墓碑を見ると、「故」が冒頭についていること、当時の階級名は「一等兵卒」ですが「一等兵」となっていること、「戦時事績」当時はなかった官等名(勲八等)が刻まれていることなどに気づきます。
蜘蛛はお好きですか ― 2011/07/26
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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