お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
トンボの群(・・・が見えますか?) ― 2011/08/18
大津市で見ることができる日露戦争の墓碑 ~その5 北小松墓地~ ― 2011/08/18
私が北小松墓地を訪れるのは、三度目です。
前回までは、日露戦争の墓碑をさがすだけで、その「扱い」については、気に留めていませんでした。しかし、旧高島郡は日清戦争の墓碑は「特別の扱い(墓地の入り口に巨大な碑として存在)」をうけているのを目撃し、日露戦争の墓碑の「扱い」が気になってきたのです。
昨日紹介した木戸墓地の「故陸軍歩兵伍長山村秀吉之墓」の場合は、まさに「特別の扱い」です。
他の墓地では、日露戦争の墓碑は、どう扱われているのでしょうか。
北小松墓地のなかをゆっくり歩いて、探しました。日露戦争の墓碑は、高島市の中野共同墓地や今津共同墓地のように戦死者の区画に並んでおかれているのではなく、それぞれの家の区画のなかに置かれていました。上の写真のようにです。
この墓地の入り口は、「臨済宗種徳禅寺」の山門の方だと思います。六地蔵もありますから。そこから、墓地の中を眺めてみても、日露戦争の墓碑の一つが、かろうじて見えるだけです。下の写真ですが、わかりますか?尖った墓碑です。 そのとき、私の頭に浮かんだ疑問は、最初からその位置におかれていたのだろうか、ということでした。 やつしろさんが調べてくれてわかったことですが、戦死者の墓碑は、戦後に移葬されている場合があるのです。たとえば、安曇川の田中墓地にある「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」(日清戦争)や三尾里の「陸軍歩兵一等卒日置卯市碑」(同)もそうでした。
これは、現状からは、判断しかねるところであり、墓守の方に聞くのが一番だと思いました。
上の写真は、「陸軍輜重輸卒松井」までは読めます。その次の三字の解読が難しくなっています。「権治○」最後は「碑」だと思いますが。
北小松墓地には、「戦没者慰霊碑」が裏側の入り口附近に建立されています。その背面に「北小松戦没者合祀氏名(イロハ順)」という銅板が埋め込まれています。下がその写真。しかし、その中に、「松井」の姓はありますが、「権治」のつく名前はありません。
なお、北小松墓地には、日露戦争の墓碑と類似した墓碑が2基あります。伊藤治一と志村庄次郎の墓碑ですが、伊藤は昭和という文字が刻まれており、志村の方は、碑文が読めませんでしたし、石の質がちがいます。ですから、日露戦争の墓碑ではないと考えました。
前回までは、日露戦争の墓碑をさがすだけで、その「扱い」については、気に留めていませんでした。しかし、旧高島郡は日清戦争の墓碑は「特別の扱い(墓地の入り口に巨大な碑として存在)」をうけているのを目撃し、日露戦争の墓碑の「扱い」が気になってきたのです。
昨日紹介した木戸墓地の「故陸軍歩兵伍長山村秀吉之墓」の場合は、まさに「特別の扱い」です。
他の墓地では、日露戦争の墓碑は、どう扱われているのでしょうか。
北小松墓地のなかをゆっくり歩いて、探しました。日露戦争の墓碑は、高島市の中野共同墓地や今津共同墓地のように戦死者の区画に並んでおかれているのではなく、それぞれの家の区画のなかに置かれていました。上の写真のようにです。
この墓地の入り口は、「臨済宗種徳禅寺」の山門の方だと思います。六地蔵もありますから。そこから、墓地の中を眺めてみても、日露戦争の墓碑の一つが、かろうじて見えるだけです。下の写真ですが、わかりますか?尖った墓碑です。 そのとき、私の頭に浮かんだ疑問は、最初からその位置におかれていたのだろうか、ということでした。 やつしろさんが調べてくれてわかったことですが、戦死者の墓碑は、戦後に移葬されている場合があるのです。たとえば、安曇川の田中墓地にある「陸軍輜重輸卒山崎松蔵碑」(日清戦争)や三尾里の「陸軍歩兵一等卒日置卯市碑」(同)もそうでした。
これは、現状からは、判断しかねるところであり、墓守の方に聞くのが一番だと思いました。
上の写真は、「陸軍輜重輸卒松井」までは読めます。その次の三字の解読が難しくなっています。「権治○」最後は「碑」だと思いますが。
北小松墓地には、「戦没者慰霊碑」が裏側の入り口附近に建立されています。その背面に「北小松戦没者合祀氏名(イロハ順)」という銅板が埋め込まれています。下がその写真。しかし、その中に、「松井」の姓はありますが、「権治」のつく名前はありません。
なお、北小松墓地には、日露戦争の墓碑と類似した墓碑が2基あります。伊藤治一と志村庄次郎の墓碑ですが、伊藤は昭和という文字が刻まれており、志村の方は、碑文が読めませんでしたし、石の質がちがいます。ですから、日露戦争の墓碑ではないと考えました。
「昭和二十九年建立」の四基 ― 2011/08/18
共同墓地の入口に、巨大な戦死者の墓碑が置かれている一方で、つつましげな墓碑が同じ大きさと形で並んでいる光景に出合います。墓地のありふれた姿になって想像力を掻き立てられることもなくなっていました。
じっと目をこらすと、どれも「昭和二十九年建立」となっています。戦後9年が経ってから建てられた墓碑、天皇の名による戦争が否定され、現憲法が施行されて7年目の夏に建てられた墓碑ということになります。
建立のときは同じでも、死亡年月日も死亡場所も異なります。
じっと目をこらすと、どれも「昭和二十九年建立」となっています。戦後9年が経ってから建てられた墓碑、天皇の名による戦争が否定され、現憲法が施行されて7年目の夏に建てられた墓碑ということになります。
建立のときは同じでも、死亡年月日も死亡場所も異なります。
○陸軍歩兵伍長 松井光雄これらの地名は、ただちに場所を思い浮かべることができないほど疎遠な土地です。「方面」という表現がでてきますが、それは付近という意味なのでしょうか。それとも、独自の意味合いがあるのでしょうか。
昭和十九年十一月十六日
南支方面ニ於イテ戦病死
○陸軍伍長 松井正也
昭和二十年三月二日
ビルマ国メイクテーラ方面ニ於イテ戦死
○陸軍衛生兵長 山田巌
昭和二十年十月十一日
ルソン島第一病院ニ於イテ戦死
○海軍上等機関兵 寺内謙一
昭和二十年二月十九日
コレヒドール島ニ於イテ戦死
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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