お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その3 ~沙家屯と沙家屯舎営病院~ ― 2011/08/23
第四師団野戦第二病院は、23日に柳樹屯、24日に劉家店、26日に沙家屯と移動しながら、それぞれの地点で病院を開設していきました。それは、本隊の動きに従って移動していたはずです。
実際、同じ師団の第九聯隊も、上陸地の柳樹屯から沙家屯近くの舎営地にむけて、移動していました。その都度、野戦病院(柳樹屯兵站病院、劉家店避病室、沙家屯舎営病院)に重篤な下士官と兵卒を残していったものと思われます。
第九聯隊の「戦役経歴書」には、病死した将校、下士官や兵卒のことは一切触れていません。書かれているのは、つぎの文章です。
「その1」で、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市、そして富田媒吉という旧高島郡出身の若者の名前を挙げました。最後に言及したのは、3月28日、大津営所を市民の歓声で送られるところでした。それから、1カ月と少ししか経ちません。しかし、そのうちの何名の名前がここに出てきます。
そのうち4名の「日清戦争」は、5月始めまでに、その生涯とともに、終わりました。それを、まとめると、つぎのようになります。
中村林蔵、日置卯市、内田検次郎および奥村久米蔵は、3月28日に清国との戦争に出征し、4月11日もしくは13日に広島の宇品港を出港。4月22日もしくは23日に金州半島の柳樹屯に上陸。4月24日もしくは25日に沙家屯付近の舎営地に到着。まもなく、沙家屯舎営病院に入院。日置卯市は同29日に、中村林蔵<、内田検次郎および奥村久米蔵は5月1日に亡くなりました。彼らにとっての「日清戦争」は、上陸して10日足らず。無念の最後としかいいようがありません。
(日置卯市の墓碑@旧大津陸軍墓地) (中村林蔵の墓碑@旧大津陸軍墓地) (内田検次郎の墓碑@旧大津陸軍墓地) (奥村久米蔵の墓碑@旧大津陸軍墓地)
私が彼らの名前を知ったのは、旧大津陸軍墓地にある腰の高さほどの小さな墓碑からでした(上の写真)。
本人の生きた物語は終わりましたが、実は、死後の物語があります。それについては、あらためて書くことにします。
「その4」では、死因について見てみたいと思います。
実際、同じ師団の第九聯隊も、上陸地の柳樹屯から沙家屯近くの舎営地にむけて、移動していました。その都度、野戦病院(柳樹屯兵站病院、劉家店避病室、沙家屯舎営病院)に重篤な下士官と兵卒を残していったものと思われます。
第九聯隊の「戦役経歴書」には、病死した将校、下士官や兵卒のことは一切触れていません。書かれているのは、つぎの文章です。
・・・金州半島ニ上陸スルノ命令ニ依リ四月二十二日柳樹屯上陸(但シ第一大二大隊ハ・・・二十三日柳樹屯上陸)○二十四日聯隊ノ宿営予定地沙家屯付近ニ在ル西築家屯附近ノ舎営地ニ至ル(但シ第一第二大隊ハ四月二十五日ニ着ス)4月24日と25日に、第九聯隊全体が沙家屯付近に到着しました。その直後から、「沙家屯」で死亡する将兵が次々現れます。24日には1名、27日に3名、28日に4名、29日には9名が死亡しています。
4月24日 沙家屯 二等卒 松本 嘉十郎(41)その数、4月に18名、5月に14名、合計32名。内訳は、将校1名、下士官1名、兵卒30名でした。
4月27日 沙家屯 一等卒 駒澤 榮太郎(79)
4月27日 沙家屯 一等卒 西川 一茂(91)
4月27日 沙家屯 二等卒 井上 友次郎(大津市)(76)
4月28日 沙家屯 一等卒 小笹 定吉(31)
4月28日 沙家屯 一等卒 宮本 為蔵(33)
4月28日 沙家屯 二等卒 福知 虎吉 (97)
4月28日 沙家屯 一等軍曹 松宮 寅治郎(B06)
4月29日 沙家屯 一等卒 中嶋 留治郎(伊香郡)(23)
4月29日 沙家屯 一等卒 藤井 常吉(27)
4月29日 沙家屯 一等卒 上田 竹之助(36)
4月29日 沙家屯 一等卒 森 巳之助(大津市)(65)
4月29日 沙家屯 上等兵 瀧本 金治郎(135)
4月29日 沙家屯 一等卒 草山 安次郎(137)
4月29日 沙家屯 一等卒 掛田 三治郎(161)
4月29日 沙家屯 一等卒 日置 卯市(高島市)(176)
4月30日 沙家屯 上等兵 村田 捨吉(105)
4月30日 沙家屯 上等兵 岸田 安太郎(165)
5月 1日 沙家屯 二等卒 中村 林蔵(高島市)(19)
5月 1日 沙家屯 一等卒 藤井 政次郎(16)
5月 1日 沙家屯 上等兵 内田 検次郎(高島市)(39)
5月 1日 沙家屯 二等卒 奥村 久米蔵(高島市)(139)
5月 2日 沙家屯 一等卒 岸 駒次郎(52)
5月 2日 沙家屯 一等卒 石垣 房次郎(77)
5月 3日 沙家屯 江福 安次郎(174)
5月 5日 沙家屯 二等卒 井上 嘉市郎(101)
5月 5日 沙家屯 一等卒 井上 寅松(208)
5月 5日 沙家屯 一等卒 小林 尚輝(172)
5月 6日 沙家屯 輜重輸卒 廣瀬 助松(115)
5月 7日 沙家屯 中尉 伊藤 兼太郎(A15)
5月 8日 沙家屯 一等卒 川西 吉松(34)
5月12日 沙家屯 一等卒 吉川 竹松(20)
5月13日 沙家屯 一等卒 清水 留吉(151)
5月17日 沙家屯 二等卒 木谷 勇吉(伊香郡)(156)
「その1」で、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市、そして富田媒吉という旧高島郡出身の若者の名前を挙げました。最後に言及したのは、3月28日、大津営所を市民の歓声で送られるところでした。それから、1カ月と少ししか経ちません。しかし、そのうちの何名の名前がここに出てきます。
そのうち4名の「日清戦争」は、5月始めまでに、その生涯とともに、終わりました。それを、まとめると、つぎのようになります。
中村林蔵、日置卯市、内田検次郎および奥村久米蔵は、3月28日に清国との戦争に出征し、4月11日もしくは13日に広島の宇品港を出港。4月22日もしくは23日に金州半島の柳樹屯に上陸。4月24日もしくは25日に沙家屯付近の舎営地に到着。まもなく、沙家屯舎営病院に入院。日置卯市は同29日に、中村林蔵<、内田検次郎および奥村久米蔵は5月1日に亡くなりました。彼らにとっての「日清戦争」は、上陸して10日足らず。無念の最後としかいいようがありません。
(日置卯市の墓碑@旧大津陸軍墓地) (中村林蔵の墓碑@旧大津陸軍墓地) (内田検次郎の墓碑@旧大津陸軍墓地) (奥村久米蔵の墓碑@旧大津陸軍墓地)
私が彼らの名前を知ったのは、旧大津陸軍墓地にある腰の高さほどの小さな墓碑からでした(上の写真)。
本人の生きた物語は終わりましたが、実は、死後の物語があります。それについては、あらためて書くことにします。
「その4」では、死因について見てみたいと思います。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その4 ~腸カタル、赤痢、マラリヤ、腸チフス~ ― 2011/08/23
清国との戦争は終わり、中国深く侵攻する予定だった歩兵第九聯隊は、その任務を解除され、下関条約で獲得した遼東半島の守備の任務につきました。しかし、戦闘がないのに、壮健なはずの20代前半の若者がつぎつぎと死亡していきました。
兵卒だけで見れば、4月には65名、5月には23名、6月には11名、7月には25名、8月には22名、9月には34名、10月には15名、11月には5名が亡くなりました。いよいよ日本に帰還することが許された12月にも、4名。合計204名。将校は1名、下士官は14名。
歩兵第九聯隊は一部を除いて、明治28年12月の末に、凱旋帰国を果たします。そのなかには、歓呼の声に送られた高島市出身の中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉の姿はありませんでした。 さて、旧大津陸軍墓地の墓碑には、「沙家屯」とだけ刻まれて、それが戦場なのか、病院なのかわからないよういなっています。戦死なのか、戦病死なのか、病死なのかもわかりません。
一方、旧真田山陸軍墓地には、ほぼ同じ行動をとった第4師団第八聯隊の墓碑があります。碑の側面には、亡くなった病院名がはっきり刻まれています。
私は、なんとかして、第九聯隊の220名の若者の直接の死因を確認したいと思いました。それを、明治44年の『大津市志』のなかに見つけました。
「沙家屯」で4月27日に亡くなった兵卒に、大津市出身の井上友次郎がいます(碑文は上の写真)。『大津市志』では、つぎのように書かれています。
兵卒だけで見れば、4月には65名、5月には23名、6月には11名、7月には25名、8月には22名、9月には34名、10月には15名、11月には5名が亡くなりました。いよいよ日本に帰還することが許された12月にも、4名。合計204名。将校は1名、下士官は14名。
歩兵第九聯隊は一部を除いて、明治28年12月の末に、凱旋帰国を果たします。そのなかには、歓呼の声に送られた高島市出身の中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉の姿はありませんでした。 さて、旧大津陸軍墓地の墓碑には、「沙家屯」とだけ刻まれて、それが戦場なのか、病院なのかわからないよういなっています。戦死なのか、戦病死なのか、病死なのかもわかりません。
一方、旧真田山陸軍墓地には、ほぼ同じ行動をとった第4師団第八聯隊の墓碑があります。碑の側面には、亡くなった病院名がはっきり刻まれています。
私は、なんとかして、第九聯隊の220名の若者の直接の死因を確認したいと思いました。それを、明治44年の『大津市志』のなかに見つけました。
「沙家屯」で4月27日に亡くなった兵卒に、大津市出身の井上友次郎がいます(碑文は上の写真)。『大津市志』では、つぎのように書かれています。
大津市下百石町二十一番屋敷同じく9月1日に「大孤山」で亡くなった大津市出身の竹村安次郎。
陸軍歩兵上等兵 井上 友治郎
明治三年八月一日生れ
明治二十三年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し二十七八年戦役従軍。腸加答留症に罹り清国沙家屯舎営病院に於て明治二十八年四月二十九日死亡。
大津市川町六十八番屋敷同じく9月13日に「海城」で亡くなった大橋卯三郎。
陸軍歩兵一等卒 竹村安治郎
明治二年二月四日生
明治二十二年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し、二十七八戦役従軍。赤痢病に罹り明治二十八年九月一日清国大弧山兵站病院に於て死亡。
大津市玉屋町四番地10月16日に「海城」で亡くなった歩兵一等軍曹・太田末次郎。
陸軍歩兵一等卒 大橋卯三郎
明治六年十月二日生
明治二十六年徴兵出身にして現役として歩兵第九連隊に属し二十七八年戦役従軍。マラリア病に罹り明治二十八年九月十三日清国海城舎営病院に於て死亡。
大津市和泉町二十五番屋敷すべてがそうだどは言えないかも知れませんが、腸カタル、赤痢、マラリヤ、腸チフス・・・これらが、若者の命を奪った正体でした。
陸軍歩兵軍曹 太田末次郎
明治四年七月二十五日生
明治二十四年徴兵現役として歩兵第九連隊に属し、二十七八年戦役従軍。腸窒扶斯症に罹り、明治二十八年十月十六日清国海城舎営病院に於て死亡。
阿蘇の馬 ― 2011/08/23
一年前のQoo ― 2011/08/23
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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