お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
少し涼しくなりましたね。お元気でしょうか。 ― 2011/08/30
ブログを見にきていただいてありがとうございます。
お元気でお過ごしでしょうか。
私の日常は午前7時頃におきて、ワンコの散歩をして、必要なときは朝食後にすぐ出勤し午前8時30分には机の前にいます。週に一回は泊まり込み。休みは週一回あるかないか。思い切って早めに帰るときはありますが、10時頃が普通という生活です。
ブログは、そういう日常から全く切り離した世界となっています。最も身近な同僚さえ知らないというのがある意味快感となっています。仕事の密度が濃くなってくると、半年近くブログがストップします。4月には21日間のうち17日間は、仕事場で泊まり込むことになってしまいました。おかげで、仕事の頭は満タン、ブログ頭は真っ白状態。初期化されてしまいました。日常を書き散らしている分には、構いませんが、戦争の傷跡を追求する作業を再開するのは、大変です。
ごくまれにブログで展開していることを話す機会をいただきます。自分からつくる場合もありますが、この作業を知っている人に頼まれる場合もあります。それまでの探求をまとめるいい機会になり、あらたな問題意識と興味をもって、ブログをつづけようということになります。
私はロシア史を専攻しました。けれども、学生の勉学は初歩的であり、実際のスキルは身につかないままでした。その初心者がやっている作業ですから、ときどき意味を感じなくなったり、このぐらいでやめようかなという気分になるときがあります。不思議なことに、そういうタイミングで励ましや問い合わせのメールをいただきます。意味のある作業だと思い直して、つづけてきました。
あちこち見て回って集めたものを、メモのように書きなぐり、突然、思いついてまとめる・・・そんな風な4年間でした。これからも、そういうことになります。ブログは短いエントリーを脈絡なく書いていくのは適していますが、まとめようとすれば、探すのが大変です。あまり先を考えずに、カテゴリーをつくっていたら、100項目の制限にぶつかって、あわてて整理しはじめるなんてこともありました。
いっそのことサイトをつくろうかと思いました。しかし、最初に書いたような日常では、とても無理です。現職の時代は数年では終わらないと思います。それはその先にとっておく楽しみです(突然、つくるかも知れませんが)。
『「1名の将兵と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争』--気負ったタイトルをつけたエントリーを並べています。それは、一方で、遺族の方の参考になればいいと願ってのことですが、他方は、そういうまとめをどこかで(比較的余力のあるときに)しておかないと、なにをしていたのかがわからなくなってしまうからです。
そんなこんなで、コメントや情報提供、ご意見など楽しみにお待ちします。くれぐれもお体は大切に。私のように階段から落ちるなんてことになりませんように。
お元気でお過ごしでしょうか。
私の日常は午前7時頃におきて、ワンコの散歩をして、必要なときは朝食後にすぐ出勤し午前8時30分には机の前にいます。週に一回は泊まり込み。休みは週一回あるかないか。思い切って早めに帰るときはありますが、10時頃が普通という生活です。
ブログは、そういう日常から全く切り離した世界となっています。最も身近な同僚さえ知らないというのがある意味快感となっています。仕事の密度が濃くなってくると、半年近くブログがストップします。4月には21日間のうち17日間は、仕事場で泊まり込むことになってしまいました。おかげで、仕事の頭は満タン、ブログ頭は真っ白状態。初期化されてしまいました。日常を書き散らしている分には、構いませんが、戦争の傷跡を追求する作業を再開するのは、大変です。
ごくまれにブログで展開していることを話す機会をいただきます。自分からつくる場合もありますが、この作業を知っている人に頼まれる場合もあります。それまでの探求をまとめるいい機会になり、あらたな問題意識と興味をもって、ブログをつづけようということになります。
私はロシア史を専攻しました。けれども、学生の勉学は初歩的であり、実際のスキルは身につかないままでした。その初心者がやっている作業ですから、ときどき意味を感じなくなったり、このぐらいでやめようかなという気分になるときがあります。不思議なことに、そういうタイミングで励ましや問い合わせのメールをいただきます。意味のある作業だと思い直して、つづけてきました。
あちこち見て回って集めたものを、メモのように書きなぐり、突然、思いついてまとめる・・・そんな風な4年間でした。これからも、そういうことになります。ブログは短いエントリーを脈絡なく書いていくのは適していますが、まとめようとすれば、探すのが大変です。あまり先を考えずに、カテゴリーをつくっていたら、100項目の制限にぶつかって、あわてて整理しはじめるなんてこともありました。
いっそのことサイトをつくろうかと思いました。しかし、最初に書いたような日常では、とても無理です。現職の時代は数年では終わらないと思います。それはその先にとっておく楽しみです(突然、つくるかも知れませんが)。
『「1名の将兵と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争』--気負ったタイトルをつけたエントリーを並べています。それは、一方で、遺族の方の参考になればいいと願ってのことですが、他方は、そういうまとめをどこかで(比較的余力のあるときに)しておかないと、なにをしていたのかがわからなくなってしまうからです。
そんなこんなで、コメントや情報提供、ご意見など楽しみにお待ちします。くれぐれもお体は大切に。私のように階段から落ちるなんてことになりませんように。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その15 ~営口~ ― 2011/08/30
旧大津陸軍墓地に眠る日清戦争戦没者の足取りをたどるのが目的です。『戦役経歴書 歩兵第九聯隊』、『戦役経歴書 第四師団第二野戦病院』などを使っていますが、わからないことが多いのです。
兵卒の墓碑で死亡場所が「営口」と刻まれた墓碑がいくつかあります。上の写真(恒木丈太郎の墓碑)がそれです。
『金州半島兵站監部 編成表』を見ながら、それは「営口兵站病院兼検疫所」のことだと思いました。旧真田山陸軍墓地にある日清戦争の墓碑(下の写真)には病院名まで刻まれています。
しかし、それは推察にすぎません。
旧大津陸軍墓地にある日清戦争の墓碑で、「営口」で死亡したと刻まれているのは、以下の兵卒の墓碑です。
そもそも、営口はどこに位置していたのでしょうか。
地図を見ると、遼東半島から見れば西側、遼東湾に面した港で、内陸の海城からは数十㎞の距離にあります。遼東半島の東側にある旅順口、大連湾、柳樹屯などとは反対の位置にあります。大孤山→岫巌→柝木城→海城→営口という順番でしょうか。
柝木城にいた第三大隊よりも、海城の守備をしていた第二大隊の方が営口にちかいために、亡くなった兵卒は、第二大隊に属していた可能性が高いと思います。
兵卒の墓碑で死亡場所が「営口」と刻まれた墓碑がいくつかあります。上の写真(恒木丈太郎の墓碑)がそれです。
『金州半島兵站監部 編成表』を見ながら、それは「営口兵站病院兼検疫所」のことだと思いました。旧真田山陸軍墓地にある日清戦争の墓碑(下の写真)には病院名まで刻まれています。
しかし、それは推察にすぎません。
旧大津陸軍墓地にある日清戦争の墓碑で、「営口」で死亡したと刻まれているのは、以下の兵卒の墓碑です。
7月13日 営口 一等卒 梅山 竹二郎(80)4月、5月、6月は一名もありません。
8月 4日 営口 二等卒 山田 藤吉(185)
8月10日 営口 一等卒 谷 傳蔵(190)
8月21日 営口 一等卒 伊庭 米二郎(8)
9月 4日 営口 一等卒 宮村 多治郎(72)
10月 5日 営口 一等卒 恒木 丈太郎(192)
11月 1日 営口 一等卒 勝見 市蔵(26)
11月 6日 営口 一等卒 井上 幸太郎(22)
11月 7日 営口 一等卒 今井 源松(7)
そもそも、営口はどこに位置していたのでしょうか。
地図を見ると、遼東半島から見れば西側、遼東湾に面した港で、内陸の海城からは数十㎞の距離にあります。遼東半島の東側にある旅順口、大連湾、柳樹屯などとは反対の位置にあります。大孤山→岫巌→柝木城→海城→営口という順番でしょうか。
柝木城にいた第三大隊よりも、海城の守備をしていた第二大隊の方が営口にちかいために、亡くなった兵卒は、第二大隊に属していた可能性が高いと思います。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その16 ~海城~ ― 2011/08/30
泉鏡花の小説『海城発電』の内容を、伊豆俊彦氏は、ホームページのなかで、次のように要約しています。
ですから、9月以前は、第二と第三大隊に属した兵卒、9月以降は、第二大隊の兵卒だと思われます。
一番上の写真は、念仏寺にある大伴圓蔵の墓碑の右側面の碑文で、下は同じ圓蔵の旧大津陸軍墓地にある墓碑の側面です。
「海城発電」は『太陽』一八九六(明治二九)年一月号に発表された。日清戦争当時、日本軍が占領した中国遼寧省の海城を舞台とする話である。捕虜になった日本の看護員が、清国の傷病兵の看護に尽力し、感謝状をもらって帰って来た。敵情を訊問された看護員は、夜の目も寝ず、ひたすら看護に没頭したから、敵情については何も見聞きする余裕がなかったと答えた。これに激昂した軍夫(軍の雑役をする人夫)たちは、国賊だとののしり、感謝状を破り棄てよと迫る。看護員は自分は戦闘員ではなく、赤十字の看護員であるから「職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国だのという、左様な名称も区別もない」と主張して、軍夫たちの脅迫に屈しなかった。軍夫たちは懲罰のためと称 して、この看護員を恋い慕う病気の清国人少女を引きずり出し、凌辱し、輪姦して、死にいたらせた。冒頭文はこれを目撃したイギリスの新聞記者が「海城発」として、本国の通信社に打電したものである。さて、その海城。『戦役経歴書 第九聯隊』によると、第二大隊と第三大隊が到着したのは、明治28(1895)年6月6日でした。第二大隊は11月23日までこの地に残りましたが、第三大隊は8月24日に海城を出ています。
ですから、9月以前は、第二と第三大隊に属した兵卒、9月以降は、第二大隊の兵卒だと思われます。
6月23日 海城 輜重輸卒 清水 常吉(134)上の名簿のなかに、先日、その墓碑の所在(出身地での)がわかった大伴圓蔵と井花長太郎の名前があります。死因は、『大津市志』に記述のある大橋卯三郎以外はわかりません。
6月27日 海城 一等卒 中村 竹次郎(13)
7月10日 海城 一等卒 高橋 彌三吉(183)
7月13日 海城 一等卒 坪田 石之助(142)
7月13日 海城 一等軍曹 小泉 音吉(B03)
7月15日 海城 二等卒 西川 十太郎(191)
7月16日 海城 一等卒 菅井 宇吉(100)
7月17日 海城 一等卒 小走 音松(205)
7月24日 海城 一等卒 阪本 竹松(38)
7月24日 海城 二等卒 井詰 嘉吉(159)
7月26日 海城 二等卒 吉村 広吉(4)
7月26日 海城 二等卒 大伴 圓蔵(大津市)(48)
8月 7日 海城 一等卒 川崎 利吉(18)
8月 9日 海城 二等卒 山田 元次郎(30)
8月11日 海城 一等卒 六條 伊蔵(61)
8月17日 海城 一等卒 竹内 栄次郎(17)
8月20日 海城 一等卒 松本 岩吉(146)
9月 5日 海城 一等軍曹 中沢 市次郎(B07)
9月 9日 海城 二等卒 井上 直蔵(203)
9月13日 海城 一等卒 大橋 卯三郎(大津市)(200)
9月13日 海城 一等軍曹 松室 重凞(B11)
9月14日 海城 一等卒 田畑 富蔵(175)
9月16日 海城 二等卒 青山 伊之助(71)
9月16日 海城 二等軍曹 中村 定次郎(B08)
9月18日 海城 二等卒 太田 竹松(106)
9月19日 海城 一等卒 前田 繁二郎(154)
9月21日 海城 二等卒 奥田 亀吉(114)
10月 5日 海城 一等卒 吉村 寅吉(102)
10月 6日 海城 一等卒 井花 長太郎(173)
10月16日 海城 一等軍曹 太田 末次郎(B13)
10月18日 海城 一等卒 田中 時松(140)
10月23日 海城 一等卒 宮田 梅吉(86)
一番上の写真は、念仏寺にある大伴圓蔵の墓碑の右側面の碑文で、下は同じ圓蔵の旧大津陸軍墓地にある墓碑の側面です。
「臨時陸軍檢疫部職員死者追悼之碑」 ― 2011/08/30
広島市に「臨時陸軍檢疫部職員死者追悼之碑」があることを知りました。その碑文も紹介されていましたが、カタカナは読みにくいので、すべてひらがなに直すことにしました。
まず、戦争における検疫部の重要性を一般的に述べる部分からはじまっています。
遠征の師あれば惡疫の之に随ふことは古今の戰史に徴して明らかなり。故に師の將に凱旋せんとするに先だち檢疫部を設け以って惨毒を豫防するは軍國の一大要務とす。尚も然らずんば縦令捷を外に制するも病に内に勝つことは能はずして或いは病死者をして戰死者の數よりも多からしむるに至る台察せらる可けんや。続いて、具体的な検疫の内容に触れています。
明治二十七八年戰役の終りに於て我陸軍は豫め臨時檢疫部を組織し似島彦島櫻島に檢疫所を行はしめたりき。其數船舶六百八十七隻人員二十三萬二千三百四十六名物品九十三万二千六百七十二點の多きに上れり。漢数字は直感的にわかりにくいです。船舶は678隻、人員232,346名、物品932,672点の検疫を行ったということです。
是に於て我軍國檢疫を達し全局の大功を収めたり。寔に萬古未曾有の盛事と云ふべし。鳴呼檢疫に從軍するの諸氏は一身を以て犠牲に供し一百餘日の久しき毫も倦怠の色なく遂に惡疫をして豫期の如く甚しきに至らしめずして止む。其功實に偉大なりとす。功績をたたえた部分につづいて、53名の犠牲者が出たことを明らかにしています。
就中陸軍歩兵少尉広田伸頼君以下五十有三名の如きは檢疫中病毒に感染し、以て其命を殞せり洵に其功績は陸軍檢疫部の偉業と共に湮滅す可らざるなり。乃な同志の賛助を得て之を石に勒し以て後世に傳ふること云爾これは、軍隊や軍夫らが帰国する際に、コレラ、赤痢、腸チフスなどの病原菌を国内にもちこまないように水際で食い止める努力のことですね。
明治二十八年十月三十一日
旧滋賀郡膳所町の日露戦争の墓碑を4柱(5名)を新たに確認 ― 2011/08/30
滋賀郡膳所町の『戦時事績』には、15名の日露戦争戦死者の名簿が載せられています。先月までに、6名の方の墓碑を確認していました。今月末に、あらたに5名4柱の墓碑の場所がわかりました。★印の方です。場所は、河原墓地。
○駒井 松太郎
陸軍歩兵一等卒
●藤本 清三郎
陸軍歩兵一等卒
明治37年5月26日 金州南山にて戦死
*別保墓地
●佐々木 松之助
陸軍歩兵上等兵
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台にて戦死
*別保墓地
○臼杵 重英
陸軍歩兵大尉
明治37年11月8日。清国得利寺にて病歿
★小林 泰蔵
海軍一等水兵 明治37年2月13日。旅順口にて戦死
*河原墓地
●冨永 東一
陸軍歩兵少尉
明治37年8月22日。東鶏冠山北砲台にて戦死
*岡山墓地
●徳大寺 亀一
陸軍歩兵少尉
明治37年8月22日。東鶏冠山北砲台にて戦死
*旧大津陸軍墓地
●鈴木 房吉
陸軍歩兵上等兵
明治38年3月2日。北台子附近にて戦死
*梅香山縁心寺(膳所藩主の菩提寺)
○小林 勝次郎
陸軍歩兵一等卒
明治38年3月4日。来神堡にて戦死
★小林 廣三郎
陸軍歩兵軍曹
明治38年4月5日。小貴興堡にて戦死
★北脇 藤吉
陸軍歩兵伍長
明治38年3月5日。清国馬軍丹附近で戦死
*河原墓地
★国松 藤次郎
陸軍歩兵一等卒
明治38年4月6日。大坂予備病院にて病死
*河原墓地
★国松 喜三郎
陸軍歩兵一等卒
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台にて戦死
*河原墓地
●村治 昭
陸軍少尉
明治38年8月30日 遼陽附近にて戦死
*旧大津陸軍墓地
○山口 重造
海軍中尉
明治37年12月14日旅順口外敵艦襲撃の際戦死
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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