お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
坂本龍馬の墓碑とその周囲 ― 2011/09/08
No easy walk to freedom ― 2011/09/08
市長選挙をめぐって、記者の取材を受ける。その日に記者の書いた記事を見ていなかったことに気づく。内容は会話のなかで確認できたのでよかったが、失礼なことをしたと思う。
それで終了後に、記者の記事を取り出して読む。視線の先にとまった別の市の記事が気になる。それは草津市長選挙の記事。「36年ぶりとなる30人が立候補し、3分の1近い9人が新人」とある。「固い地盤を持たずに支持を訴える都市型選挙の様相」とある。それは一般的な傾向にあるのだと思う。
興味深かったのは、今年4月のいっせい地方選挙での投票率の部分。「草津市の投票率は42.93%に対して、20代はほぼ半分の21.93%」にとどまったこと。やはり、「政治」は遠いのだ。
草津市議選では、若い候補者も出ていて、「若者が政治に参画するチャンスを」と訴えているという。しかし、その訴えは、若者自身にアピールするというよりは、投票率から考えると、上の世代のほうに効果が大きい気がする。もちろん、そんな現状でいいとは思えない。
大津市議会に当選した20代~30代の市議会議員は、超党派で、若い世代の政治参加を促す施策を議論しているときく。
いま矛盾の焦点のひとつが若い世代の雇用にあることは確かである。だが、私は、投票率の報道を見て考え込んでしまう。
一般市民は6割近く選挙にいかない。若者は8割が行かない。苦しみの活路は、どこにあるのか。それを政治に見いだせないとすれば、なにに見いだせばいいのだろうか・・・。一般参政権への遠い道のりと犠牲が報われるためには、なにが必要なのだろうか。
それで終了後に、記者の記事を取り出して読む。視線の先にとまった別の市の記事が気になる。それは草津市長選挙の記事。「36年ぶりとなる30人が立候補し、3分の1近い9人が新人」とある。「固い地盤を持たずに支持を訴える都市型選挙の様相」とある。それは一般的な傾向にあるのだと思う。
興味深かったのは、今年4月のいっせい地方選挙での投票率の部分。「草津市の投票率は42.93%に対して、20代はほぼ半分の21.93%」にとどまったこと。やはり、「政治」は遠いのだ。
草津市議選では、若い候補者も出ていて、「若者が政治に参画するチャンスを」と訴えているという。しかし、その訴えは、若者自身にアピールするというよりは、投票率から考えると、上の世代のほうに効果が大きい気がする。もちろん、そんな現状でいいとは思えない。
大津市議会に当選した20代~30代の市議会議員は、超党派で、若い世代の政治参加を促す施策を議論しているときく。
いま矛盾の焦点のひとつが若い世代の雇用にあることは確かである。だが、私は、投票率の報道を見て考え込んでしまう。
一般市民は6割近く選挙にいかない。若者は8割が行かない。苦しみの活路は、どこにあるのか。それを政治に見いだせないとすれば、なにに見いだせばいいのだろうか・・・。一般参政権への遠い道のりと犠牲が報われるためには、なにが必要なのだろうか。
原発NO!!の文字に ― 2011/09/08
恋も革命(維新)もつらぬいた木戸松子(幾松)の墓碑 ― 2011/09/08
京都の「霊山墓地」の続きである。
幕末から維新にかけての時代は、華やいで見える。登場人物が若く、また女性との恋にも事欠かない。とくに、坂本龍馬とお龍、木戸孝允と幾松などはそうである。「革命か、恋か」ではなく、「革命も、恋も」という時代である。
木戸の墓碑の隣に、木戸松子(幾松)の墓碑が置かれている。木戸の生涯の危機をなんどもいっしょに乗り越えてきた松子に最もふさわしい場所といえる。
幾松(松子)が桂小五郎(木戸孝允)に出会ったのは、まだ18歳か19歳の頃である。10歳の違いだから、木戸は28歳か29歳之頃である。
恋いも革命も実り、木戸が参議になったとき、二人は正式に婚姻をはたす。身分差をこえた、日本ではじめての正式婚姻だという。
墓碑銘は「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓」である。じっと目をこらしていて、窮屈な印象をぬぐえなかった。「松子」にたどり着くまでには、官位があり、夫の名前があり、養子家の氏名がある。それは、木戸孝允も同じである。こういうものを目にすると興ざめしてくる。
坂本龍馬の碑文は、木戸孝允が揮毫したと聞く。碑文には、位もなにもない。ただの坂本龍馬である。少しあとの時代になると「陸軍歩兵一等卒」などという階級名がつけられていく。私は俗世のしがらみを墓碑銘にまで背負わせることはないと思う。幾松が命を賭けて守ったのは、ただの小五郎ではないのか。
幕末から維新にかけての時代は、華やいで見える。登場人物が若く、また女性との恋にも事欠かない。とくに、坂本龍馬とお龍、木戸孝允と幾松などはそうである。「革命か、恋か」ではなく、「革命も、恋も」という時代である。
木戸の墓碑の隣に、木戸松子(幾松)の墓碑が置かれている。木戸の生涯の危機をなんどもいっしょに乗り越えてきた松子に最もふさわしい場所といえる。
幾松(松子)が桂小五郎(木戸孝允)に出会ったのは、まだ18歳か19歳の頃である。10歳の違いだから、木戸は28歳か29歳之頃である。
恋いも革命も実り、木戸が参議になったとき、二人は正式に婚姻をはたす。身分差をこえた、日本ではじめての正式婚姻だという。
墓碑銘は「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓」である。じっと目をこらしていて、窮屈な印象をぬぐえなかった。「松子」にたどり着くまでには、官位があり、夫の名前があり、養子家の氏名がある。それは、木戸孝允も同じである。こういうものを目にすると興ざめしてくる。
坂本龍馬の碑文は、木戸孝允が揮毫したと聞く。碑文には、位もなにもない。ただの坂本龍馬である。少しあとの時代になると「陸軍歩兵一等卒」などという階級名がつけられていく。私は俗世のしがらみを墓碑銘にまで背負わせることはないと思う。幾松が命を賭けて守ったのは、ただの小五郎ではないのか。
立ち並ぶ志士の墓碑@霊山墓地 ― 2011/09/08
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント