お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
損壊する墓碑群 ― 2011/09/16
コメント
_ やつしろ ― 2011年09月17日 04時01分27秒
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年09月17日 08時54分25秒
広範囲にご活躍ですね。
電車の場合は、降りるわけにはゆきません。車は少しまし、歩くのが一番ですが、範囲が狭くなります。
西浅井郡・・・興味深いです、その墓地(岩熊)は。
電車の場合は、降りるわけにはゆきません。車は少しまし、歩くのが一番ですが、範囲が狭くなります。
西浅井郡・・・興味深いです、その墓地(岩熊)は。
_ やつしろ ― 2011年09月17日 17時42分34秒
この二基の墓石は、同じ時期にできたのでないかと思います。
高島での場合、西南・日清・日露・満州事変・支那事変・太平洋と、時代が変わる毎に特徴がありました。
特に、私とこの田中墓地では、順々にお墓ができたので、その経過が明らかです。
(戦死者の墓を造ることが禁止されていて、ある時期からまとめて建立したところでは、経過がわかりません。)
そのことから考えると、日清や日露は、西南戦争から年代的に離れており、墓石も多いな隔たりが、感じられるはずです。
岩熊のは、それがありません。
想像ですが、「まず、日清戦役のお墓が建立された。」「えっ。うちの方が古いのに・・・。うちも、建てなアカンが・・・遠慮して、チョット小さめにしようか。その代り、戦死した年月日を、きっちり、はっきり彫り込んでもらおう・・・」てな具合で進んだのでは・・・・・ゲスの勘ぐりで申し訳ありません。
高島での場合、西南・日清・日露・満州事変・支那事変・太平洋と、時代が変わる毎に特徴がありました。
特に、私とこの田中墓地では、順々にお墓ができたので、その経過が明らかです。
(戦死者の墓を造ることが禁止されていて、ある時期からまとめて建立したところでは、経過がわかりません。)
そのことから考えると、日清や日露は、西南戦争から年代的に離れており、墓石も多いな隔たりが、感じられるはずです。
岩熊のは、それがありません。
想像ですが、「まず、日清戦役のお墓が建立された。」「えっ。うちの方が古いのに・・・。うちも、建てなアカンが・・・遠慮して、チョット小さめにしようか。その代り、戦死した年月日を、きっちり、はっきり彫り込んでもらおう・・・」てな具合で進んだのでは・・・・・ゲスの勘ぐりで申し訳ありません。
_ BIN★→やつしろさん ― 2011年09月18日 21時17分05秒
陸軍近衛砲兵平尾與三松が戦死した日付が気になります。
明治十年十月三十一日戦死とありますが、
西南戦争は、この年の2月に始まり、
9月には終結しています。
近衛砲兵の反乱である竹橋事件は
翌明治11年8月のことです。
・・・つまり、西南戦争の終結後、
コレラの流行かなんかで病死したのでは
ないかと想像します。
明治十年十月三十一日戦死とありますが、
西南戦争は、この年の2月に始まり、
9月には終結しています。
近衛砲兵の反乱である竹橋事件は
翌明治11年8月のことです。
・・・つまり、西南戦争の終結後、
コレラの流行かなんかで病死したのでは
ないかと想像します。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
前にも言いましたが、私は電車に乗って、音楽を聞きながら、ずっと外ばかり見るのが、大好きです。
前から、職業柄、墓地の存在は目に付いていましたが、今では、墓の大きさ、形に拘った見方をするようになりました。
だから、そんな旅をしてみようということです。
今回は、早朝出発。京都から「のぞみ」、東京から上越新幹線で、新潟まで。
・・・これが、馬鹿な列車で、本当に呆れました・・・「Maxとき」とかゆうやつ・・二階建てです。二階のものはいいけれど、一階乗客の目線は、プラットホームの高さですから、防音壁と空が見えるだけ・・・全線・・そればっかり・・・
よう皆、文句を言わないもんだ・・・・新潟から山形の酒田まで特急「いなほ」・・・酒田では本間家の繁栄ぶりを垣間見て、夜は居酒屋巡り・・・。
翌日(15日)は、酒田から新潟まで特急「いなほ」、そこから在来線「特急北越」を使って富山、富山から敦賀まで「特急サンダーバード」、敦賀から安曇川まで「普通」・・・・両日で20時間乗りました。
何十となく墓場を発見しましたが、降りて見に行く訳もなく・・・でもあまり収穫は、ありませんでした。
少なくとも「砲弾型」の墓碑は、皆無でした。(目はとてもいいんです。)
それに、ひょろ長い「日清型」も、ほとんどありませんでした。
だから、昨日、北回りで彦根まで、車で行きました。
一個、素晴らしい収穫?がありました。
素晴らしい高さの「日清型」が二基並んで立っていて、その小さい方・・・「陸軍近衛砲兵平尾與三松墓」、側面に「明治十年十月三十一日戦死」、建てたのは「父平尾與三吉?」です。
もう一方は、少し背が高く、文字が判りづらいのですが、「陸軍歩兵上等兵竹内安治郎墓」・・・・その他は、読めません・・・
この墓地は、最近整備されたものですが、新しい戦死者のお墓とは、際立った存在です。
場所は、旧西浅井町岩熊墓地です。