お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「比治山陸軍墓地略誌」(比治山陸軍墓地保存協賛会:昭和39年4月10日)2011/09/24

「比治山陸軍墓地略誌」(比治山陸軍墓地保存協賛会:昭和39年4月10日)
 比治山陸軍墓地が現在の姿になった経過を記した内容です。上が全体。写真を三つに分けて、ご覧いただけるようにしました。
 まず、右。
つぎに真ん中。
一番左の結びです。

サイトでの情報と実際に見ることの違いについて2011/09/24

比治山を登る途中にある案内の真新しい石碑
 サイト『広島ぶらり散歩』の記事を参考に、わずか2時間の広島滞在時間を有効に使おうと思いました。そして比治山陸軍墓地だけを見ることにしました。
 このサイトには、比治山陸軍墓地の成り立ちやそこで見ることができる墓碑などについて、網羅的に書いてあります。新幹線の車のなかで、あらためて”復習”をしました。とても感謝しています。遠い土地なので、見落としたと後悔することは辛いことなので。

 さて、広島駅を下車して、市内電車に乗りました。駅からはわずか7分の距離。「比治山下」で下車して、カミさんと二人で坂を上り始めました。わずか標高77メートルでも、上り坂ばかりなので辛くはありました。サイトではわかっているはずの場所でも、実際に見るとなったら、気持ちの高ぶりがあります。
 さて、サイトで見た印象と実物の印象は、かならずしも一致しません。
 それらの違いの多くは、敷地の広さや墓碑の大きさにかかわっています。写真では、それらは、つかみづらいのです。たとえば、比治山陸軍墓地全体の写真を見ていましたが、旧真田山陸軍墓地や旧大津陸軍墓地と同じ感覚で、広大な墓地の一部が写っているのだと思っていました。
 それに、いくつかの墓碑の位置関係もそうです。記念碑などは、個々に紹介されています。しかし、それらがどう配置されているのか、全体のなかで、どう扱われているかなどは、そこからは伝わりません。それは、墓地を訪れての印象にかかわってきます。
 また、普通の共同墓地には、かならず建物があって、そこで墓参する人が休憩したり、お参りの準備をととのえることができます。
旧真田山陸軍墓地の(現在の)入り口
 旧真田山陸軍墓地(上の写真)には、そういう施設はありません(地蔵の小さな建物は後からつくったもの)。全体の印象は、ひたすら墓碑が並んでいるというものです。旧大津陸軍墓地も、同様です。陸軍墓地はそういうものとは無縁だと思っていました。
比治山陸軍墓地の入り口
 ところが、比治山陸軍墓地は、集落の共同墓地と同じで、上の写真のように、入り口に参拝者用の建物があります。これは、当初の陸軍墓地のあり方とは違っているはずです。比治山の陸軍墓地は、激しい運命の波に洗われました。軍が高射砲の設置のために、破壊を企てたり、原爆の被害にあったり、米占領軍の破壊にあったり。元の形を見ることも大事ですが、そういう運命を見つめる墓地にもなっていると思います。

 すでに、「広島ぶらし散歩」のような詳しいサイトがあるし、ブログでも書いている方は多数いらっしゃると思います。ですから、私は、違う角度で、つまり、自分の印象を中心にして、紹介するようにしたいと思います。

戦病死した兵卒の墓碑になにを刻むか~工兵部隊が調査を求めた「雛形」~2010/12/13

工兵隊が墓碑のために調査を求めた「雛形」
 『負傷或は病に罹り臨時病院に於て死亡の者石碑調製の件』(明治11年3月)という文書を、アジ歴(C09084349000)で見つけました。
 この文書は、上記の標題にあるように臨時病院で病死した兵の墓碑の制作を受け持つ「工兵第四方面本署」が、碑文のためのデータを出すように陸軍省の旧西南戦役第2旅団に求めた文書です。

 どのような「雛形」なのか。
 上の写真がそれ。
雛形 原籍何府県下何国何郡或ハ何大区何小区何村華士族町平民何条何某子弟其他 何鎮台何兵何連隊何大隊何中隊 官名何等卒 何条何某 何月何日負傷何国何地何月何日没大阪陸軍臨時病院時齢何十何年何ヶ月

1.出身地
2.階級
3.所属
4.負傷年月日と場所
5.死亡年月日と死亡時年齢

明治8年以前の第九聯隊兵卒の墓碑は旧真田山墓地にあるのか2010/12/08

 旧大津陸軍墓地にある墓碑のうち、最も古い死亡年月日を刻んでいるのは、彦根に屯所があった十八番大隊の兵卒の墓碑で、明治5年の日付をもっています。しかし、これは、明治の末に、彦根から移葬されたものであって、最初からあったわけではありません。
 旧大津陸軍墓地は、第九聯隊が営所が大津市に新設(明治8年)されることにともなって、附属埋葬地として造られました。竣工は、明治10年10月ですが、第九聯隊の墓碑で最も古いもの(舘源左衛門の墓碑)は、明治8年7月15日の日付があります。
明治八年七月十五日死亡の「舘源左衛門」の墓
 しかし、第九聯隊そのものは、大津営所が完成する以前(明治7年)に、設けられていましたから、その間に亡くなった兵卒は、どこに葬られたのかということになります。たぶん、旧真田山陸軍墓地だろうと思っていましたが、その例証を見つけました。

「兵卒木村松之墓」

死亡年月日は、「明治七年十月に𠘨三日
右側面には、「近江国甲東郡杣中村□兵衛男とあるそうです。F-37-21.

「陸軍一等兵福嶋松次郎之墓」

福嶋の墓碑を見ると、明治7年4月22日に歩兵第九聯隊に入営し、明治10年11月13日に、大坂鎮台病院で亡くなっています。想像するに、西南戦争に出征後、亡くなったのだと思います。戦の終わったあとにです。F-41-21。

陸軍兵卒・山中鹿蔵の死亡と埋葬についての記録2010/12/07

陸軍兵卒・山中鹿蔵の死亡と埋葬についての記録
 山川招魂社に、西南戦争で亡くなった歩兵第九聯隊将兵の墓碑が16柱あるのを、ネットで見つけました。その際、同じ人物の墓碑と思われるものが2柱でてきました。それが「滋賀縣近江国甲賀郡三大寺村平民」山中鹿蔵の墓碑でした。
 2柱あることが不思議でしたから、名前が記憶に残っていたのでしょう。アジ歴の資料のなかから、偶然、この人物の死亡と埋葬についての記事を見つけました。
 これを読むと、いったん別な場所に仮埋葬して、あとで移葬したことがわかります。それが2柱ある理由でしょうか。しかし、同じ人物の墓碑を一つ別の墓碑をはさんで並べるのは異常です。
 内容から、いざ凱旋というときに、コレラで亡くなったことがわかります。なるほど、気がつきませんでしたが、死亡年月日は、西南戦争の終結後です。
陸軍省
内容 工兵第六方面ヘ御達案 後備第五大隊故兵卒山中鹿蔵一昨十年西南之役凱旋之際筑前刻山家駅ニ於テ虎列剌病ニ罹リ死込之末同所字本谷ヘ仮埋葬相成居候ニ付於其方面筑後国久留米茶臼山陸軍埋葬地ヘ改葬可取計此旨相達候事 但改葬入費ハ旧軍団会計部ヨリ可請取事
もうひとつ記事がありました。ほぼ同じ。
陸軍省
軍会事第四百六十七号 筑前国山家駅ヨリ久留米茶臼山埋葬地御改葬之儀ニ付伺 後備第五大隊第四中隊 故兵卒山中鹿蔵 一昨十年西南之役平定凱旋之際福岡県下筑前国山家駅ニ而虎列剌病ニ罹リ死亡之末同地山家村字本谷御仮埋葬相成居候由有ハ戦死同様取計可申儀ト被存候願@@最寄久留米字茶臼山埋葬地御改葬致度然ル処僅一名之儀ニ付工兵第六方面御依託レ改葬相成度候旁々便利ト被存候間有改葬方之儀同方面御達ニ相成度然シテ改葬入費之儀ハ非常金之内ヨリ御支払相成候様致度此段相伺候也 明治十二年二月十七日 旧軍団会計部副長監督川崎祐名 旧軍団事務所御中
 私がほんとうに探していたのは、名古屋鎮台「朽木六蔵」少尉についての記事でした。あとでわかったことですが、山中鹿蔵は、この名前だけで記事が出てきます。朽木六蔵の場合は、出てきません。記録がない・・・ということなのでしょうか。

Uさんの贈り物=函館 陸軍墓地の写真2008/09/19

Uさんの贈り物=函館 陸軍墓地の写真
Livrer's Dream管理人のUさんにお願いして、
函館の陸軍墓地の写真をいただくことができました。

この写真から、
住宅街のなかにあって、草生していること、
鉄の柵で囲われていること、
案外狭くて、個人墓碑しか見えないことなどが
わかります。

墓の表面に気になることがありますが、
それは、もう少し調べてからにします。

ありがとうございます。

「陸軍墓地 荒廃の危機」(広島比治山)という記事とHBさんに2008/09/14

『陸軍墓地 荒廃の危機』(産経新聞8月23日付)
 8月23日付けの産経新聞に、「陸軍墓地 荒廃の危機」という記事が載りました。この日のトップ記事は、北京オリンピックで男子400メートルリレーの銅メダル獲得を伝えるものでした。
 それで、思い出して、古新聞をお隣さんからいただいてきました。
 旧真田山陸軍墓地につづく大きな規模の墓地が、国の管理から市の管理に移されたのち、保存にふさわしい予算がつけられることなく、ボランティアの努力で維持されているが、その高齢化がいちじるしく、今後があやぶまれ、荒廃の危機にあるという内容でした。
 私は、これを読んで、心にチクリと刺さるものがありました。
 旧大津陸軍墓地の調査と保存運動をしようと去年から、仕事の合間に取り組んでいるつもりですが、当地で開催できた見学会(語る会)は去年11月のただの1回。
 それ以降、個人的な調査はしているものの、保存にむけてのアピールなどの活動が止まっているからです。
 逡巡しているときに、HBさんからのコメント。
 ありがとうございました。元気をいただきましたよ。
 この一年間で、判明したことなどを含めて、どこかでけじめをつけて、報告会もしくは見学会をしたいと思います。仕事柄・・・可能なのかと不安になりますが、大津にも協力していただける方がいるのですから。

「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その3 墓碑と記念碑2008/08/29

七本柿木台場薩軍墓地
七本官軍墓地には、個人墓碑がありましたが、
七本柿木台場薩軍墓地には、ありません。
これが最初に気づく点です。

 上の写真は、墓碑の遠景です。
 左は「西南役薩軍戦没者墓碑」。
右が戦死した熊本県士303名の墓碑です。
まだ文字をしっかり読み取ることができます↓。



 下の写真には、記念碑が写っています。

わかりにくいですが、ベンチと大きな木が2本あり、
右の木の傍に墓碑が小さく写っているのがそれです。



下の写真のように「熊本諸隊奮戦之処」と刻まれています。

「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その22008/08/29

「七本柿木台場薩軍墓地」入り口
 道路わきの案内板を見つけて、左折して、薩軍墓地の駐車場に入ります。
 10数台が収容できる駐車場は、アスファルト舗装。そこに面して、石の階段があり、そこが墓地の入り口となっていました。

七本柿木台場薩軍墓地」に到着しての第一印象は、農地のなかにさりげなく置かれている素朴な墓地ということでした。もちろん、墓地にけばけばしさは似合いません。わかりやすくいえば、観光地としてわざとらしい扱いがないということでしょうか。それでも、駐車場などが整備されて、史跡としての扱いになっています。
 先の日記には、おそらく墓地創設のころのものと思われる「薩軍墓地」という石碑の写真を載せました。こちらのほうが、きれいな木の案内よりも私にとっては貴重なものです。私は、できるだけ当初の姿に触れたいと思っていましたから。



 「西南役薩軍戦没者墓碑」と金文字が彫られた記念碑があります。
 これは死者を悼んで建立されたのでしょうけれど、薩軍墓地の当初の形態に触れたい私には、複雑な気分なのです。史跡としての薩軍墓地、死者を追悼する施設としての薩軍墓地ともに、大切にすべきだとは思います。

「七本柿木台場薩軍墓地」の見学記 その12008/08/29

「七本柿木台場薩軍墓地」
 官軍と薩軍にわかれて、両軍あわせて7万8千の兵力がたたかい、1万6千の死者を出した1877年の西南戦争。大河ドラマの素材とならなければ、関心をもつ人が多くはないでしょう。
 下の写真は、旧真田山陸軍墓地(大阪玉造)にある西南戦争で亡くなった方の墓碑です。



 ごらんのように西南戦争ではなく、「鹿児島県賊徒征討之役」と刻まれています。昨年、はじめて見て衝撃を受けました。この烈しい非難をこめた名称は、明治政府の側の危機感の現れにほかなりません。



 それだけに、官軍墓地だけではなく、薩軍墓地が存在することに別の驚きをもちます。
 死ねば同じなのですから、ともに葬るという考え方もありえます。しかし、死後も官軍と薩軍の墓地を明確に分けたところに、戦争のもたらした内戦の傷跡が見えるのです。

 お盆明けのブログにも書きましたが、実際に行ったのは、8月15日です。大分竹田市に到着したときに、いきなり行くことを思い立ったので、事前の調査なしでした。ともかく、いくつかある官軍墓地・薩軍墓地のなかで、一つでも見ることができたらいいというのが私の希望でした。
 田原坂を見ることを第一にして、その付近の官軍墓地・薩軍墓地を探しました。そこで、到着したのが、「七本柿木台場薩軍墓地」でした。
 「七本官軍墓地」とは目と鼻の先でした。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)