お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「高杉晋作」の文字@旧大津陸軍墓地2008/02/09

「高杉晋作」の文字が見える陸軍中佐井戸順行の墓碑文
 幕末の長州と大津市の結びつきを見ることができる墓石が、「陸軍歩兵中尉・田中忠孝墓」以外にも、あります。
 「高杉晋作」は奇兵隊の創設者として有名ですが、その名前が刻まれています。

 これは、「陸軍歩兵中佐 井戸順行墓」背面の碑文の一部です。
 ちなみに、井戸順行は、長州の萩の出身。幕末に、遊撃軍に入隊。のちに、中佐となって、大阪鎮台(第四鎮台)第九連隊長となった人です。
 明治20(1887)年3月9日に47歳で死去。
 この墓石は、旧大津陸軍墓地にあります。

「陸軍歩兵中尉従七位勲五等田中忠孝墓」碑文2008/02/08

奇兵隊出身田中忠孝の墓碑
旧大津陸軍墓地の田中忠孝墓の碑文には「奇兵隊」という文字が刻まれています。碑文全体を読んでみることにしました。

クリックすれば、大きくなります。

まちがっている点があれば、ご教授願います。

「幼字称防人山口県長門国阿武郡江向村住士族九右衛門四男也藩政之時入奇兵隊屡従軍後奉職於陸軍以中尉在陸軍歩兵第九連隊偶罹病明治二十年七月十七日終歿干時歳三十七年九月」

以上から、生年は、1849年11月あたりでしょう。
明治維新のときは、17歳ということになります。
 田中彰氏の先の本でも、戊辰戦争の官軍側の主力は、奇兵隊であることが、その犠牲者数の割合からもわかります。

 さて、東北の平定を終えたとき、明治政府の前に、直轄軍の編成が課題として浮かびます。

 どこから、それを生み出すか?

 下手に書くより、引用しておきます。

「天皇政府としては、いかにして直轄軍事力をもつかが焦眉の急であり、明治元年四月二十日には陸軍編成法を、ついで二十四日には同法の細則を決め、八月二十三日には、府県兵の規則を軍務官によって統一しようとしていた。そして、十月十日には、政府は諸侯による兵隊指揮を禁じたのである。
 翌明治二年には政府の軍事力集中はさらに進められ、四月八日には府県による兵員の新設は禁止された。」(121頁)

 明治政府は、奇兵隊を直轄軍(東京常備軍)として確保する意向でしたが、その数は未定でした。
 財政困難な山口県は、奇兵隊2000名を派遣することを希望しましたが、回答は1500名。
 細かい経過を省くと、奇兵隊員のすべてが軍隊に職を得ることができたわけではないのです。現在でいう厳しいリストラ=「精選」が行われることとなり、隊内に動揺が生まれ、やがて反乱へとつながるのです。
 その反乱が農民一揆との結びついたとき、明治政府は重大な脅威に直面します。奇兵隊とともにたたかったはずの、木戸孝允が先頭となり、厳しい弾圧を行い、壊滅させるのです。

 話を戻すと、田中忠孝は、同じ奇兵隊出身でも、農民や町民ではなく、士族出身であることがわかります。これが、新生陸軍に「精選」されるときでも、重要な要因だったかも知れません。
 旧大津陸軍墓地に眠る元奇兵隊員の田中忠孝は、いわば勝ち組となって、明治20年まで生き延びたといえます。
勝ち組といっても、おなじ奇兵隊出身の山県有朋(狂介)と比べれば、ささいなものにすぎませんが。
   最後に、いつから、第九連隊に配属されたのか、これだけではわかりません。第九連隊の士官には、多様な人たちが配属されていたことだけは、よくわかります。

《奇兵隊》の文字が彫りこまれた墓石@旧大津陸軍墓地2008/02/08

「奇兵隊」所属をしめす碑文
 私が田中彰『高杉晋作と奇兵隊』(岩波新書)を買った直接のきっかけは、上の写真にありました。
「奇兵隊」という文字が見えます。

 これは、以前にも紹介しましたが、旧大津陸軍墓地の「田中忠孝中尉」の墓石に刻まれてました。
 いまから150年ほど前の幕末、そしてはるか遠い山口県の歴史的な部隊が、生々しい実体として、目の前に迫る思いがしました。

 これを見つけた頃は、珍しいものがあった程度の認識でした。
上記の本を読んだあと、別の感慨が浮かんできます。
 この「田中忠孝」という人は、幕末の時代、さまざまな戦役に参加したことでしょう、また、戊辰戦争にも参加したかも知れません。
 そして、「精選」されて、新設陸軍に入ったのです。
 明治20(1887)年7月17日、37歳で、大津の陸軍歩兵第九連隊にいたときに死亡ということがわかっています。

 碑文をもっと精査して、その生き様をさぐってみることにします。

将校ブロックメモ@旧大津陸軍墓地(作業中)2007/12/02

来年1月末まで忙殺される見通しなので、
調査を再開するときに役立つ(中間総括的な)メモをつくることにしました。(作業中

●まず、将校ブロック

個人墓碑については、大津市が1970年代につくった資料の連番をそのまま用います。1と2は、合葬碑。3から22番までの20基が将校(相当)の個人墓碑です。

3.陸軍歩兵大尉正 七位勲六等 浅野 典則

  没年月日は、大正9(1920)年2月17日。
  この方については、詳細はわからないままです。

4.陸軍歩兵少尉 正八位 田中 幸太郎

  没年月日は、明治28(1895)年2月18日

この日付は、日清戦争で第一回目の清国との講和会議(2月1日)と二回目の会談のために、李鴻章が来日した日(3月19日)の間に位置しています。同時に、第四師団が前年12月に動員完了しながら、じりじりと出征命令を待ち続けているときにあたります。出征は、3月28日でした。ですから、動員と出征という狭間の期間に亡くなられたことになります。この方も、詳細はわからないままです。

5.陸軍歩兵大尉 従七位勲五等功五級 徳大寺 亀一

  没年月日は、明治37(1894)年8月22日。

  この方は、日露戦争のとき、陸軍歩兵後備第九連隊の将校として出征。乃木大将の第三軍の指揮下に入り、旅順要塞の攻撃に参加します。旅順攻撃は、明治37(1894)年8月21日に開始されます。後備第九連隊は、この日の攻撃で、連隊長と二人の大隊長が戦死。24日の再度の攻撃で壊滅します。徳大寺大尉は、この激戦の最中22日に戦死。
 個人的な経歴などはわかりません。

6.陸軍歩兵大尉 従七位勲五等功五級 伏木 徳太郎

  没年月日は、明治37年8月24日

  この方も、徳大寺亀一大尉とともに、後備第九連隊の将校として、旅順攻撃に参加。そこで戦死されています。戦死された日付は、この連隊が壊滅的な打撃をこうむった日になっています。
  伏木徳太郎大尉の墓碑は、遺児の敏子という方が建立されています。
  旧大津陸軍墓地には、この方の奥さんの(伏木胤子)墓碑も立てられています。
  この墓碑も、同じ敏子さんが建てられています。「遺弧敏子」と刻まれているのは、遺されて孤児となったという意味ではないかと思います。(私は、「敏子」という方のほかに、「孤敏子」という方がいると思ってしまいましたが。)
  私は、この墓碑を見ると、胸がつまる思いがします。
  伏木大尉の経歴については、まだなにもわかりません。

7.陸軍歩兵大尉 正七位勲六等 松浦 文夫

  没年月日は、明治28年10月29日

8.陸軍二等軍医正 正六位勲四等 村治 重厚

  没年月日は、大正5年12月21日

9.陸軍歩兵中佐 従五位勲四等 井戸 順行

  没年月日は、明治20年3月9日

10.陸軍歩兵少佐 従五位勲四等 中山 充蔵

  没年月日は、明治34年2月6日

11.陸軍歩兵少佐 従五位正六位勲四等功五級 奈良銊治郎

  没年月日は、明治37年8月22日

  この方も、後備第九連隊付きの将校として日露戦争に出征。旅順攻撃の最中に戦死されました。少佐は、死後の昇進によります。

12.陸軍歩兵中尉 従七位勲五等 田中 忠孝

没年月日は、  没年月日は、明治20年7月17日

13.陸軍歩兵大尉 正七位勲五等 谷村 元吉

  没年月日は、明治38年7月17日

14.陸軍歩兵少尉 正八位勲六等功五級 村治 昭

  没年月日は、明治37年8月31日

  前にも引用した明治44年の『大津市志』では次のように書かれています。
大津市神出
陸軍歩兵少尉正八位勲六等功五級 村治 昭
明治十六年二月十七日生
明治三十四年十二月士官候補生出身。歩兵第九連隊小隊長として三十七八戦役従軍。各地戦闘。明治三十七年八月三十一日遼陽付近の戦闘に於て面部貫通銃創を受け戦死。同日戦功に依り叙勲六等単光旭日章並に功五級全鶏勲章従軍記章を賜はり、同三十八年五月靖国神社に合祀される。

15.陸軍歩兵中尉 従七位 伊東 兼太郎

  没年月日は、明治28年5月7日

16.陸軍歩兵少尉 正八位勲六位功五級 鎌倉 誠一

  没年月日は、明治37年9月6日

17.不明

18.陸軍歩兵大尉 南保 一義

  没年月日は、不明。

19.陸軍歩兵中尉 従七位 宮田 金之助

  没年月日は、大正7年10月30日

20.陸軍歩兵大尉 従六位勲四等 稲垣 伊右衛門

  没年月日は、大正6年4月26日

21.陸軍歩兵少将 正五位勲三等功四等 草場彦輔

  没年月日は、明治45年1月5日

22.陸軍歩兵中佐 従五位勲四等 西田 源吾

  没年月日は、昭和5年8月29日
  旧大津陸軍墓地全体でもっとも年代の若い墓碑です

将校の墓碑から見えてくるものはなにか@旧大津陸軍墓地2007/11/27

●将校の墓碑から見えてくるもの

 旧陸軍墓地には、20基の将校の墓碑があります。
将校の経歴を調べながら、
この人の墓碑がここにあるのには、
それなりの深い理由がある

と思うようになりました。
 墓碑は直接には語りませんが、
経歴のなかから浮かびあがるものがあるのです。

●井戸順行中佐の場合

たとえば、
第五代第九連隊長の井戸順行の場合は、
家族が建立した碑ではありません。
碑から読み取れることは、
彼氏には子どもがなく、
その功績や生き方を語り継ぐ人がないということ、
そして、同僚からの信望。
「滋賀県山上の地の石で建てる」という文書は、
この地への井戸順行のかかわりとして
興味深いものがあります。

●草場彦輔少将の場合

 草場彦輔の場合は、
もっとも輝かしい経歴を
つんだところが第九連隊であったこと、
それゆえ、滋賀県大津市の膳所に
居住していたのだと思われます。
 何代か前の第九連隊長、
たとえば、山口素臣の場合は、
第五師団長などへ登っていきますから、
ここに墓碑をおく必要はないのです。
 草場は、自分の故郷を離れたこの地に、
遺言で墓碑を建てるように言い残しています。
そして、妻もこの地に眠っています。
故郷(福岡県)を離れた軍人が、
「軍こそわが故郷」と
いっているように思えるのです。
 電話帳で、草場という名前を調べてみても、
大津市には見当たりません。
愛着をもつこの地でしたが、
眠る人たちの思いを語る係累は
もはやどこにもいないのでしょうか。

大尉中山充蔵落失換印鑑廻付義申入(明治12年9月)2007/11/27

●中山充蔵大尉

 中山充蔵が大尉であったころの文書。経歴の全体がわからないだけに、個々の事実をたどるしかない。

近三百八十三号 陸軍大尉中山充蔵ヘ御渡相成度候第八十号御門鑑毀検之儀ニ付同人ヨリ待差出処分漏ニ付御門鑑通ニ及候也 九月三十日児嶋中佐 近衛局局御中 誌

「大日記 参謀監軍両本部省内各局近衛局病院軍馬局 9月水 陸軍省第1局」

C04028586200

第五師管軍法会議判士長 陸軍歩兵少佐 中山充蔵2007/11/27

●中山充蔵

 旧大津陸軍墓地の将校の墓地には、「陸軍歩兵中佐従五位勲四等中山充蔵墓」がある。
 この方については、ほとんどわからない状態で、11月24日を迎えた。資料の調べ方に慣れてきたので、検索に再度挑戦。いくつかヒットした。
 それは第九連隊とはあまり縁のないと思われる軍法会議の判士長としての中山充蔵の経歴だった。下の文書は、「第五師団長男爵山口素臣||第五師管軍法会議判士長陸軍歩兵少佐中山充蔵||第五師管軍法会議判士陸軍歩兵大尉河南環」によって作成されている。

●軍曹勲位等褫奪の件(明治30年6月23日~明治30年6月30日)

肆第二五四号 二四八七号 第五師団 勲章弁従軍記章還納之件 提出 三十一年六月 日 士員勲局総裁ヘ申入案 歩兵第二十一連隊第六中隊 陸軍歩兵二等軍曹 右勲位並明治二十七八年従軍記章褫奪相成候ニ付勲章並記章等収奪之上左記之通還納@也 陸軍省受領 送甲第一五二八号 六いい有二十二日 記 一勲章 箱共 一个 一勲記 仝 一枚 一年金証 一枚 一記章 箱共 一个 一証状 一枚 肆第二五四号 二四八七号 第五師団 勲章弁従軍記章還納之件 提出 三十一年 月 日 第五師団司令部江 歩兵第二十一連隊第六中隊 陸軍歩兵二等軍曹 右

明治31年 「肆大日記 6月」

C07071415700

 明治34年の時点では、同じ地位を陸軍歩兵大佐石橋健蔵が占めている。

ちなみに、山口素臣は、二代目の第九連隊長である。

1.8 宇品 草場歩兵第9連隊長発 連隊悉皆宇品着乗船す(明治29年1月8日 歩兵第九連隊長 草場中佐)2007/11/26

二十九年一月九日 陸参第一五号 秘 電報一月八日午後六時三十八分宇品発 一月八日午後七時十八分着 第九連隊悉皆五時三十五分宇品ニ着直チニ乗船ス 宇品 歩兵第九連隊長 草場中佐 大本営

明治27 8 9年 「勅語令旨奉答 庶」

C06061801800

●草場彦輔は台湾征服戦争へ出征

 第九連隊長としての功の第一は、
明治29(1896)年の台湾征服戦争での活躍にある。
この電報は、そこへ向かうときのもの。

草場歩兵中佐結婚願の件(第四師団長男爵山沢静吾 明治29年12月14日)2007/11/26

●草場彦輔・陸軍歩兵中佐の結婚

肆第九三七七号 第四師団 草場歩兵中佐結婚願之件 提出 二十九年十二月十七日 本人願書ヘ御指令按 願之通 十二月十八日 庶天第八二九号 結婚願書進達之儀ニ付禀申 陸軍歩兵中佐草場彦輔 右結婚致度旨別紙願書差出候ニ付取調候処不都合无之候間御許可相成度此段及禀申候也 明治二十九年十二月十四日 第四師団長男爵山沢静吾 陸軍大臣子爵高島鞆之助殿 結婚願 東京府武蔵国@摩郡大久保村大字西大久保@族 小倉英季姉 栄子 慶応元年六月六日生 明治二十九年十二月三十一年七ケ月 彦輔儀 今般熟談ノ上右ニ記載ノ者ト結婚致シ度依テ別紙身元証書相添差出候間御許可被下度此@奉願候也 明治二十...

明治29年 「肆大日記 12月」

C07071113700

●福岡藩士・草場傳斎長子 草場彦輔

 草場彦輔は、福岡藩士の長子である。
生まれは寛永二(1849)年5月1日生まれ。
したがって、このとき47歳になっていた。

●華族・小倉英季姉 草場栄子

 前にも書いたとおり、
旧大津陸軍墓地には、
将校夫妻が同じ墓地で眠っている。

草場彦輔・栄子夫妻もそうである。

将校、下士官など階級ごとに
結婚の許可条件が定められていて、
結婚は、個人はおろか、両家が
勝手に決められる行為ではなかったのである。
 栄子は、東京都の華族出身である。
慶応元(1865)年6月6日生まれだから、34歳。
二人の一生がどうであったのかは、
彦輔・栄子夫妻自身しかわからないが、
同じ墓地に眠っていることを思うと、
まずは幸福であったのではないかと
思えるのである。

●没年について

 草場彦輔は、大津の膳所で亡くなった。
明治45年1月5日のことである。
遺言により、大津陸軍墓地に葬られた。
一方、妻の栄子は、大正12年9月12日に亡くなっている。

故井戸順行扶助料の件(明治20年6月)2007/11/26

送甲第八二五号 故井戸歩兵中佐扶助料下賜之件 大臣 内閣大臣宛 許可令発送

明治20年6月 「壹大日記 壹」

C03030235800

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)