お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ギャラリーQにて戦跡写真展示会(11/15~20) ― 2019/11/15
10/27見学会への準備 その3 ― 2019/10/12
清国俘虜兵「汝 恒信」の墓碑は日清戦争出征兵士の墓地とは別にある ― 2010/10/03
以前にも紹介したことがありますが、
日清戦争のとき、捕獲した清国兵士が、
俘虜として各地に収容されました。
大津市内では、別院と本長寺が収容所でした。
記録によれば、そのうち2名が病死。
大津陸軍墓地に埋葬したとあります。
上の写真は、そのうち1名の墓碑です。
正面には、「汝 恒信」とだけ刻まれています。
国籍や階級などの標記はありません。
つぎの写真を見てください。
旧真田山墓地の清国俘虜の墓碑です。
氏名の前に、「清国■■」と刻まれています。
墓地を訪問した中国の代表が無惨だということで、
「俘虜」の文字を埋めてもらった経過があるとか。
墓の標記も、同じ陸軍墓地でありながら、
異なることがわかります。
埋葬場所は、大津営所で訓練中に病没した
第九聯隊の兵士と同じ場所です。
現在のKブロック。
下の写真の真ん中にある墓地です。
当然のことですが、
日清戦争期に遼東半島や台湾、輸送中の船内などで
亡くなった日本将兵とは別のところにあります。
大津の第九聯隊が所属した第四師団は、
下関条約以降に、遼東半島に上陸したために、
実戦には参加せず、守備的な任務に就きました。
しかし、日清戦争全体がそうであったように、
出発前から、赤痢やコレラなどの流行に
見舞われ、病没する将兵が続出しました。
それらの兵士の墓は、新たに造営された
墓地(Eブロック)に置かれています。
日清戦争のとき、捕獲した清国兵士が、
俘虜として各地に収容されました。
大津市内では、別院と本長寺が収容所でした。
記録によれば、そのうち2名が病死。
大津陸軍墓地に埋葬したとあります。
上の写真は、そのうち1名の墓碑です。
正面には、「汝 恒信」とだけ刻まれています。
国籍や階級などの標記はありません。
つぎの写真を見てください。
旧真田山墓地の清国俘虜の墓碑です。
氏名の前に、「清国■■」と刻まれています。
墓地を訪問した中国の代表が無惨だということで、
「俘虜」の文字を埋めてもらった経過があるとか。
墓の標記も、同じ陸軍墓地でありながら、
異なることがわかります。
埋葬場所は、大津営所で訓練中に病没した
第九聯隊の兵士と同じ場所です。
現在のKブロック。
下の写真の真ん中にある墓地です。
当然のことですが、
日清戦争期に遼東半島や台湾、輸送中の船内などで
亡くなった日本将兵とは別のところにあります。
大津の第九聯隊が所属した第四師団は、
下関条約以降に、遼東半島に上陸したために、
実戦には参加せず、守備的な任務に就きました。
しかし、日清戦争全体がそうであったように、
出発前から、赤痢やコレラなどの流行に
見舞われ、病没する将兵が続出しました。
それらの兵士の墓は、新たに造営された
墓地(Eブロック)に置かれています。
病没した日本人兵士も清国兵士も等しく埋葬される ― 2010/10/03
写真は旧大津陸軍墓地のKブロック。
ブロック名は私が勝手につけました。
1970年代の湖西バイパス工事のために、
かつてあった墓地は崩され、
現在の地に移されたゾーンです。
そのときと現在も変わらないことはあります。
宿営地(大津)で病没した兵士も、
本長寺に収容され病没した清国俘虜も、
同じ場所に埋葬されていることです。
清国俘虜の墓碑は、2柱あります。
赤レンガで囲ってありますので、
わかると思います。
この囲いは、もともとはなかったはず。
この写真も、清国俘虜の墓碑も
前にも紹介しました。
しかし、尖閣諸島の問題がでてきました。
感情的な対立をあおる議論もあります。
そういうときだからこそ、
なにかの役にたつと思い、
事実として、あらためて紹介しました。
ブロック名は私が勝手につけました。
1970年代の湖西バイパス工事のために、
かつてあった墓地は崩され、
現在の地に移されたゾーンです。
そのときと現在も変わらないことはあります。
宿営地(大津)で病没した兵士も、
本長寺に収容され病没した清国俘虜も、
同じ場所に埋葬されていることです。
清国俘虜の墓碑は、2柱あります。
赤レンガで囲ってありますので、
わかると思います。
この囲いは、もともとはなかったはず。
この写真も、清国俘虜の墓碑も
前にも紹介しました。
しかし、尖閣諸島の問題がでてきました。
感情的な対立をあおる議論もあります。
そういうときだからこそ、
なにかの役にたつと思い、
事実として、あらためて紹介しました。
日清戦争の「俘虜清人」収容所=大津別院 ― 2008/02/25
日清戦争の俘虜収容所となった大津別院の入り口です。
「俘虜清人」とその収容所の写真があるはず ― 2008/02/25
「星野錫より 俘慮清人の実況其他戦地の状況撮影の件」という明治27年11月5日付けの文書が、「アジア歴史資料センター」にあります。
これによれば、松山、大阪、大津、名古屋、豊橋、佐倉などの収容所で写真が撮影されていることがわかります。
写真を入手できるものなら、してみたいものです。
これによれば、松山、大阪、大津、名古屋、豊橋、佐倉などの収容所で写真が撮影されていることがわかります。
朝第三五九六号 星野錫 俘虜清人ノ実況其他戦地ノ状況撮影ノ件 廿七年十一月五日 御指令案 願之趣戦地ノ景況撮影ノ儀ハ種板ヲ貸下当省ヘ申出ツヘシ 但俘虜清人ノ状況及負傷者治療実況撮影ノ儀モ松山、大坂、大津、名古屋、豊橋、佐倉等俘虜所在地ノ俘虜廠舎若クハ俘虜所在病院申出其指揮ヲ受クヘシ又撮影ノ上ハ見本トシテ各五枚ツツ当省ヘ納付スヘシ 高級副官ヨリ留守第一第三第五師団及第四師団各参謀長ヘ通牒案 東京市日本橋区兜町二番地東京製機会社支配人星野錫ヨリ本邦@留ニ係ル俘虜清人ノ状況及負傷者治療実況撮影致度願出候弥御伺届相成俘虜所在ノ俘虜廠舎及病院ヘ申出ツヘキナリ御指令相成候間撮影ノ儀申出候節ハ可成仮写ヲ与ヘラレ度旨予メ其向ヘ。C05121606800
写真を入手できるものなら、してみたいものです。
軍、経、医、法の局部より 俘虜取扱の件(明治27年8月22日) ― 2008/02/25
日清戦争での俘虜の扱いについての陸軍の指示文書が「アジア歴史資料センター」で見つけることができましたた。明治27(1894)年8月22日。
これに基づいて、日本国内に送られた俘虜が取り扱われたと思われます。
C05121518500
これに基づいて、日本国内に送られた俘虜が取り扱われたと思われます。
第一〇〇号 至急 陸第七九号 臨経一甲第八八九号 軍一課第一〇五号 経一甲第八八九号 朝密第三四〇五号 今般装置相成候俘虜取扱ニ関シ左按之通訓令相成度及上申候也 明治二十七年八月二十二日 軍務局長 経理局長 医務局長 法官部長 留守第五師団長ヘ訓令按 今回戦地ヨリ装置候俘虜ハ左ノ規定ニ拠リ取り扱フヘシ 一 広島近傍防御線内ニシテ他日集中軍隊ノ舎営トナルベキ地区ト離隔シタル処ニ於テ俘虜廠舎ヲ設置スヘシ 二 俘虜廠舎ニハ寺院若クハ適当ノ民屋ヲ以テ之ニ充テ将校同相当官ノ居室ハ下士卒ト区別スヘシ 三 俘虜廠舎ニ容ルヽ人員ハ約百名ヲ限リトスヘシ島俘虜置場ノ人員満ツルトキハ逐次ニ丸亀松山ノ衛戌地ニ設クヘシ<
C05121518500
旧真田山陸軍墓地の清国俘虜の墓には「俘虜」の文字が刻まれていた? ― 2008/02/13
上の写真は、旧真田山陸軍墓地の一角です。
画面の真ん中、角に清国俘虜兵の墓が見えます。
「故清国」と書かれている墓石です。
そこには、文字を埋めた痕跡があります。
これには、「俘虜」の二文字があったと思われます。
一方、旧大津陸軍墓地には、こういう文言を埋めた
痕跡がないのは、汝恒信と寶少春の墓の写真を
見ていただければわかります。
では、ちがいはどこに生まれているのか?
死亡した俘虜の埋葬上の扱いについて、
陸軍省への問い合わせとその回答が残っています。
塚崎さんによれば、問い合わせを受けた
陸軍省は、国際法に照らして検討をしています。
大津の場合は、その回答をうけて、
なにも記入しなかったと思われます。
では、真田山は?
これは、わかりません。
画面の真ん中、角に清国俘虜兵の墓が見えます。
「故清国」と書かれている墓石です。
そこには、文字を埋めた痕跡があります。
これには、「俘虜」の二文字があったと思われます。
一方、旧大津陸軍墓地には、こういう文言を埋めた
痕跡がないのは、汝恒信と寶少春の墓の写真を
見ていただければわかります。
では、ちがいはどこに生まれているのか?
死亡した俘虜の埋葬上の扱いについて、
陸軍省への問い合わせとその回答が残っています。
塚崎さんによれば、問い合わせを受けた
陸軍省は、国際法に照らして検討をしています。
大津の場合は、その回答をうけて、
なにも記入しなかったと思われます。
では、真田山は?
これは、わかりません。
清国俘虜2名の死亡と陸軍墓地への埋葬を記した文書(明治27年) ― 2008/02/13
俘虜・汝恒信の墓@旧大津陸軍墓地 ― 2008/02/13
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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