お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
俘虜・寶少春の墓石@旧大津陸軍墓地 ― 2008/02/13
明治27(1894)年10月15日、日清戦争の俘虜100名が大津に到着 ― 2008/02/13
陸軍歩兵第九連隊長・内藤正明から、陸軍大臣代理児玉源太郎宛の明治27年10月20日付けの文書が残っています。
上の写真は、その一部。
これによると、100名の清国人俘虜が明治27(1894)年に大津町(現在の大津市)に到着したことが報告されています。
俘虜は軍曹以上の階級はなく、また赤痢などの病気に罹っているものがいることも報告されています。
健康なものは、大津別院に、感染しているものは、本長寺に収容したとあります。
C06060076900
この文書は、昨年見つけましたが、旧大津陸軍墓地の中国人兵士の墓との関連を見抜くことができませんでした。
それにしても、『新修大津市史』にも、清国俘虜の記述がまったくありません。したがって、市民の間で、この事実を知るものはほとんどいないのではないでしょうか。
上の写真は、その一部。
これによると、100名の清国人俘虜が明治27(1894)年に大津町(現在の大津市)に到着したことが報告されています。
俘虜は軍曹以上の階級はなく、また赤痢などの病気に罹っているものがいることも報告されています。
健康なものは、大津別院に、感染しているものは、本長寺に収容したとあります。
C06060076900
この文書は、昨年見つけましたが、旧大津陸軍墓地の中国人兵士の墓との関連を見抜くことができませんでした。
それにしても、『新修大津市史』にも、清国俘虜の記述がまったくありません。したがって、市民の間で、この事実を知るものはほとんどいないのではないでしょうか。
塚崎さんへの感謝をこめて(「中国人兵士の墓」の謎がとけたことに) ― 2008/02/13
3月23日に旧大津陸軍墓地について研究発表を「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」ですることになりましたが、なかなか腰が上がりませんでした。作業に集中することになるので、少し気持ちが重かったのです。
そんなときに、塚崎さんから、再開への大きな刺激をいただきました。
●「中国人兵士の墓」の謎とき
とくに、「中国人兵士の墓」(2基)が、なぜ、旧大津陸軍墓地にあるのかという”謎”がすっきり解けたことをうれしく思います。
私は、塚崎さんから指摘を受けるまでは、清国の軍事留学生(学生)の墓だと思っていました。
それで、そういう受け入れの事例の資料を探し出しては、名前がないか、むなしくチェックしていたのです。
答えははっきりしましたね。
大津市に連行された日清戦争の清国人俘虜の墓だったのです。
ネットにある「アジ歴」で資料も見つけました。
●本長寺
上の写真は、捕虜が収容されていた本長寺の写真です。
そんなときに、塚崎さんから、再開への大きな刺激をいただきました。
●「中国人兵士の墓」の謎とき
とくに、「中国人兵士の墓」(2基)が、なぜ、旧大津陸軍墓地にあるのかという”謎”がすっきり解けたことをうれしく思います。
私は、塚崎さんから指摘を受けるまでは、清国の軍事留学生(学生)の墓だと思っていました。
それで、そういう受け入れの事例の資料を探し出しては、名前がないか、むなしくチェックしていたのです。
答えははっきりしましたね。
大津市に連行された日清戦争の清国人俘虜の墓だったのです。
ネットにある「アジ歴」で資料も見つけました。
●本長寺
上の写真は、捕虜が収容されていた本長寺の写真です。
清国学生の第九連隊入隊について ― 2007/11/23
旧大津陸軍墓地に、清国(もしくは韓国)の方の墓碑と思われるものが2基あります。
旧大津陸軍墓地に掲げられている看板にも、「中国人兵士の墓碑があります」と書かれています。
この点について調べてみました。
その結果、明らかになったのは、明治40年代前半に、清国からの学生が入隊している事実が出てきたことです。(この前とふたつ前の日記)
明日の説明会には、ここまでしか解明できなかったというしかないですね。
旧大津陸軍墓地に掲げられている看板にも、「中国人兵士の墓碑があります」と書かれています。
この点について調べてみました。
その結果、明らかになったのは、明治40年代前半に、清国からの学生が入隊している事実が出てきたことです。(この前とふたつ前の日記)
明日の説明会には、ここまでしか解明できなかったというしかないですね。
清国陸軍学生教育の件(2)明治42年12月17日 ― 2007/11/22
希望兵科第一第二姓名希望兵科第一第二姓名砲憲王鴻郷憲歩成功騎憲竇家?砲憲呉樹栄憲歩景有輜憲裕文歩憲海福憲騎恩勲憲騎忠興希望経理及各科学生表四名希望兵科第一第二姓名希望兵科第一第二姓名歩経漆英歩経劉文藻経歩高冠英騎経周澂希望測量及各科学生表二十七名希望兵科第一第二姓名希望兵科第一第二姓名測輜張履乾砲測文?宸砲測師瑞章測測陳斑測測陳樹掌歩測張宗福測測張彦臣測測普治測測趙慶瀛測測李済川測測王?言測測鍾毓霊測砲崔振基測測王耀光測測何厚?測測王?希望兵科第一第二姓名希望兵科第一第二姓名測騎欧陽権測砲劉錫田測砲薫漢川測砲任天錫測砲韓復違測砲張泰昌砲測訥全測測岳亮歩測増栄測測文中測測盛業測憲張穆駿 送第三四九号明治四十二年十二月十七日
C04014692900
C04014692900
清国学生竇家楨休暇の件(明治43年2月7日) ― 2007/11/22
肆第三三五号 第十六師団 清国学生竇家楨休暇ノ件 番号 軍事肆第五三号 受領 明治 年 月 日 提出 明治四十三年二月十二日 大臣官房 受領 明治 年二月十日 結了 明治 年二月十五日 連帯局長 連帯課長 審案筆記者 第十六師団長ヘ御指令案 歩兵第九連隊在隊中清国学生竇家楨請願休暇ノ件認可スヘシ 肆第三三五号 第十六師団司令部 外求発第五三号 清国学生竇家楨休暇ノ儀ニ付伺 明治四十三年二月七日 第十六師団長男爵山中信儀 陸軍大臣子爵寺内正毅殿 左記ノ者実母死亡ノ為メ休暇帰省願出候処
C07072750100
C07072750100
大津陸軍墓地にある中国人兵士のお墓 その2 ― 2007/09/06
大津陸軍墓地にある中国人兵士のお墓 その1 ― 2007/09/06
大津陸軍墓地で中国人兵士の墓をさがしました ― 2007/09/06
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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