お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その18 ~明治29年歿の兵卒について~ ― 2011/09/02
206名の兵卒は同じ墓地区画のなかに眠っています。204柱には「明治廿八年」と刻まれていますが、2柱だけ、「明治廿九年」と刻まれた墓碑があります。
その答えは、『大津市史』(昭和17年)の文章のなかにあります。すこし面倒ですが、全体の流れがおさらいできます。
明治29年2月14日 台湾 一等卒 小泉 彌太郎(24)なぜ、二人だけ明治29年で、しかも台湾なのか。
明治29年3月25日 台湾台北 一等卒 北川 長松(59)
その答えは、『大津市史』(昭和17年)の文章のなかにあります。すこし面倒ですが、全体の流れがおさらいできます。
明治二十七年征清の役起こるや十一月二十六日動員下令、十二月二日動員を完結した。十八日軍旗祭に併せて同連隊の管区滋賀・三重・京都・奈良の一府・三県有志者発起の出征予餞会を錬兵場に開き、長くも第四師団長白川宮殿下の御来臨を辱うし令旨を賜ふ。(中略)日清戦争の実戦に参加した部隊は、明治28年7月に凱旋帰国を果たしています。ところが、講和条約締結後に、中国大陸に上陸した第九聯隊は、戦闘序列を解かれますが、そのまま遼東半島の守備に残されます。そこで、204名が病死。ようやく、12月に戻ったのはよいですが、わずか一週間の帰国で、今度は、台湾へ出征の命令。上記の2名は、無事遼東半島から戻れたものの、台湾へ送られ、そこで亡くなったと思われます。
翌二十八年三月二十四日師団は第二軍に編入せられて広島に集合の命を受け、連隊は二十八日屯営を発し、四月十一日宇品を解纜して愈々出征の途に上った。十六日大連に入り、二十二日柳樹屯に上陸したが、既に講和休戦となったので五月十七日第二軍の戦闘序列を解かれ、師団は遼東半島守備の命を受けて、爾来連隊は海城その他に駐屯すること九ヶ月で、同年十二月凱旋の命に接して宿営地を発し、連隊(第二中隊員)は十二月二十五日衛戌地に帰り、同三十日第二中隊帰営して茲に出征の事は全く終わった。
然るに凱旋後未だ日を経ざるに二十九年一月四日台湾匪徒討伐の命を受け、大久保混成旅団長の隷下に属して一月七日屯営出発、八日宇品出帆、同十三日台湾基隆港に上陸して石碇街・坪林尾・石漕・殺牛察等の匪徒を掃蕩し、七月より十一月に亘り凱旋した。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その17 ~撤退命令以後~ ― 2011/09/02
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」、あわせて219名の日清戦争戦病死者(旧大津陸軍墓地に眠る)が、どういう死を迎えたのかが知りたいと思って書いてきました。
しかし、階級と氏名だけでは、読んでいただく方にも気持ちが入らないだろうと思いました。「その1」で、次のように書きました。
それぞれについて、わかることは書きました。
残るは、大塚長治郎ひとりです。
明治28年4月、下関条約で清国との講和が成立し、遼東半島と台湾を「割譲」させ、巨額の賠償金を手に入れた日本でしたが、ロシアなどによる「三国干渉」で、遼東半島の返還を求められます。5月、ついにそれを受け入れることを決め、条約は批准されます。しかし、遼東半島の返却にもなう清国との交渉が11月までつづき、その間、大塚長治郎らが所属する陸軍歩兵第九聯隊は、遼東半島に駐留しつづけます。 11月、賠償交渉が終わり、撤退命令が下ります。第九聯隊は11月23日から、舎営地を離れ、帰国のために柳樹屯に集結します。
大塚長治郎は、その時点でも、まだ命を保っていました。しかし、以下の兵卒とともに、帰国の船に乗ることができず、異土で果てることになりました。
しかし、階級と氏名だけでは、読んでいただく方にも気持ちが入らないだろうと思いました。「その1」で、次のように書きました。
さて、219名というだけでは、あまりに抽象的です。これらの若者8名の運命ですが、まず4月29日に「「沙家屯」で日置卯市が亡くなりました。5月1日には、同じ場所で、中村林蔵、内田検次郎そして奥村粂蔵が命を落としました。6月18日には「柳樹屯」で冨田楳吉、9月11日には「金州」で福井乙吉、10月6日には「海城」で井花長太郎が亡くなりました。
大津市に営所をおく陸軍歩兵第九聯隊のなかには、高島市出身の兵卒も多数入営していました。そのなかに、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉。
これらの20代の若者を頭に描きながら、お読み下さい。
それぞれについて、わかることは書きました。
残るは、大塚長治郎ひとりです。
明治28年4月、下関条約で清国との講和が成立し、遼東半島と台湾を「割譲」させ、巨額の賠償金を手に入れた日本でしたが、ロシアなどによる「三国干渉」で、遼東半島の返還を求められます。5月、ついにそれを受け入れることを決め、条約は批准されます。しかし、遼東半島の返却にもなう清国との交渉が11月までつづき、その間、大塚長治郎らが所属する陸軍歩兵第九聯隊は、遼東半島に駐留しつづけます。 11月、賠償交渉が終わり、撤退命令が下ります。第九聯隊は11月23日から、舎営地を離れ、帰国のために柳樹屯に集結します。
大塚長治郎は、その時点でも、まだ命を保っていました。しかし、以下の兵卒とともに、帰国の船に乗ることができず、異土で果てることになりました。
12月 3日 金州 一等卒 寺田 吉太郎(99)いま、わかることはこれだけです。
12月 6日 (-) 一等卒 土井 友吉(66)
12月 8日 旅順口 一等卒 大塚 長治郎(189)
12月11日 金州 一等卒 宮島 岩松(49)
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その16 ~海城~ ― 2011/08/30
泉鏡花の小説『海城発電』の内容を、伊豆俊彦氏は、ホームページのなかで、次のように要約しています。
ですから、9月以前は、第二と第三大隊に属した兵卒、9月以降は、第二大隊の兵卒だと思われます。
一番上の写真は、念仏寺にある大伴圓蔵の墓碑の右側面の碑文で、下は同じ圓蔵の旧大津陸軍墓地にある墓碑の側面です。
「海城発電」は『太陽』一八九六(明治二九)年一月号に発表された。日清戦争当時、日本軍が占領した中国遼寧省の海城を舞台とする話である。捕虜になった日本の看護員が、清国の傷病兵の看護に尽力し、感謝状をもらって帰って来た。敵情を訊問された看護員は、夜の目も寝ず、ひたすら看護に没頭したから、敵情については何も見聞きする余裕がなかったと答えた。これに激昂した軍夫(軍の雑役をする人夫)たちは、国賊だとののしり、感謝状を破り棄てよと迫る。看護員は自分は戦闘員ではなく、赤十字の看護員であるから「職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国だのという、左様な名称も区別もない」と主張して、軍夫たちの脅迫に屈しなかった。軍夫たちは懲罰のためと称 して、この看護員を恋い慕う病気の清国人少女を引きずり出し、凌辱し、輪姦して、死にいたらせた。冒頭文はこれを目撃したイギリスの新聞記者が「海城発」として、本国の通信社に打電したものである。さて、その海城。『戦役経歴書 第九聯隊』によると、第二大隊と第三大隊が到着したのは、明治28(1895)年6月6日でした。第二大隊は11月23日までこの地に残りましたが、第三大隊は8月24日に海城を出ています。
ですから、9月以前は、第二と第三大隊に属した兵卒、9月以降は、第二大隊の兵卒だと思われます。
6月23日 海城 輜重輸卒 清水 常吉(134)上の名簿のなかに、先日、その墓碑の所在(出身地での)がわかった大伴圓蔵と井花長太郎の名前があります。死因は、『大津市志』に記述のある大橋卯三郎以外はわかりません。
6月27日 海城 一等卒 中村 竹次郎(13)
7月10日 海城 一等卒 高橋 彌三吉(183)
7月13日 海城 一等卒 坪田 石之助(142)
7月13日 海城 一等軍曹 小泉 音吉(B03)
7月15日 海城 二等卒 西川 十太郎(191)
7月16日 海城 一等卒 菅井 宇吉(100)
7月17日 海城 一等卒 小走 音松(205)
7月24日 海城 一等卒 阪本 竹松(38)
7月24日 海城 二等卒 井詰 嘉吉(159)
7月26日 海城 二等卒 吉村 広吉(4)
7月26日 海城 二等卒 大伴 圓蔵(大津市)(48)
8月 7日 海城 一等卒 川崎 利吉(18)
8月 9日 海城 二等卒 山田 元次郎(30)
8月11日 海城 一等卒 六條 伊蔵(61)
8月17日 海城 一等卒 竹内 栄次郎(17)
8月20日 海城 一等卒 松本 岩吉(146)
9月 5日 海城 一等軍曹 中沢 市次郎(B07)
9月 9日 海城 二等卒 井上 直蔵(203)
9月13日 海城 一等卒 大橋 卯三郎(大津市)(200)
9月13日 海城 一等軍曹 松室 重凞(B11)
9月14日 海城 一等卒 田畑 富蔵(175)
9月16日 海城 二等卒 青山 伊之助(71)
9月16日 海城 二等軍曹 中村 定次郎(B08)
9月18日 海城 二等卒 太田 竹松(106)
9月19日 海城 一等卒 前田 繁二郎(154)
9月21日 海城 二等卒 奥田 亀吉(114)
10月 5日 海城 一等卒 吉村 寅吉(102)
10月 6日 海城 一等卒 井花 長太郎(173)
10月16日 海城 一等軍曹 太田 末次郎(B13)
10月18日 海城 一等卒 田中 時松(140)
10月23日 海城 一等卒 宮田 梅吉(86)
一番上の写真は、念仏寺にある大伴圓蔵の墓碑の右側面の碑文で、下は同じ圓蔵の旧大津陸軍墓地にある墓碑の側面です。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その15 ~営口~ ― 2011/08/30
旧大津陸軍墓地に眠る日清戦争戦没者の足取りをたどるのが目的です。『戦役経歴書 歩兵第九聯隊』、『戦役経歴書 第四師団第二野戦病院』などを使っていますが、わからないことが多いのです。
兵卒の墓碑で死亡場所が「営口」と刻まれた墓碑がいくつかあります。上の写真(恒木丈太郎の墓碑)がそれです。
『金州半島兵站監部 編成表』を見ながら、それは「営口兵站病院兼検疫所」のことだと思いました。旧真田山陸軍墓地にある日清戦争の墓碑(下の写真)には病院名まで刻まれています。
しかし、それは推察にすぎません。
旧大津陸軍墓地にある日清戦争の墓碑で、「営口」で死亡したと刻まれているのは、以下の兵卒の墓碑です。
そもそも、営口はどこに位置していたのでしょうか。
地図を見ると、遼東半島から見れば西側、遼東湾に面した港で、内陸の海城からは数十㎞の距離にあります。遼東半島の東側にある旅順口、大連湾、柳樹屯などとは反対の位置にあります。大孤山→岫巌→柝木城→海城→営口という順番でしょうか。
柝木城にいた第三大隊よりも、海城の守備をしていた第二大隊の方が営口にちかいために、亡くなった兵卒は、第二大隊に属していた可能性が高いと思います。
兵卒の墓碑で死亡場所が「営口」と刻まれた墓碑がいくつかあります。上の写真(恒木丈太郎の墓碑)がそれです。
『金州半島兵站監部 編成表』を見ながら、それは「営口兵站病院兼検疫所」のことだと思いました。旧真田山陸軍墓地にある日清戦争の墓碑(下の写真)には病院名まで刻まれています。
しかし、それは推察にすぎません。
旧大津陸軍墓地にある日清戦争の墓碑で、「営口」で死亡したと刻まれているのは、以下の兵卒の墓碑です。
7月13日 営口 一等卒 梅山 竹二郎(80)4月、5月、6月は一名もありません。
8月 4日 営口 二等卒 山田 藤吉(185)
8月10日 営口 一等卒 谷 傳蔵(190)
8月21日 営口 一等卒 伊庭 米二郎(8)
9月 4日 営口 一等卒 宮村 多治郎(72)
10月 5日 営口 一等卒 恒木 丈太郎(192)
11月 1日 営口 一等卒 勝見 市蔵(26)
11月 6日 営口 一等卒 井上 幸太郎(22)
11月 7日 営口 一等卒 今井 源松(7)
そもそも、営口はどこに位置していたのでしょうか。
地図を見ると、遼東半島から見れば西側、遼東湾に面した港で、内陸の海城からは数十㎞の距離にあります。遼東半島の東側にある旅順口、大連湾、柳樹屯などとは反対の位置にあります。大孤山→岫巌→柝木城→海城→営口という順番でしょうか。
柝木城にいた第三大隊よりも、海城の守備をしていた第二大隊の方が営口にちかいために、亡くなった兵卒は、第二大隊に属していた可能性が高いと思います。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その14 ~金州~ ― 2011/08/29
『高島郡誌』に掲載されている「明治廿七八年戦役戦病死者」17名のうち、旧大津陸軍墓地に墓碑がある(=歩兵第九聯隊所属)のは、以下の8名でした。
死亡場所が「金州」の兵卒の名簿です。
『戦役経歴書 歩兵第九聯隊』によれば、第二大隊と第三大隊は、5月12日に沙家屯を出発し、13日には王家屯着、27日には王家屯を出発し、6月6日に海城に着いています。
第一大隊は、5月12日、「豼子窩ニ残留シ金州半島兵站監ノ指揮ヲ受」けるように命じられました。大隊の「首部」は、別の命令をうけて、5月29日に豼子窩を出発し、30日に柳樹屯に到着しています。
ですから、4月24日から5月7日までの死亡者は、上陸直後に、金州兵站病院に収容されて亡くなった兵卒だと思われます。
5月23日の兵卒は、もしかしたら、金州守備の任務について第一大隊の兵卒かもしれません。
それ以降の「金州」で死亡した兵卒は、第一大隊に所属していたと思われます。第二大隊も第三大隊も海城など遠方の任務についていたからです。
それで、福井乙吉の運命について、いえることは、なんでしょうか。
高島郡出身の福井乙吉は、歩兵第九聯隊第一大隊に所属した兵卒でした。明治27年12月3日に動員を完成したあとも、なかなか出征の命令は下りませんでした。ほぼ4カ月近く大津で待機したあと、3月28日に、大津を出征。広島に到着します。
第一大隊は、宇品港(現広島港)から4月11日に乗船、14日に大連湾に到着します。柳樹屯への上陸は、第三大隊から1日遅れの23日。25日に沙家屯付近の舎営に到着します。第二大隊と第三大隊が海城へ向かいますが、第一大隊は金州半島の守備の任務にあたります。 4月と5月初めをピークにして、疫病は一時的に勢いを失います。ところが、8月を過ぎてからふたたび流行。福井乙吉は、9月11日に、金州兵站病院でなくなったと思われます。
○大溝村 大字勝野 中村 林蔵このうちの一人福井乙吉は、「金州」で明治28年9月11日に亡くなっています。乙吉の足取りを「金州」と刻まれた文字を手がかりに、推察してみます。
○安曇村 大字三尾里 日置 卯市
○饗庭村 大字旭 内田 検次郎
○高島村 大字拝戸 奥村 久米蔵
○饗庭村 大字饗庭 冨田 楳吉
○西庄村 大字蛭口 井花 長太郎
○安曇村 大字常磐木 福井 乙吉
○新儀村 大字太田 大塚 長次郎
死亡場所が「金州」の兵卒の名簿です。
4月24日 金州 上等兵 川勝 善吉(84)4月はじめから5月に死亡者が続出した「柳樹屯」や「沙家屯」とちがって、ところどころ日数が空いていることに気がつきます。
4月26日 金州 二等卒 胡内 梅太郎(81)
5月 1日 金州 二等卒 有山 信太郎(85)
5月 1日 金州 二等卒 吉田 健吉(201)
5月 7日 金州 二等卒 川上 定吉(188)
5月23日 金州 二等卒 竹村 健吉(90)
8月10日 金州 一等卒 松本 鉄次郎(178)
8月29日 金州 一等卒 田尾 栄次郎(110)
9月 1日 金州 二等卒 岩井 音松(28)
9月 3日 金州 一等卒 安本 仙之助(104)
9月 8日 金州 一等卒 波多野 藤次郎(73)
9月11日 金州 二等卒 福井 乙吉(高島郡)(32)
10月 8日 金州 一等卒 松本 由之助(206)
12月 3日 金州 一等卒 寺田 吉太郎(99)
12月11日 金州 一等卒 宮島 岩松(49)
『戦役経歴書 歩兵第九聯隊』によれば、第二大隊と第三大隊は、5月12日に沙家屯を出発し、13日には王家屯着、27日には王家屯を出発し、6月6日に海城に着いています。
第一大隊は、5月12日、「豼子窩ニ残留シ金州半島兵站監ノ指揮ヲ受」けるように命じられました。大隊の「首部」は、別の命令をうけて、5月29日に豼子窩を出発し、30日に柳樹屯に到着しています。
ですから、4月24日から5月7日までの死亡者は、上陸直後に、金州兵站病院に収容されて亡くなった兵卒だと思われます。
5月23日の兵卒は、もしかしたら、金州守備の任務について第一大隊の兵卒かもしれません。
それ以降の「金州」で死亡した兵卒は、第一大隊に所属していたと思われます。第二大隊も第三大隊も海城など遠方の任務についていたからです。
それで、福井乙吉の運命について、いえることは、なんでしょうか。
高島郡出身の福井乙吉は、歩兵第九聯隊第一大隊に所属した兵卒でした。明治27年12月3日に動員を完成したあとも、なかなか出征の命令は下りませんでした。ほぼ4カ月近く大津で待機したあと、3月28日に、大津を出征。広島に到着します。
第一大隊は、宇品港(現広島港)から4月11日に乗船、14日に大連湾に到着します。柳樹屯への上陸は、第三大隊から1日遅れの23日。25日に沙家屯付近の舎営に到着します。第二大隊と第三大隊が海城へ向かいますが、第一大隊は金州半島の守備の任務にあたります。 4月と5月初めをピークにして、疫病は一時的に勢いを失います。ところが、8月を過ぎてからふたたび流行。福井乙吉は、9月11日に、金州兵站病院でなくなったと思われます。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その13 ~第一大隊は柳樹屯にふたたび~ ― 2011/08/29
高島郡饗庭村饗庭は、現在の高島市新旭町にあります。おそらくその地域の共同墓地に、輜重輸卒をつとめた冨田楳吉の墓碑があると思われます。いま、楳吉の存在を確認するものは、旧大津陸軍墓地にある小さな墓碑だけです。
楳吉は、明治28(1895)年6月18日に「柳樹屯」でなくなったことが、この墓碑からわかります。
楳吉は第九聯隊の兵卒がもっとも多く亡くなった4月および5月を生き延びることができました。上陸した柳樹屯で兵站病院に4月から入院し、6月に亡くなった可能性はありますが、聯隊の兵士を死に追いやった病気の性格(劇症の赤痢、コレラなど)を考えれば、確率は低いと思います。ですから、楳吉は、4月に柳樹屯に上陸し、さらに沙家屯附近の舎営まで無事到着したという前提で、足取りを推測してみました。
楳吉は、書かれていませんが、第一大隊に所属した輜重輸卒だと思われます。なぜなら、第二大隊も、第三大隊も、柳樹屯、沙家屯と移動しますが、第一大隊とちがって、5月12日には、沙家屯を出発し、13日には王家屯、6月6日には海城に到着しています。楳吉が死を迎えたときには、はるか遠方にいたわけです。
第一大隊は、沙家屯から二三日の距離にある豼子窩に残留。5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発柳樹屯ニ」到着しました。
「大隊ノ首部」とは、大隊司令部を含む一定の部隊のことでしょう。輜重輸卒の冨田楳吉は、その移動の荷を負ったと思います。
楳吉の発症もしくは事故がいつ起こったのかわかりません。死亡場所と年月日は、柳樹屯に到着後、19日目に亡くなったことを示しています。楳吉をほぼ同じ運命をたどったと思われる兵卒は、以下のとおりです。
楳吉は、明治28(1895)年6月18日に「柳樹屯」でなくなったことが、この墓碑からわかります。
楳吉は第九聯隊の兵卒がもっとも多く亡くなった4月および5月を生き延びることができました。上陸した柳樹屯で兵站病院に4月から入院し、6月に亡くなった可能性はありますが、聯隊の兵士を死に追いやった病気の性格(劇症の赤痢、コレラなど)を考えれば、確率は低いと思います。ですから、楳吉は、4月に柳樹屯に上陸し、さらに沙家屯附近の舎営まで無事到着したという前提で、足取りを推測してみました。
楳吉は、書かれていませんが、第一大隊に所属した輜重輸卒だと思われます。なぜなら、第二大隊も、第三大隊も、柳樹屯、沙家屯と移動しますが、第一大隊とちがって、5月12日には、沙家屯を出発し、13日には王家屯、6月6日には海城に到着しています。楳吉が死を迎えたときには、はるか遠方にいたわけです。
第一大隊は、沙家屯から二三日の距離にある豼子窩に残留。5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発柳樹屯ニ」到着しました。
「大隊ノ首部」とは、大隊司令部を含む一定の部隊のことでしょう。輜重輸卒の冨田楳吉は、その移動の荷を負ったと思います。
楳吉の発症もしくは事故がいつ起こったのかわかりません。死亡場所と年月日は、柳樹屯に到着後、19日目に亡くなったことを示しています。楳吉をほぼ同じ運命をたどったと思われる兵卒は、以下のとおりです。
6月 8日 柳樹屯 輜重輸卒 堀居 留治郎(150)第一大隊の第一中隊は9月16日から別の任務につきましたが、撤退命令が出たあと12月11日に柳樹屯に戻ってきました。第九聯隊全体では、12月10日から25日の間に、柳樹屯から本国への帰途につきました。冨田楳吉をはじめ上記の兵卒は戻ることができなかったのです。
6月16日 柳樹屯 一等卒 田中 興吉(158)
6月18日 柳樹屯 輜重輸卒 冨田 楳吉(高島郡)(197)
6月24日 柳樹屯 二等卒 大倉 菊次郎(74)
7月19日 柳樹屯 二等卒 畠中 熊次郎(124)
7月23日 柳樹屯 輜重輸卒 丸岡 嘉一郎(168)
8月18日 柳樹屯 一等卒 小和田 三次郎(51)
9月 2日 柳樹屯 一等卒 楠浦 権之助(14)
9月 8日 柳樹屯 一等卒 利田 鶴吉(182)
10月 4日 柳樹屯 一等卒 村上 米治郎(131)
10月10日 柳樹屯 一等卒 萩野 治三郎(148)
11月 1日 柳樹屯 一等卒 今堀 欽次郎(155)
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その12 ~旧大津陸軍墓地Eブロック名簿~ ― 2011/08/29
旧大津陸軍墓地のEブロックには、207柱の墓碑が整然と並んでいます。しかし、このブロックが、日清戦争で命を落とした兵卒の墓地であることを示す表記は、どこにもありません。そもそも旧大津陸軍墓地についての文献は、ほとんどない状態です。
2007年の秋から、500を超える個人墓碑の名簿づくりをやってきました。1970年代に大津市が移設のために作成した名簿がありますが、決して正確とはいえませんでした。
上の写真はKブロックの墓碑ですが、これら他のブロックの墓碑には、個人履歴が大なり小なり刻まれています。しかし、Eブロックは、簡潔な表記の墓碑ばかりでした。一つひとつ墓碑が与えてくれる情報は少なくても、全体をまとめれば、逆に一人ひとりの顔が見えてくるものがあるはずだと、思いました。
墓碑が、私にそれを望んでいるように感じました。
2007年の秋にも一度挑戦しましたが、最後まで果たすことができませんでした。今回は、わかるところまですべて形にしてしまおうと考えています。ですから、等身大の将兵の死の物語にもう少しおつきあいください。
それにしても、残念なのは、それぞれの出身地がわからないことです。公の市町村史で確認する作業をしていますが、個人名を書いていないものが多いのです。出身地は、文献で見つけるか、個人墓碑を見つけ、その地域であることを確認するか、のいずれしかありません。
『高島郡誌』はこの点では申し分のない文献でした。ですから、高島郡出身の若者の運命を中心にたどることにしたのです。
今回で、12回目。
11回目までに、明らかになったのは、大溝村大字勝野の中村林蔵、安曇村大字三尾里の日置卯市、饗庭村大字旭の内田検次郎および高島村大字拝戸の奥村久米蔵の死の状況のあらましでした。
次回は、饗庭村大字饗庭の冨田楳吉を取り上げてみます。
2007年の秋から、500を超える個人墓碑の名簿づくりをやってきました。1970年代に大津市が移設のために作成した名簿がありますが、決して正確とはいえませんでした。
上の写真はKブロックの墓碑ですが、これら他のブロックの墓碑には、個人履歴が大なり小なり刻まれています。しかし、Eブロックは、簡潔な表記の墓碑ばかりでした。一つひとつ墓碑が与えてくれる情報は少なくても、全体をまとめれば、逆に一人ひとりの顔が見えてくるものがあるはずだと、思いました。
墓碑が、私にそれを望んでいるように感じました。
2007年の秋にも一度挑戦しましたが、最後まで果たすことができませんでした。今回は、わかるところまですべて形にしてしまおうと考えています。ですから、等身大の将兵の死の物語にもう少しおつきあいください。
それにしても、残念なのは、それぞれの出身地がわからないことです。公の市町村史で確認する作業をしていますが、個人名を書いていないものが多いのです。出身地は、文献で見つけるか、個人墓碑を見つけ、その地域であることを確認するか、のいずれしかありません。
『高島郡誌』はこの点では申し分のない文献でした。ですから、高島郡出身の若者の運命を中心にたどることにしたのです。
今回で、12回目。
11回目までに、明らかになったのは、大溝村大字勝野の中村林蔵、安曇村大字三尾里の日置卯市、饗庭村大字旭の内田検次郎および高島村大字拝戸の奥村久米蔵の死の状況のあらましでした。
次回は、饗庭村大字饗庭の冨田楳吉を取り上げてみます。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その11 ~柝木城~ ― 2011/08/27
中川力蔵は、滋賀県伊香郡古保利の東柳野出身であることがわかっています。いま、「力蔵の消息を知りたい」という遺族の方がいらっしゃったら、いえることは、つぎのことです。
陸軍歩兵第九聯隊に所属した一等卒・中川力蔵は、明治28(1895)年3月28日に大津の衛戍地を出征し、廣島に向かう。4月13日に宇品港から乗船。16日に大連湾に到着。22日に柳樹屯上陸。24日に沙家屯附近の舎営到着。5月12日にそこを出発し、13日に王家屯附近の舎営に到着。27日にふたたびそこを出発し、6月6日に海城到着。8月24日にそこを出発して柝木(たくぼく)城に到着しました。中川力蔵が所属した第三大隊は、そこを最終地点として、撤退を開始する11月27日まで守備にあたりました。
しかし、中川力蔵は、柝木城に到着してから一週間後の9月1日に死亡しています。下の写真は、旧大津陸軍墓地の中川力蔵の墓碑に刻まれた死亡年月日と場所です。 力蔵とともに柝木城まで到達しながら、そこで亡くなった兵卒は、9名でした。
陸軍歩兵第九聯隊に所属した一等卒・中川力蔵は、明治28(1895)年3月28日に大津の衛戍地を出征し、廣島に向かう。4月13日に宇品港から乗船。16日に大連湾に到着。22日に柳樹屯上陸。24日に沙家屯附近の舎営到着。5月12日にそこを出発し、13日に王家屯附近の舎営に到着。27日にふたたびそこを出発し、6月6日に海城到着。8月24日にそこを出発して柝木(たくぼく)城に到着しました。中川力蔵が所属した第三大隊は、そこを最終地点として、撤退を開始する11月27日まで守備にあたりました。
しかし、中川力蔵は、柝木城に到着してから一週間後の9月1日に死亡しています。下の写真は、旧大津陸軍墓地の中川力蔵の墓碑に刻まれた死亡年月日と場所です。 力蔵とともに柝木城まで到達しながら、そこで亡くなった兵卒は、9名でした。
9月 1日 柝木城 一等卒 中川 力蔵(伊香郡)(63)輜重輸卒の本田政治郎(133)は、同じ折木城で亡くなっていますが、日付は6月20日です。どういう行動をしていたのかは、わかりません。さらに、柝木城にどういう医療機関があったのかも、わかりません。
9月 8日 柝木城 一等卒 丸山 文吉(3)
9月 8日 柝木城 一等卒 田辺 長造(179)
9月16日 柝木城 一等卒 新畑 音吉(10)
9月18日 柝木城 上等兵 横田 勝次郎(29)
10月11日 柝木城 一等卒 今井 久吉(187)
10月11日 柝木城 一等卒 山口 萬吉(207)
10月30日 柝木城 一等卒 西田 柳吉(88)
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その10 ~「戦役経歴書 第九聯隊」~ ― 2011/08/27
陸軍歩兵第九聯隊には、三つの大隊がありました。第一、第二および第三です。聯隊司令部は第三大隊と一緒に行動していたようです。
日清戦争の「戦役経歴書 第九聯隊」の記述は、わずか二ページにすぎません。それでも、疑問を解くカギにはなります。私の疑問というのは、5月以降、死亡場所がバラバラに広がっていく(柳樹屯、豼子窩、折木城、大孤山、金州、営口、海城などなど)のは、なぜかということでした。
わかったことは、下関条約の締結と批准をうけて、戦闘序列を解き、あらたな任務が第九聯隊に与えられることと関係するということです。第九聯隊は、遼東半島の守備に任務を与えられて、三つの大隊ごとに、ときには中隊レベルまで分けて、異なる場所に配置されるからです。
それを「戦歴書」の記述から見てみます。
これによると、衛戍地の大津を出発し、廣島に向かうのは、3月28日。これは同時だったと思われます。次に、船で遼東半島に向かうのですが、第一と第二大隊は4月11日に宇品港から乗船、第三大隊と聯隊司令部は13日になりました。つぎに大連湾に到着するのは、第一と第二が14日、第三が16日でした。柳樹屯への上陸は、第三大隊が先で22日、第一と第二が23日。
聯隊は上陸後、「宿営予定地沙家屯附近ニ在ル西華屯附近ノ舎営地ニ到ル」ことになります。第三が24日、第一と第二が25日に到着しています。
聯隊は、このように日はずれるものの、5月12日までは、一体となって行動していました。4月に死亡した将兵は、「大連湾検疫所」、「旅順口兵站病院」、「柳樹屯兵站病院」、「劉家屯避病室」、「沙家屯舎営病院」で死を迎えたと思われます。
ここまでは、すでに書いたとおりです。
分岐点は、5月12日です。
同日、聯隊のうち第一大隊を残して、第二大隊と第三大隊は「豼子窩ヨリ熊笹ニ通スル街道南崗子豼子窩間ニ集合スル為メ」に、舎営地を出発し、13日に「王家屯附近ノ舎営地」に到着。
さらに、「海城方面守備」のために、27日に「王家屯附近ノ舎営地」を出発し、6月6日に海城に到着します。
第二大隊は、このまま11月23日まで海城に残り、守備の任務につきました。
第三大隊は「柝木城守備ト交代スル」ために、8月24日に海城を出発し、柝木城に到着。11月27日まで「柝木城附近及ヒ其以南王家堡子間守備及ヒ兵站事務ヲ兼務」するのです。
5月12日に、第二・第三大隊と分かれた第一大隊は、どうなったのか。
第一大隊は、「豼子窩ニ残留シ金州半島兵站監ノ指揮ヲ受」けました。さらに、5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発、柳樹屯ニ」到着しました。また、9月16日には、第一大隊第一中隊が「岫厳守備ノ命ヲ受ケ」柳樹屯出発。「海路ヨリ大孤山ヲ経岫巌ニ至ル」
次に撤退の命令が下ります。
第二大隊と聯隊司令部は11月23日に海城を出発し、12月7日に大連湾に到着します。
第三大隊は、11月28日に柝木城を出発し、12月11日に柳樹屯に到着。
第一大隊第一中隊は11月25日岫厳出発、12月11日に柳樹屯に到着。
そして、柳樹屯から、12月10日から25日の間に、柳樹屯から乗船し、廣島の宇品港へ12月13日から28日の間に上陸。大津市の衛戍地に12月15日から30日の間に戻ることができました。
ややこしいのですが、これをもとにして、死亡した将兵のたどった道を再現してみようと思います。
日清戦争の「戦役経歴書 第九聯隊」の記述は、わずか二ページにすぎません。それでも、疑問を解くカギにはなります。私の疑問というのは、5月以降、死亡場所がバラバラに広がっていく(柳樹屯、豼子窩、折木城、大孤山、金州、営口、海城などなど)のは、なぜかということでした。
わかったことは、下関条約の締結と批准をうけて、戦闘序列を解き、あらたな任務が第九聯隊に与えられることと関係するということです。第九聯隊は、遼東半島の守備に任務を与えられて、三つの大隊ごとに、ときには中隊レベルまで分けて、異なる場所に配置されるからです。
それを「戦歴書」の記述から見てみます。
これによると、衛戍地の大津を出発し、廣島に向かうのは、3月28日。これは同時だったと思われます。次に、船で遼東半島に向かうのですが、第一と第二大隊は4月11日に宇品港から乗船、第三大隊と聯隊司令部は13日になりました。つぎに大連湾に到着するのは、第一と第二が14日、第三が16日でした。柳樹屯への上陸は、第三大隊が先で22日、第一と第二が23日。
聯隊は上陸後、「宿営予定地沙家屯附近ニ在ル西華屯附近ノ舎営地ニ到ル」ことになります。第三が24日、第一と第二が25日に到着しています。
聯隊は、このように日はずれるものの、5月12日までは、一体となって行動していました。4月に死亡した将兵は、「大連湾検疫所」、「旅順口兵站病院」、「柳樹屯兵站病院」、「劉家屯避病室」、「沙家屯舎営病院」で死を迎えたと思われます。
ここまでは、すでに書いたとおりです。
分岐点は、5月12日です。
同日、聯隊のうち第一大隊を残して、第二大隊と第三大隊は「豼子窩ヨリ熊笹ニ通スル街道南崗子豼子窩間ニ集合スル為メ」に、舎営地を出発し、13日に「王家屯附近ノ舎営地」に到着。
さらに、「海城方面守備」のために、27日に「王家屯附近ノ舎営地」を出発し、6月6日に海城に到着します。
第二大隊は、このまま11月23日まで海城に残り、守備の任務につきました。
第三大隊は「柝木城守備ト交代スル」ために、8月24日に海城を出発し、柝木城に到着。11月27日まで「柝木城附近及ヒ其以南王家堡子間守備及ヒ兵站事務ヲ兼務」するのです。
5月12日に、第二・第三大隊と分かれた第一大隊は、どうなったのか。
第一大隊は、「豼子窩ニ残留シ金州半島兵站監ノ指揮ヲ受」けました。さらに、5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発、柳樹屯ニ」到着しました。また、9月16日には、第一大隊第一中隊が「岫厳守備ノ命ヲ受ケ」柳樹屯出発。「海路ヨリ大孤山ヲ経岫巌ニ至ル」
次に撤退の命令が下ります。
第二大隊と聯隊司令部は11月23日に海城を出発し、12月7日に大連湾に到着します。
第三大隊は、11月28日に柝木城を出発し、12月11日に柳樹屯に到着。
第一大隊第一中隊は11月25日岫厳出発、12月11日に柳樹屯に到着。
そして、柳樹屯から、12月10日から25日の間に、柳樹屯から乗船し、廣島の宇品港へ12月13日から28日の間に上陸。大津市の衛戍地に12月15日から30日の間に戻ることができました。
ややこしいのですが、これをもとにして、死亡した将兵のたどった道を再現してみようと思います。
「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その9 ~兵卒の亡くなった月と人数について~ ― 2011/08/27
旧大津陸軍墓地で、私が勝手に「Eブロック」と名付けている区画には、簡素な墓碑が207柱建っています。そのうち、一基だけが「士官候補生」のもので、日清戦争とはかかわりのない(・・・と今は思えるのですが、置かれている位置を考えればなにかあるのかも知れません)墓碑です。
残り206柱は、日清戦争にかかわって亡くなった兵卒の墓碑です。
206柱のうち、2柱だけが明治29(1896)年に台湾で亡くなった兵卒の墓碑。残り204柱が、明治28年4月から12月にかけて亡くなった兵卒(上等兵、一等卒、二等卒および輜重輸卒)の墓碑でした。
下関講和条約締結後でしたから、戦闘によって亡くなった兵卒ではありません。ですから、墓碑に刻まれた地名と「金州兵站監部編成表」(明治28年7月度)と第4師団第二野戦病院「戦役経歴書」を照らし合わせながら、亡くなった具体的な場所を割り出す作業をしました。『大津市志』の記述から、病院での死亡を確認しながら。
204名のうち数名は、死亡場所の記述がありません。死亡年月日はどれも刻まれています。
繰り返し精査しようと思いますが
○ 4月
安曇村の日置卯市、高島村の奥村久米蔵をはじめとする64名
○ 5月
大溝町の中村林蔵、饗庭村の内田検次郎など23名
○ 6月
饗庭村の冨田楳吉ら11名
○ 7月
25名
○ 8月
24名
○ 9月
西庄村の井花長太郎、安曇村の福井乙吉ら34名
○10月
15名
○11月
5名
○12月
新儀村の大塚長次郎ら4名
以上、合計204名になっています。
金州半島に上陸した4月が、もっとも多くなっています。4月と5月の合計が87名ですから、4割以上が集中しています。
上に高島郡の戦没者の名前だけを入れました。『高島郡誌』を見れば、日清戦争で亡くなった若者の名前がすべてわかります。若干の漏れがあるようですが。伊香郡など他の郡もわかりました。しかし、私のフィールドが大津市と高島市であることから、この場所には載せませんでした。Eブロックのリストには入れていますので、見ていただけたらと思います。
では大津市は?
明治44年版の『大津市志』には、当時の大津市の戦没者の名簿がありますが、その後、合併をくり返したために、いまの大津市全体を網羅するものはありません。民間墓地をこつこつ回り、日清戦争期の戦没者の墓碑を探しながら、旧大津陸軍墓地の墓碑と照らし合わせて、いるところです。
最近、大津市で一人の若者の墓碑を確認しました。旧大津陸軍墓地に墓碑がある大伴圓蔵のものでした。
残り206柱は、日清戦争にかかわって亡くなった兵卒の墓碑です。
206柱のうち、2柱だけが明治29(1896)年に台湾で亡くなった兵卒の墓碑。残り204柱が、明治28年4月から12月にかけて亡くなった兵卒(上等兵、一等卒、二等卒および輜重輸卒)の墓碑でした。
下関講和条約締結後でしたから、戦闘によって亡くなった兵卒ではありません。ですから、墓碑に刻まれた地名と「金州兵站監部編成表」(明治28年7月度)と第4師団第二野戦病院「戦役経歴書」を照らし合わせながら、亡くなった具体的な場所を割り出す作業をしました。『大津市志』の記述から、病院での死亡を確認しながら。
204名のうち数名は、死亡場所の記述がありません。死亡年月日はどれも刻まれています。
繰り返し精査しようと思いますが
○ 4月
安曇村の日置卯市、高島村の奥村久米蔵をはじめとする64名
○ 5月
大溝町の中村林蔵、饗庭村の内田検次郎など23名
○ 6月
饗庭村の冨田楳吉ら11名
○ 7月
25名
○ 8月
24名
○ 9月
西庄村の井花長太郎、安曇村の福井乙吉ら34名
○10月
15名
○11月
5名
○12月
新儀村の大塚長次郎ら4名
以上、合計204名になっています。
金州半島に上陸した4月が、もっとも多くなっています。4月と5月の合計が87名ですから、4割以上が集中しています。
上に高島郡の戦没者の名前だけを入れました。『高島郡誌』を見れば、日清戦争で亡くなった若者の名前がすべてわかります。若干の漏れがあるようですが。伊香郡など他の郡もわかりました。しかし、私のフィールドが大津市と高島市であることから、この場所には載せませんでした。Eブロックのリストには入れていますので、見ていただけたらと思います。
では大津市は?
明治44年版の『大津市志』には、当時の大津市の戦没者の名簿がありますが、その後、合併をくり返したために、いまの大津市全体を網羅するものはありません。民間墓地をこつこつ回り、日清戦争期の戦没者の墓碑を探しながら、旧大津陸軍墓地の墓碑と照らし合わせて、いるところです。
最近、大津市で一人の若者の墓碑を確認しました。旧大津陸軍墓地に墓碑がある大伴圓蔵のものでした。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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