お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「歩兵」と誤記「陸軍砲兵二等卒 塚嵜倉太郎之墓」(東24=L157)2010/10/29

「陸軍砲兵二等卒 塚嵜倉太郎之墓」(東24=L157)
 大津市が保管している名簿では、「歩兵二等卒」になっています。しかし、墓碑を検証しなおすと、「砲兵」であることがわかります。
左側面には碑文がなく、右側面に、「明治三十三年九月十三日死」と簡単に記されているだけです。明治十年の墓碑が、定型とはいえ、出身地や父親の名前、生年月日、入営日などが記されているのに対して、あまりにそっけない気がします。

「看護卒生兵 小笹丈次之進墓」(東55=L190)2010/10/29

「看護卒生兵 小笹丈次之進之墓」(東55=L190)
 東下段を順番に見るのを中断して、私自身興味深い墓碑を見つけて紹介しています。たとえば、歩兵上等卒、歩兵一等卒、歩兵二等卒などの墓碑は多数ですが、「看護卒」の墓碑は多くありません。それは、軍の構成の比率からしてそうなのでしょう。
 下段東の55は、「看護卒生兵」という階級名のある墓碑でした。
 「看護卒」という階級名がつく墓碑は、ほかに二三ありますが、「看護生兵」は、この若者の墓碑だけでした。
 上の写真は右側面。冒頭に「滋賀縣」と刻まれているように見えます。あとは、まだ読めません。日の光が別の角度からあたるときに、見に行くことが必要ですね。
左側面からは、「明治十七年十一月三日没於大津営所」などと読むことができます。

「釈○○」のように法名のある兵卒の墓碑の存在@旧大津陸軍墓地2010/10/29

 陸軍墓地の墓碑に、法名が刻まれていることは考えたことがありませんでした。しかし、「釈」と共通して読める文字が階級名にあたる部分の最初に刻まれているのは確かな様子です。
 他の陸軍墓地にもあるのかどうか、また、その墓碑が建て直されたものではないのか、など、さらに調べる課題が見つかりました。

解明のヒントとなる「中西丹(次)」の墓碑(東30=L176)2010/10/28

解明のヒントとなる「中西丹(次)」の墓碑(東30=L176)
東29の墓碑でははっきりしていなかった文字が、東30の墓碑では読み取ることができます。
 冒頭の一字は、やはり「釈」でしょうね。となると、戒名ではないかと思います。あとは不明ですが、階級名とは思えません。その下ですが、「中西」までは、しっかり読めます。

追加記事。
やつしろさんのコメントでの指摘どおり、戒名ではなく、「法名」に訂正します。上の記事はそのまま残しますが。おっしゃるように「釈勇進」と読めますね。その下の文字ですが、「俗名」と刻まれているようです。ですから全体は、「釈勇進 俗名 中西丹次」でしょうね。

「釈強覚?」と読めますが、法名?中村勘四郎のものとされる墓碑(東29=L177)2010/10/28

「釈強覚?」と読めますが、法名?中村勘四郎のものとされる墓碑(東29=L177)
 この墓碑は、その位置と墓碑の名簿から、「中村勘四郎」のものと考えられます。ところが、階級名も不明ですし、(大津市役所に保管されている名簿ではしっかり書かれている)本人の名前も、実際の墓碑からは(私には)読み取れません。じっと観察すれば、階級名というよりは、戒名のような気がします。あえて読めば「釈強覚」。

1970年代には読めていた?「平野彌三八」の墓碑(東17=L150)2010/10/28

1970年代には読めていた?「平野彌三八」の墓碑(東17=L150)
1970年代前半に移葬された239の墓碑の名簿を、その作業中に作成されていました。さっきから、それを見ながら、写真と対照しているのです。
一人ひとりの名簿は、たとえば次のように書かれています。「2.歩兵二等卒 馬場 寅吉」。上の墓碑については、「17.     平野彌三八」と書かれています。階級名が空白。しかし、名前はしっかり記録されているのですが、今、とてもこのようには、読めません。

階級名不明の墓碑「大北雅郎之墓」(東25=L158)2010/10/28

階級名不明の墓碑「大北雅郎之墓」(東25=L158)
 とりあえず、階級名が読み取れない墓碑を掲載してみることにします。読める方がいるかも知れませんから。

この墓碑は、氏名は確定されていましたが、名簿では「雅郎」であろうという意味の表記がされていました。写真で見ると、まちがいないと思います。
しかし、階級名は読めません。

階級名の部分が不明な墓碑(東31=L175)について2010/10/28

階級名の部分が不明な墓碑(東31=L175)
 旧大津陸軍墓地の現在のLブロックの墓碑を、かつて存在した場所を念頭において、記録しています。1970年代につくられた名簿を再検討していると、階級名にあたる部分が空白になっている墓碑があります。読み取れないというものもありますが、階級名が刻まれているとは思われない墓碑があります。

 たとえば、この「中尾庄三」の墓碑ですが、「沢?勇?勤?」と読めます。でも、意味不明です。ヒントになるかと、左右の側面を見ても、刻まれているのは、「明治三十四年五月○日」という死亡年月日だけです。

「生兵」から「二等卒」への期間 ~「二等卒 堀田源七 之墓」(東102=L235)より~2010/10/27

「二等卒堀田源七之墓」正面@旧大津陸軍墓地Lブロック
 山県有朋の建議によって推進された徴兵制と六鎮台制。そのもとで、明治8年に新設された大坂鎮台第九聯隊の大津営所。その営所に付属する施設としての埋葬所が旧大津陸軍墓地の最初の姿でした。
 滋賀県をはじめ近隣諸県の農民や町民の子弟が徴兵され、大津営所に入営し、軍事訓練を受けました。そして、訓練の成果よろしく軍隊内の階級を「拝命」するのです。
 堀田源七の墓碑の左側面には、つぎのように刻まれています。
明治十年六月五日應徴入営於大津鎮台歩兵第九聯隊第二大隊同年八月十七日二等卒拝命同十二年一月十日病没於大津営所病室二十二年十一月
「二等卒堀田源七之墓」左側面
 入営して、わずか二ヶ月で二等卒???

「下段東側」には「生兵(せいへい)」の墓碑が102柱中15柱(訂正)2010/10/26

空襲により破壊された墓碑が集められた場所@旧真田山陸軍墓地
上の写真は、大阪市玉造にある旧真田山陸軍墓地の一部です。空襲をうけて、破壊された墓碑が無縁塚のように固められているところです。さまざまな階級に混じって「生兵」の墓碑もありました。

旧大津陸軍墓地の話に、戻ります。

下段東側の墓碑のなかに、思ったより「生兵(せいへい)」の墓碑が多いことに気がつきました。そこで、カウントすることにしました。102基の個人碑のうち15がそれでした。
 下は下段東の一覧表。東のあとの番号は、下段東での位置をしめす通し番号。(L)は、現在の位置を示す通し番号です。
 1.東96(L230) 橋爪 佐次郎
     明治12年 8月

 2.東93(L227) 川崎 松之助
     明治12年10月

 3.東90(L225) 原田 國兵
     明治12年 9月

 4.東89(L224) 西出 勇吉
     明治12年 9月

 5.東87(L222) 西口 丈吉
     明治13年10月

 6.東80(L204) 山下 音松
     明治15年 2月

 7.東81(L203) 永田 春吉
     明治15年

 8.東70(L214) 松本 岩吉
     明治15年 9月

 9.東78(L206) 西野 仁吉
     明治14年12月

10.東72(L212) 小林 甚九郎
     明治15年 9月

11.東66(L205) 小松 正
     明治16年10月

12.東64(L199) 梶川太郎市(?)
     明治16年 9月

13.東60(L195) 久野 彌三郎
     明治18年12月

14.東57(L192) 中岡 捨吉
     明治17年12月

15.東54(L189) 水川 丑松
     明治19年10月

明治20年以降はありません。

梶川太郎市(?)を追加。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)