お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
コロナ禍のために松山ロシア人墓地訪問を断念 ― 2020/02/27
2月末から3月にかけて、松山市を訪問する予定でした。休暇もとり、宿泊場所も予約して、ロシア人俘虜の墓地を見学するのを楽しみにしていました。しかし、断念。
やむをえませんね。ひたすら勤務先と自宅の往復をつづけています。
やむをえませんね。ひたすら勤務先と自宅の往復をつづけています。
ギャラリーQにて戦跡写真展示会(11/15~20) ― 2019/11/15
ロシア人俘虜の墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2010/10/03
「各地俘虜収容所俘虜死亡人員表」では大津は1名 ― 2010/10/03
敵味方の区別なく病死者を葬る陸軍墓地 ― 2010/10/02
日露戦争でのロシア人捕虜の資料 ― 2007/11/18
旧大津陸軍墓地には、ロシア人捕虜の墓碑が一柱あります。
明治44年の『大津市志』には、大津市で収容することになった顛末などが書かれていますが、ここに眠っている捕虜には、触れていません。
●ロシア人捕虜についての資料
アジア歴史資料センターのサイトには、ロシア人捕虜について「俘虜情報局」が作成した三つの表があることがわかりました。
①露国俘虜収容所及収容人員表
これは、明治三十八年九月同月現在の各管団別の表です。
C06040142800
②各地俘虜収容以来月末俘虜人員表
各地俘虜収容所収容以来月末俘虜人員表 明治三十八年十月十五日調
C06040143000
③各地俘虜収容所俘虜死亡人員表
C06040143100
明治44年の『大津市志』には、大津市で収容することになった顛末などが書かれていますが、ここに眠っている捕虜には、触れていません。
●ロシア人捕虜についての資料
アジア歴史資料センターのサイトには、ロシア人捕虜について「俘虜情報局」が作成した三つの表があることがわかりました。
①露国俘虜収容所及収容人員表
これは、明治三十八年九月同月現在の各管団別の表です。
C06040142800
②各地俘虜収容以来月末俘虜人員表
各地俘虜収容所収容以来月末俘虜人員表 明治三十八年十月十五日調
C06040143000
③各地俘虜収容所俘虜死亡人員表
C06040143100
ロシア人兵士の墓石が語るもの ― 2007/10/16
異土にて「明治三十八年五月二十日病死」 ― 2007/10/16
大津陸軍墓地にたった一つある
ロシア人兵士の墓石について、
いろいろ考えてみたい。
●病死の日付
墓石には、「明治三十八年五月二十日病死」
と刻まれている。
この「五月」の「五」の部分が破損箇所になっていて、
もしかしたら、「三」かとも読める。
●大津市へのロシア人捕虜の輸送について
明治44年発行の「大津市志」下巻の
「第三編歴史紀事」の付録に
「一、俘虜収容所の設置」という文章があり、
ロシア人捕虜のことについて、
触れられている。
簡単にいうと、
明治38(1905)年2月10日に、
大津市参事会が陸軍大臣に対して、
俘虜収容所を大津市に設置するよう
決議し、具申ししている。
2月16日に、軍の方から、大津市役所に
訪問があり、協議されている。
2月17日に市参事会が開催され、この件を
議論し、第四連隊経理部まで出張することに
決まった。
2月18日、その決定にしたがって、
大津市の助役が第四師団に出張。
それから、約一ヶ月後の、
3月13日に、第四師団から担当官が
大津に来て、寺院などを臨検した。
その後、緊急連絡の電報がきて、
1500名の収容となったので、
「雨中徹夜」で収容先を確保する。
捕虜は予定の人数が3月23日と24日に
到着している。
4月1日には、将校20名、従卒20名が
追加で到着。しかし、これらは、16日には
鯖江市へ移動している。
5月25日と26日には、1500名の捕虜の
半数が習志野市へ移動している。
7月15日、非戦闘員107名を帰還させている。
8月25日、樺太の捕虜108名が大津に到着。
10月に平和条約が締結され、
12月23日をもって、すべての捕虜が
大津市からいなくなった。
●「習志野市から運んだ」(?)
奉賛会の会長さんは、死んだ兵士を
習志野市からここに運んで埋めたと
言っていた。
しかし、その情報は、まちがいではないか。
なぜなら、習志野市へ移送されるまえに、
死亡しているからである。
ここで死亡したのなら、大津陸軍墓地に
埋葬されることになんの不思議もないのだ。
●30歳の誕生日をまえにして
6月15日生まれだから、あと半月もすれば、
30歳を迎えることができたはず。
それを待たずに、イワン・ドラトフスキーという
若者は、異土で亡くなったのである。
ロシア人兵士の墓石について、
いろいろ考えてみたい。
●病死の日付
墓石には、「明治三十八年五月二十日病死」
と刻まれている。
この「五月」の「五」の部分が破損箇所になっていて、
もしかしたら、「三」かとも読める。
●大津市へのロシア人捕虜の輸送について
明治44年発行の「大津市志」下巻の
「第三編歴史紀事」の付録に
「一、俘虜収容所の設置」という文章があり、
ロシア人捕虜のことについて、
触れられている。
簡単にいうと、
明治38(1905)年2月10日に、
大津市参事会が陸軍大臣に対して、
俘虜収容所を大津市に設置するよう
決議し、具申ししている。
2月16日に、軍の方から、大津市役所に
訪問があり、協議されている。
2月17日に市参事会が開催され、この件を
議論し、第四連隊経理部まで出張することに
決まった。
2月18日、その決定にしたがって、
大津市の助役が第四師団に出張。
それから、約一ヶ月後の、
3月13日に、第四師団から担当官が
大津に来て、寺院などを臨検した。
その後、緊急連絡の電報がきて、
1500名の収容となったので、
「雨中徹夜」で収容先を確保する。
捕虜は予定の人数が3月23日と24日に
到着している。
4月1日には、将校20名、従卒20名が
追加で到着。しかし、これらは、16日には
鯖江市へ移動している。
5月25日と26日には、1500名の捕虜の
半数が習志野市へ移動している。
7月15日、非戦闘員107名を帰還させている。
8月25日、樺太の捕虜108名が大津に到着。
10月に平和条約が締結され、
12月23日をもって、すべての捕虜が
大津市からいなくなった。
●「習志野市から運んだ」(?)
奉賛会の会長さんは、死んだ兵士を
習志野市からここに運んで埋めたと
言っていた。
しかし、その情報は、まちがいではないか。
なぜなら、習志野市へ移送されるまえに、
死亡しているからである。
ここで死亡したのなら、大津陸軍墓地に
埋葬されることになんの不思議もないのだ。
●30歳の誕生日をまえにして
6月15日生まれだから、あと半月もすれば、
30歳を迎えることができたはず。
それを待たずに、イワン・ドラトフスキーという
若者は、異土で亡くなったのである。
千八百七十五年六月十五日生まれ ― 2007/10/16
イワン・オシホフ・ドラトフスキーという名前 ― 2007/10/16
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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