お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「故陸軍野戦銕道隊 松岡 七郎 墓」が今に語るもの ― 2015/10/15
この墓碑について、フェイスブックに以下のことを書きました。
「陸軍徴傭運送船」ってご存知ですか。戦争のために、陸軍に徴用された商船や客船のことです。乗組員も軍属として徴用されました。1950年代の朝鮮戦争でもあったことです。海外で戦争をするために、民間人が無理やり戦争にまきこまれることをしめす旧い墓碑を紹介します。
ときは日露戦争の開戦から4か月後。1904年6月15日、ウラジオストックのロシア艦隊が日本の3隻の輸送船をそれぞれ捕捉し砲撃しました。最初につかまった「和泉丸」は退去を命じられた後、撃沈されました。
つぎの「常陸丸」は壮絶な攻撃をうけながらも降伏せず、戦闘員と乗員あわせて1,091名が死亡。
三番目の「佐渡丸」は砲撃をうけましたが、ロシア艦隊が早期に退去したので、逃走をはかり沈没をまぬかれました。しかし、壮絶な状況にありました。
Wikipediaによると佐渡丸の戦死者は『陸軍219名、乗組員17名の総計236名[捕虜は陸軍(宮沢泰次郎陸軍三等軍医)と海軍(小椋)の将校各1名、文官14名、乗組員その他13名の計29名[、生存者は野戦鉄道提理部694名(うち将校12名)、第二臨時築城団22名(うち将校5名)、攻城砲兵司令部13名(うち将校3名)、戊碇泊場司令部135名(うち将校4名)、海軍関係者3名、便乗者2名、各種乗組員124名の計993名であった』
この墓碑には、『陸軍野戦鉄道隊 松岡七郎乃墓 』と刻まれています。その側面には『明治三十七年六月十五日福岡県沖島付近佐渡丸遭難死 』とあります。まさに「佐渡丸」の21歳の乗員の墓碑でした。
明治42年の『大津市志』には、この青年についての記事があります。
『大津市了徳町一番地 鉄道掃除夫雇人 松岡七郎 明治十六年三月十日生 明治三十七年五月二十六日野戦鉄道に隷属し、三十七八年戦役従軍御用船佐渡丸に乗込。明治三十七年六月十五日筑前国沖の島南方に於て敵艦の砲撃を受け避難準備中端艇沈没の為め溺死。同日従軍記章授与。同四十一年五月靖国神社に合祀せらる。 』
民間人のために、軍人より遅く靖国神社に合祀されたのです。
「陸軍徴傭運送船」ってご存知ですか。戦争のために、陸軍に徴用された商船や客船のことです。乗組員も軍属として徴用されました。1950年代の朝鮮戦争でもあったことです。海外で戦争をするために、民間人が無理やり戦争にまきこまれることをしめす旧い墓碑を紹介します。
ときは日露戦争の開戦から4か月後。1904年6月15日、ウラジオストックのロシア艦隊が日本の3隻の輸送船をそれぞれ捕捉し砲撃しました。最初につかまった「和泉丸」は退去を命じられた後、撃沈されました。
つぎの「常陸丸」は壮絶な攻撃をうけながらも降伏せず、戦闘員と乗員あわせて1,091名が死亡。
三番目の「佐渡丸」は砲撃をうけましたが、ロシア艦隊が早期に退去したので、逃走をはかり沈没をまぬかれました。しかし、壮絶な状況にありました。
Wikipediaによると佐渡丸の戦死者は『陸軍219名、乗組員17名の総計236名[捕虜は陸軍(宮沢泰次郎陸軍三等軍医)と海軍(小椋)の将校各1名、文官14名、乗組員その他13名の計29名[、生存者は野戦鉄道提理部694名(うち将校12名)、第二臨時築城団22名(うち将校5名)、攻城砲兵司令部13名(うち将校3名)、戊碇泊場司令部135名(うち将校4名)、海軍関係者3名、便乗者2名、各種乗組員124名の計993名であった』
この墓碑には、『陸軍野戦鉄道隊 松岡七郎乃墓 』と刻まれています。その側面には『明治三十七年六月十五日福岡県沖島付近佐渡丸遭難死 』とあります。まさに「佐渡丸」の21歳の乗員の墓碑でした。
明治42年の『大津市志』には、この青年についての記事があります。
『大津市了徳町一番地 鉄道掃除夫雇人 松岡七郎 明治十六年三月十日生 明治三十七年五月二十六日野戦鉄道に隷属し、三十七八年戦役従軍御用船佐渡丸に乗込。明治三十七年六月十五日筑前国沖の島南方に於て敵艦の砲撃を受け避難準備中端艇沈没の為め溺死。同日従軍記章授与。同四十一年五月靖国神社に合祀せらる。 』
民間人のために、軍人より遅く靖国神社に合祀されたのです。
崩壊前の日露戦争の墓碑(松岡七郎) ― 2015/10/14
崩壊した日露戦争の戦死者の墓碑 ― 2015/10/14
朽木雄六少尉の遺影は興聖寺本堂に、墓碑は同寺の廃寺跡に ― 2013/09/06
「陸軍少尉・朽木雄六温嘉墓」の印象と碑文 ― 2013/09/03
私がYさんの案内で、この墓碑を見たのは、2012年6月のことです。廃寺跡は林の中。それでも、遺跡保存のための努力が払われているそうです。木立のなかに、石垣に囲まれた空き地が続いています。
朽木雄六の墓碑は、入口にあたる場所に、置かれていました。
それは、これ見よがしに巨大につくられたものではなく、むしろ小ぶりの墓碑でした。
これまで高島市で見た西南戦争の墓碑はどれも似た形をしていました。京都の霊山護国神社にならぶ幕末の志士の墓碑とよく似ています。それは、兵卒の墓碑だったからかも知れません。
朽木雄六は階級では「陸軍少尉」。将校です。兵卒の墓碑と将校の墓碑の違いは、どこにあるのかが気になります。
大きさではなく、石材が高価なものであること、そして兵卒の墓碑にはない、碑文が刻まれていました。
碑文は写真にあるとおりです。
「鹿児島賊徒」という表現は、旧真田山陸軍墓地などの墓碑では見ましたが、「西郷隆盛」という名前を見たのは、はじめてでした。あと、戦死の記述。二十四歳という若さでの死。
朽木雄六の墓碑は、入口にあたる場所に、置かれていました。
それは、これ見よがしに巨大につくられたものではなく、むしろ小ぶりの墓碑でした。
これまで高島市で見た西南戦争の墓碑はどれも似た形をしていました。京都の霊山護国神社にならぶ幕末の志士の墓碑とよく似ています。それは、兵卒の墓碑だったからかも知れません。
朽木雄六は階級では「陸軍少尉」。将校です。兵卒の墓碑と将校の墓碑の違いは、どこにあるのかが気になります。
大きさではなく、石材が高価なものであること、そして兵卒の墓碑にはない、碑文が刻まれていました。
碑文は写真にあるとおりです。
「鹿児島賊徒」という表現は、旧真田山陸軍墓地などの墓碑では見ましたが、「西郷隆盛」という名前を見たのは、はじめてでした。あと、戦死の記述。二十四歳という若さでの死。
戦争の記憶を伝える墓碑を求めて ― 2013/09/03
墓地をめぐり戦死者の墓碑を一つ一つ記録していく--これが私が2007年夏から続けてきたことです。
しかし、2012年の6月を最後に、墓地をめぐることをやめてしまいました。2011年11月と2012年6月に見た墓碑の記録も残さないままになっていました。
ですから、再開するにあたって、Yさんに案内されたこの2度の高島市での墓地見学の結果から、はじめたいと思います。
少し、解説を。
戦死者の墓碑の実在と所在を確認するもととなっているのは明治の末期に出版された『高島郡誌』です。ここには、「明治十年西南役戦病死者」、「明治二十七八年戦役戦病死者」(=日清戦争)および「明治三十七八年戦役戦病死者」(=日露戦争)の名簿が記載されているからです。
その数は、西南戦争が15名、日清戦争が17名、日露戦争が100名。
調査をしはじめて明らかになったことは、それらすべてが実在する可能性があることです。ただ民間墓地には、それぞれの墓碑について解説があるわけではありません。ほとんど碑文が消えたものがあります。わずかなくぼみと墓碑の形状などから、かろうじて判断できる墓碑もあります。
二度の見学の結果、西南戦争の墓碑をあらたに2基確認できました。それは、私にとって、大事な出来事といえます。
一つは、井上龜吉(広瀬村大字上古賀・歩兵)、もう一つは、朽木雄六(朽木村市場・少尉)。
これにより、南部由松、岸嘉七、日置住吉とあわせて5基の実在と所在地がわかったのです。
しかし、2012年の6月を最後に、墓地をめぐることをやめてしまいました。2011年11月と2012年6月に見た墓碑の記録も残さないままになっていました。
ですから、再開するにあたって、Yさんに案内されたこの2度の高島市での墓地見学の結果から、はじめたいと思います。
少し、解説を。
戦死者の墓碑の実在と所在を確認するもととなっているのは明治の末期に出版された『高島郡誌』です。ここには、「明治十年西南役戦病死者」、「明治二十七八年戦役戦病死者」(=日清戦争)および「明治三十七八年戦役戦病死者」(=日露戦争)の名簿が記載されているからです。
その数は、西南戦争が15名、日清戦争が17名、日露戦争が100名。
調査をしはじめて明らかになったことは、それらすべてが実在する可能性があることです。ただ民間墓地には、それぞれの墓碑について解説があるわけではありません。ほとんど碑文が消えたものがあります。わずかなくぼみと墓碑の形状などから、かろうじて判断できる墓碑もあります。
二度の見学の結果、西南戦争の墓碑をあらたに2基確認できました。それは、私にとって、大事な出来事といえます。
一つは、井上龜吉(広瀬村大字上古賀・歩兵)、もう一つは、朽木雄六(朽木村市場・少尉)。
これにより、南部由松、岸嘉七、日置住吉とあわせて5基の実在と所在地がわかったのです。
日露戦争の墓碑 ~洲崎善吉之墓~ ― 2013/01/25
高島市で一ヶ月以上、ほとんど泊まり込みで仕事をしている。
考え事をしていて、曲がるべき交差点を通り過ぎてしまった。
引き返すのも面倒だからと大回りをすることにした。
進んだ先の田んぼの間の農道に入り込んだとき、
集落の墓地があることに気づいた。
見ればその入口に「砲弾型」墓碑。
車一台分の駐車スペースがあり、棺をおく石台がある。
夕闇は迫り、カメラを持ち歩いていない。
手元のiphoneで撮影。
自分のブログで名簿を探すと、
川上村大字濱分
洲崎善吉
明治37年7月23日戦死
大石橋
という若者の墓碑だとわかる。
考え事をしていて、曲がるべき交差点を通り過ぎてしまった。
引き返すのも面倒だからと大回りをすることにした。
進んだ先の田んぼの間の農道に入り込んだとき、
集落の墓地があることに気づいた。
見ればその入口に「砲弾型」墓碑。
車一台分の駐車スペースがあり、棺をおく石台がある。
夕闇は迫り、カメラを持ち歩いていない。
手元のiphoneで撮影。
自分のブログで名簿を探すと、
川上村大字濱分
洲崎善吉
明治37年7月23日戦死
大石橋
という若者の墓碑だとわかる。
西南戦争の”私的な墓碑”と”公的な墓碑” ― 2011/09/15
日清戦争や日露戦争の戦死者(兵卒)の墓碑の扱いは、出身地と陸軍墓地ではずいぶん差がありました。陸軍墓地は、集団の一つとして小さく没個性的な存在でした。出身地の共同墓地では、最も目立つ個性的な墓碑として屹立しています。
西南戦争の場合は、すこし様子がちがうと感じます。
まず、旧真田山陸軍墓地の墓碑は画一的ですが、記事内容が具体的です。死因なども明記されています。さらに、「鹿児島賊徒征討」という文言が刻まれています。共同墓地の墓碑の碑文は短く、階級さえ刻まれていない場合もあります。
今回の旧真田山陸軍墓地訪問の目的の三つ目は、日置住吉の墓碑との再会でした。
西南戦争で没した日置住吉の墓碑は二つあります。一つは、旧真田山墓地。もう一つは、出身地の共同墓地に置かれています。
出身地の墓碑は、ほとんど碑文が読めない状態でした。その墓地には、日清戦争の墓碑、日露戦争の墓碑もあります。それらは目を引く大きさと形をしています。その一方、日置住吉の墓碑は、顧みられることのない影の薄い存在となっていました。その扱いの違いに強い印象を持ちました。
西南戦争の場合は、すこし様子がちがうと感じます。
まず、旧真田山陸軍墓地の墓碑は画一的ですが、記事内容が具体的です。死因なども明記されています。さらに、「鹿児島賊徒征討」という文言が刻まれています。共同墓地の墓碑の碑文は短く、階級さえ刻まれていない場合もあります。
今回の旧真田山陸軍墓地訪問の目的の三つ目は、日置住吉の墓碑との再会でした。
西南戦争で没した日置住吉の墓碑は二つあります。一つは、旧真田山墓地。もう一つは、出身地の共同墓地に置かれています。
出身地の墓碑は、ほとんど碑文が読めない状態でした。その墓地には、日清戦争の墓碑、日露戦争の墓碑もあります。それらは目を引く大きさと形をしています。その一方、日置住吉の墓碑は、顧みられることのない影の薄い存在となっていました。その扱いの違いに強い印象を持ちました。
日清戦争戦病死者・林力松の出身地での立派な墓碑 ― 2011/09/15
「故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳」@寿命寺 ― 2011/09/10
旧雄琴村・寿命寺墓地の続きです。
戦死者の墓碑の一番左にある墓碑を見てみます。
墓碑の正面には、次のように刻まれています。
しかし、「明治廿八年・・・・台湾・・・・・・・・病死 三上政吉」ぐらいしか読み取れません。「廿八年」も微妙なところです。しかし、氏名が「三上政吉」、近衛歩兵と台湾の文字から考えて、日清戦争でなくなったのではないかと思います。 左側面の「三上庄吉」は、建立された方の名前でしょう。しかし、そうなると、同じ三上庄吉さんが二つの墓碑(三上秀哲と三上政吉)を建立されているということになります。日清戦争と日露戦争の双方で?それとも、二つの墓碑は同じ日露戦争で? 旧雄琴村の日露戦争の「戦時事績」には、三上秀哲さんは、戦病死者として掲載されています。同じ日露戦争ならば、しかも、もしかしたら兄弟かもしれない三上政吉さんが掲載されないのは変ではないでしょうか。ですから、政吉さんは日清、秀哲さんは日露戦争で亡くなったと思います。
戦死者の墓碑の一番左にある墓碑を見てみます。
墓碑の正面には、次のように刻まれています。
故近衛歩兵一等軍曹 切烈無比釋義淳この正面の碑文からは、埋葬されている人の名前がわかりません。「義淳」なのでしょうか。どの戦争で亡くなったのかという問題もここからは答えがありません。 右側面を見てみます。
しかし、「明治廿八年・・・・台湾・・・・・・・・病死 三上政吉」ぐらいしか読み取れません。「廿八年」も微妙なところです。しかし、氏名が「三上政吉」、近衛歩兵と台湾の文字から考えて、日清戦争でなくなったのではないかと思います。 左側面の「三上庄吉」は、建立された方の名前でしょう。しかし、そうなると、同じ三上庄吉さんが二つの墓碑(三上秀哲と三上政吉)を建立されているということになります。日清戦争と日露戦争の双方で?それとも、二つの墓碑は同じ日露戦争で? 旧雄琴村の日露戦争の「戦時事績」には、三上秀哲さんは、戦病死者として掲載されています。同じ日露戦争ならば、しかも、もしかしたら兄弟かもしれない三上政吉さんが掲載されないのは変ではないでしょうか。ですから、政吉さんは日清、秀哲さんは日露戦争で亡くなったと思います。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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