
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「憲法改悪を許さない滋賀のつどい」で緒方靖夫さんが語る ― 2013/04/13
滋賀・憲法のつどい ジェームズ三木講演会 ― 2009/05/04
憲法タウンミーティング in 滋賀 ― 2009/05/03
本日3日の午後1時から、
琵琶湖ホールの隣の「ピアザ淡海」で
「憲法タウンミーティング in 滋賀」
が行われました。
私は、参加する予定はなかったのですが
TS氏のすすめによって、直前に
出かけることにしたのです。
主催は、滋賀青年会議所で、
憲法改正のキャンペーンの一環なのでしょうか。
変えるべきかどうかという議論より、
国民投票法をどう活かすかという方向に
シフトした運営でした。
ミーティング中は、撮影禁止・録音禁止。
ですから、開会前のこの一枚しかありません。
国民投票法について解説したあと、
コーディネーターの役割を演じた
Aさんは学童でつながりのある方でした。
パネリストのお二人による議論は
とても参考になりました。
感想などは、どこかで書いてみたいと思っています。
ちなみに、パネリストは、
自民党の上野賢一郎衆議院議員と、
共産党の山下よしき参議院議員でした。
みなさん、お疲れ様でした。
企画された方の意図がどうあれ、
幅広い議論がきける場は大切です。
参加者は300人の会場の半分少し。
憲法「改正」が国民の切実な要求とは
なっていないことを感じました。
琵琶湖ホールの隣の「ピアザ淡海」で
「憲法タウンミーティング in 滋賀」
が行われました。
私は、参加する予定はなかったのですが
TS氏のすすめによって、直前に
出かけることにしたのです。
主催は、滋賀青年会議所で、
憲法改正のキャンペーンの一環なのでしょうか。
変えるべきかどうかという議論より、
国民投票法をどう活かすかという方向に
シフトした運営でした。
ミーティング中は、撮影禁止・録音禁止。
ですから、開会前のこの一枚しかありません。
国民投票法について解説したあと、
コーディネーターの役割を演じた
Aさんは学童でつながりのある方でした。
パネリストのお二人による議論は
とても参考になりました。
感想などは、どこかで書いてみたいと思っています。
ちなみに、パネリストは、
自民党の上野賢一郎衆議院議員と、
共産党の山下よしき参議院議員でした。
みなさん、お疲れ様でした。
企画された方の意図がどうあれ、
幅広い議論がきける場は大切です。
参加者は300人の会場の半分少し。
憲法「改正」が国民の切実な要求とは
なっていないことを感じました。
自民党と共産党の国会議員が競演! 青年会議所《憲法タウンミーティング in 滋賀》 2009年5月3日 ― 2009/04/17
”私の”憲法記念日 ― 2009/04/10

2009年5月3日は、日本国憲法が施行されて
62回目の記念日にあたります。
いまから、もう一ヶ月ありませんね。
滋賀九条の会は、5月4日に
ジェームズ三木さんを招いて、集会を開きます。
ジェームズ三木さんは、上の写真の本。
『憲法はまだか』(角川文庫)の著者ですね。
これ読まれましたか?
九条の会の呼びかけ人は9名(以下)敬称略)。
井上 ひさし(作家) 梅原 猛(哲学者) 大江 健三郎(作家)
奥平 康弘(憲法研究者) 小田 実(作家) 加藤 周一(評論家)
澤地 久枝(作家) 鶴見 俊輔(哲学者) 三木 睦子(国連婦人会)
亡くなられた方がでてきたのは残念なことですね。
この会のアピールの最後を下に引用します。
これを読むといつも思いを新たにするのです。
・・・じゃあ、私はどうしましょうか。
2008年の8月の平和行事のときに、
大津市の戦跡めぐりの企画がありました。
そのときに、私はガイドの一人として招かれました。
私が「旧大津陸軍墓地」の調査をしているのを
知っておられる方がいらっしゃたからです。
そのときは、私の話が海のものとも山のものとも
わからないので、「10分間で話してください」と言われました。
さすがに、苦笑しましたけれど、
できるかぎりの努力をして短く話しました。
それが功を奏したみたいですね。
今年の5月、憲法記念日の月に、
再び「戦跡めぐり」を企画されました。
そして、今度は陸軍墓地について、
「30分で説明してください」ということになりました。
とても30分間で話せる自信はありません。
墓碑だけで600近くあるのですから。
それに、まだ調査は初期の段階。
前回と同じ内容で話すのは失礼ですね。
この企画を節目に調査を少し前進させてみたいのです。
平和憲法を守るために、ガイドは私が決めた行動。
もちろん、それが私のできるすべてではありません。
そしてあなたの。
62回目の記念日にあたります。
いまから、もう一ヶ月ありませんね。
滋賀九条の会は、5月4日に
ジェームズ三木さんを招いて、集会を開きます。
ジェームズ三木さんは、上の写真の本。
『憲法はまだか』(角川文庫)の著者ですね。
これ読まれましたか?
九条の会の呼びかけ人は9名(以下)敬称略)。
井上 ひさし(作家) 梅原 猛(哲学者) 大江 健三郎(作家)
奥平 康弘(憲法研究者) 小田 実(作家) 加藤 周一(評論家)
澤地 久枝(作家) 鶴見 俊輔(哲学者) 三木 睦子(国連婦人会)
亡くなられた方がでてきたのは残念なことですね。
この会のアピールの最後を下に引用します。
これを読むといつも思いを新たにするのです。
・・・私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。
・・・じゃあ、私はどうしましょうか。
2008年の8月の平和行事のときに、
大津市の戦跡めぐりの企画がありました。
そのときに、私はガイドの一人として招かれました。
私が「旧大津陸軍墓地」の調査をしているのを
知っておられる方がいらっしゃたからです。
そのときは、私の話が海のものとも山のものとも
わからないので、「10分間で話してください」と言われました。
さすがに、苦笑しましたけれど、
できるかぎりの努力をして短く話しました。
それが功を奏したみたいですね。
今年の5月、憲法記念日の月に、
再び「戦跡めぐり」を企画されました。
そして、今度は陸軍墓地について、
「30分で説明してください」ということになりました。
とても30分間で話せる自信はありません。
墓碑だけで600近くあるのですから。
それに、まだ調査は初期の段階。
前回と同じ内容で話すのは失礼ですね。
この企画を節目に調査を少し前進させてみたいのです。
平和憲法を守るために、ガイドは私が決めた行動。
もちろん、それが私のできるすべてではありません。
そしてあなたの。
あいば野演習場での米海兵隊との日米共同訓練(2008.11.28-12.17)の通告文書 ― 2008/11/10
田母神前航空幕僚長の行動 - 軍人のいらだちと暴走の時代 ― 2008/11/04
田母神俊雄前航空幕僚長会見と論文の内容が明らかになってきました。それを一読して感じたことを書きたいと思います。
論文はひとりよがりで稚拙なことは否めません。しかし、そういう内容だとして、無視したり、軽視したりすることは狙いを見誤っていると感じました。
田母神氏は、発言することそれ自体に意味があると考えたのでしょう。
記者会見の冒頭の発言は、つぎのように結ばれています。
防衛庁は防衛省に格上げすることができた、またアメリカの要請によって自衛隊の海外派兵はどんどんすすむ。実態的に憲法は蹂躙されています。国会は、憲法改悪することを党是とする自民党や民主党などで多数を占められています。
もう変えればいいと思っているときに、明文改憲は展望が狭まりつつあります。
国内では、2003年に結成された「九条の会」などの運動が広がり、世論調査では、ここ十年、憲法を変えよという声が多数を占めていたのに、昨年、ついに憲法を守れという声が逆転しました。さらに、名古屋で違憲判決が出ました。
そうそう、そのときに、田母神氏が「そんなの関係ない!」という発言をしたのは偶然ではなかったのです。 世論だけが道を阻んでいる---そこに苛立ちの根源があると思いました。
ですから、それを変えなくてはと思いはじめていたのでしょう。そして、政治家が言い出せないなら、自分がやらなくてはと使命感をもったのでしょう。
記者会見で高ぶる気持ちをおさえがたいように語っています。
ネットも容易な世界ではないことを感じたのは、田母神氏の行動についてのアンケート結果を見たときです。肯定と否定が拮抗しています。 この結果に思わず暗澹として気分になりましたが、田母神氏の行動がある潮流を激励する役割を演じていることをうかがわせます。この意味では、行動はムダではなかったのです。
私はボールを投げられたと感じましたので、丁寧にお返しすべきだと考えています。
論文はひとりよがりで稚拙なことは否めません。しかし、そういう内容だとして、無視したり、軽視したりすることは狙いを見誤っていると感じました。
田母神氏は、発言することそれ自体に意味があると考えたのでしょう。
記者会見の冒頭の発言は、つぎのように結ばれています。
私の解任で、自衛官の発言が困難になったり、議論が収縮したりするのではなく、むしろこれを契機に歴史認識と国家・国防のあり方について率直で活発な議論が巻き起こることを日本のために心から願っております。日本の軍隊のトップは、苛立ちと閉塞感をもって、現在の日本の情勢を見ていたのだと思いました。彼はそれを変えるために「契機」を創ろうとした確信的で政治的な行動であったのです。
防衛庁は防衛省に格上げすることができた、またアメリカの要請によって自衛隊の海外派兵はどんどんすすむ。実態的に憲法は蹂躙されています。国会は、憲法改悪することを党是とする自民党や民主党などで多数を占められています。
もう変えればいいと思っているときに、明文改憲は展望が狭まりつつあります。
国内では、2003年に結成された「九条の会」などの運動が広がり、世論調査では、ここ十年、憲法を変えよという声が多数を占めていたのに、昨年、ついに憲法を守れという声が逆転しました。さらに、名古屋で違憲判決が出ました。
そうそう、そのときに、田母神氏が「そんなの関係ない!」という発言をしたのは偶然ではなかったのです。 世論だけが道を阻んでいる---そこに苛立ちの根源があると思いました。
ですから、それを変えなくてはと思いはじめていたのでしょう。そして、政治家が言い出せないなら、自分がやらなくてはと使命感をもったのでしょう。
記者会見で高ぶる気持ちをおさえがたいように語っています。
私は常々、「志は高く熱く燃える」ということを指導してまいりました。志が高いということは自分のことよりも国家や国民のことを優先するということです。熱く燃えるということは、任務遂行にあたりいかなる困難に突き当たろうとも決してあきらめないということです。論文に書きましたように、日本は古い歴史と優れた伝統を持つすばらしい国家です。決して「侵略国家」ではありません。しかし、戦後教育による「侵略国家」という呪縛(じゆばく)が国民の自信を喪失させるとともに、自衛隊の士気を低下させ、従って国家安全保障体制を損ねております。2・26の青年将校のような凝り固まり方に寒々とした思いを私はもちました。
ネットも容易な世界ではないことを感じたのは、田母神氏の行動についてのアンケート結果を見たときです。肯定と否定が拮抗しています。 この結果に思わず暗澹として気分になりましたが、田母神氏の行動がある潮流を激励する役割を演じていることをうかがわせます。この意味では、行動はムダではなかったのです。
私はボールを投げられたと感じましたので、丁寧にお返しすべきだと考えています。
『平和・憲法だいすきのつどい』チラシもらいました ― 2008/09/15
《私たちの街に「9条の会」を作りませんか》というチラシ ― 2008/09/07
「長等・平和を語る会」のチラシ ― 2008/09/07

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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