お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争「合葬之墓」の背面 ― 2011/09/27
読めない字について ― 2011/09/27
3柱の「陸軍々人合葬之墓」 ― 2011/09/27
「陸軍軍属合葬之墓」(5柱のなかの一番左手) ― 2011/09/27
5つの合葬碑 ― 2011/09/27
奥に茶色い巨石が見える・・・ ― 2011/09/27
Yahooグループ「比治山陸軍墓地存続の会」の説明文を読む ― 2011/09/27
ネットを検索していたら、Yahooグループに「比治山陸軍墓地存続の会」というのが登録されていました。2004年3月25日開設。しかし、メンバーは1名。グループに参加する人がないまま移転したか、閉鎖されたのでしょうか。「グループの説明」という欄の記述はなかなかのすぐれものだと思いましたので、転載させていただきました。
グループの説明:広島市南区にある比治山の陸軍墓地は、明治5年に設置され、全国に散在する旧軍墓地の中では、大阪の真田山陸軍墓地(明治4年)に次いで2番目に古い墓地です。ここには、明治初年の萩や秋月の乱、西南戦争、日清・日露戦役、シベリア出兵、ノモンハン事件、上海事変など幾多の戦争で、傷つき病に倒れた戦傷病者を戦地から送還し、広島の陸軍病院に収容。しかし、看病の甲斐もなく亡くなられた戦没者の出身地は、沖縄を除く全国46都道府県に亘り、故郷にはない、此の比治山だけにある戦没者の墓地でもあるのです。墓地の通路の両側には、9段の墓石段に階級と氏名が刻まれた墓石が、各県毎に立ち並んでおり、墓石段の4箇所に遺骨が収納されています。只、残念なことに、昭和19年に広島市と軍が合議の上、学徒動員で墓地の取り壊しをしたために、一部の遺骨は仮納骨堂に納められましたが、半数以上は、大きな壕を掘ってその中に墓石も遺骨も一緒くたに放り込んでしまったのです。しかも、戦後10年余りも墓地の再建を放置したままだったのですが、たまりかねた市内在住の岩田日出子さんと立石吾一氏、それに村田安弘氏の三人の並々ならぬ努力と尽力によって、昭和30年に墓地の復興に着手し、昭和35年にようやく念願の再建墓地が完成したのです。墓地内には、フランス・ドイツ・台湾・中国の4カ国の外人兵士の墓地もあり、墓地奉賛協力会所属の田村昭三氏と三郎丸氏、渡辺好枝さんなど、僅か数名のボランティアによって、毎日欠かすことなく、清掃・供水・供花が成されており何とか維持されております。墓地の維持管理に要する経費は何処からも出ておらず、参拝者の賽銭と時折の寄付、それに奉賛会に所属する各会からの協力金で賄っているのが現状で、運営には一苦労です(市当局からは、電気代と水道代の負担のみ)。また、奉賛会の組織も高齢化や死亡などで甚だしい減少傾向にあり、墓地の置かれている実情に危惧を抱くようになりました。此の度、比治山陸軍墓地存続の会を立ち上げましたのは、こうした諸般の事情からで、一人でも多くの方に参加いただき、墓地の存続について意見を交換しあい、話し合いの場とすることを目的としております。作成された方はどなたか存じ上げませんが、さらにご教授いただけたらと思います。
広大な放射線影響研究所の敷地にて ― 2011/09/27
「比治山下」の市電の停車場から、だらだらと曲がった坂道を山頂めざして歩く。途中に駐車場があり、車で来たほうがよかったのかと思ってしまう。
セミの声がいきなり身近で聞こえる。「9月末なのに」と思ってみると、透明な羽をもった小さなセミが縁石の上で鳴いている。一休みのつもりで撮影。
しばらくすると真上の視界が広がる。頂上は平地で広大になっている。そこに現代的な建物が見える。「放射線影響研究所」である。元となったのは米軍の施設。人間のうえに原爆を投下しその影響を研究するために、陸軍墓地を破壊して造られた施設である。Atomic Bomb Casualty Commission。略称は、ABCC。原爆傷害調査委員会である。 ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなく、 ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなったという。
素っ気ない告知板の訳が納得できる。
研究所の通用門に立って見る。墓地の方向がわからない。気配がないからだ。 しかたなく、施設の正門へ。休日なので入ることはできない。見渡すと、広大な敷地は格好のジョギングコースとなっていて、散歩したり、ジョギングする人がいる。
市民墓地の方向から登ってきた人に、陸軍墓地の場所をたずねた。研究所のまわりをもう少し回れば、入り口が見えるという。
たしかにそのとおりだった。
かつてこの研究所とその向こうに見えるNHKの電波塔のあたりまで、比治山陸軍墓地が広がっていたという。あらかじめ読んで知っていたはずなのに、注意して観察してこなかったことを後悔する。墓地の入り口だけ撮影して、その周囲との関係は撮らずに戻ってきた。現在の墓地はあまりに小さい。米軍の建てたかまぼこ形の建物はいまも健在。
しばらくすると真上の視界が広がる。頂上は平地で広大になっている。そこに現代的な建物が見える。「放射線影響研究所」である。元となったのは米軍の施設。人間のうえに原爆を投下しその影響を研究するために、陸軍墓地を破壊して造られた施設である。Atomic Bomb Casualty Commission。略称は、ABCC。原爆傷害調査委員会である。 ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなく、 ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなったという。
素っ気ない告知板の訳が納得できる。
研究所の通用門に立って見る。墓地の方向がわからない。気配がないからだ。 しかたなく、施設の正門へ。休日なので入ることはできない。見渡すと、広大な敷地は格好のジョギングコースとなっていて、散歩したり、ジョギングする人がいる。
市民墓地の方向から登ってきた人に、陸軍墓地の場所をたずねた。研究所のまわりをもう少し回れば、入り口が見えるという。
たしかにそのとおりだった。
かつてこの研究所とその向こうに見えるNHKの電波塔のあたりまで、比治山陸軍墓地が広がっていたという。あらかじめ読んで知っていたはずなのに、注意して観察してこなかったことを後悔する。墓地の入り口だけ撮影して、その周囲との関係は撮らずに戻ってきた。現在の墓地はあまりに小さい。米軍の建てたかまぼこ形の建物はいまも健在。
兵卒の墓碑の側面@現「比治山陸軍墓地」 ― 2011/09/25
将校の墓碑の取り扱い@現「比治山陸軍墓地」 ― 2011/09/25
現「比治山陸軍墓地」で、兵卒(一等卒、二等卒、上等兵、輜重輸卒、軍役夫など)の墓碑が今、どういう形で配列されているかは、ご紹介したとおりです。
では、将校クラスはどうなのでしょうか。
写真を見ていただいたとおりの姿でした。
大佐や少佐クラスの墓碑も(兵卒に比べれば隙間があるとはいえ)まとめて並べられています。
陸軍墓地は階級差別が露骨です。そのことが軍隊とはなにかを考えさせる入り口にもなっています。現在の「比治山陸軍墓地」では、兵卒も将校も墓碑の扱いは同じです。私には、違和感があります。
下の写真は、旧真田山陸軍墓地の将校の墓地の一部。 旧真田山陸軍墓地では、巨大な墓碑が林立する一角をはじめ、L字型の領域に将校の墓碑が数多く並んでいます。 旧比治山陸軍墓地は、きっとこれらと同じ風景だったと思われます。
では、将校クラスはどうなのでしょうか。
写真を見ていただいたとおりの姿でした。
大佐や少佐クラスの墓碑も(兵卒に比べれば隙間があるとはいえ)まとめて並べられています。
陸軍墓地は階級差別が露骨です。そのことが軍隊とはなにかを考えさせる入り口にもなっています。現在の「比治山陸軍墓地」では、兵卒も将校も墓碑の扱いは同じです。私には、違和感があります。
下の写真は、旧真田山陸軍墓地の将校の墓地の一部。 旧真田山陸軍墓地では、巨大な墓碑が林立する一角をはじめ、L字型の領域に将校の墓碑が数多く並んでいます。 旧比治山陸軍墓地は、きっとこれらと同じ風景だったと思われます。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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