お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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戊辰役殉難士菩提所2019/12/09

戊辰役殉難士菩提所
戊辰役殉難士菩提所。
京都をあるけば、いたるところに史跡。
東福寺塔頭の一つ地退耕庵。
その門前にある。

「幕末維新の軌跡」@霊山歴史館2011/09/07

「幕末維新の軌跡」@霊山歴史館
 休日をとることを突然決めた。お盆以来休んでいないが、休める条件がなかったからだ。仕事場の段取りは前日につけることができた。
 さて、その朝、カミさんが仕事に出た後、部屋の片づけをするか、それとも・・・と考えていた。ネットで検索していて、京都霊山護国神社に行こうと決めた。大津市にある護国神社は、あまりにさびれている。靖国神社は見てみたいが、午前9時から思い立って行くには遠い。そこで、近場で探した。Wikipediaで見ると以下のような起源をもつ。
1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持つ。
 そういえば、坂本竜馬の墓碑があるところである。
 二人の息子さんたちは、まだ大学が始まらないのを前日に聞いていたので、誘ってみることにした。誘いに応じたのは、K君。
 八坂神社の近くだから、適当に歩けばいける。歩いているときに、看板を見つけた。・・・「霊山歴史館」?
 まともに調べなかったので、これがあるのさえ知らなかった。K君に付き合ってもらっているので、サービスのつもりで、見学することにした。
霊山歴史館
決して大きくはないけれど、解説映像などが三か所で見ることができる。歴史的なつっこみは浅いが、K君は興味深げであった。私は・・・池田屋や近江屋の死闘をリアルに再現することは、悪趣味だと感じた。

ウクライナ国家は 「Ukraine」 か 「the Ukraine」 か?2009/10/23

 現在も東京都知事をされている方が、「三国人」という言葉を使い、民族差別発言として問題になりました。その国家、その民族をどう呼ぶべきかということは、重要な問題なのです。
 黒川祐次氏の『物語 ウクライナ史』を読んで、ウクライナについてもそれがいえるということを確認しました。
 この本には、この主題を扱った「ウクライナの語源」という節があり、81~84ページに渡って展開されています。
   私はロシア語を学びましたから、ロシア的な角度から、ウクライナを普通名詞の意味通りに「辺境の地」(украина=окраина)だと思っていました。
 これについて、ウクライナの側から異論が出ていることを、この本で初めて知りました。言い分は、ウクライナは「辺境」を意味するウクライナから派生したものではなく、もともとは「土地」とか、「地域」を意味していたクライから固有名詞化したにすぎないというものです。古い文献を検討して、「ウクライナ」が出てくる文脈を根拠にしています。
 ロシア側からすれば、地理的には「辺境」であり、それをそのまま使ってもなんの違和感もなければ、プライドが傷つくわけでもありません。しかし、ウクライナの立場からすれば、自らを「辺境」と自称することはうれしいことではありません。
 そういえば、日本を含む一定の地域は「極東」と呼ばれることがありますが、それは西欧から見た視点にすぎません。われわれは、自らを「極東」=東の端と自称するわけではありません。ましてや国家の名前を「極東国」とはいいません。
 長い間、国家をもてなかった民族の屈辱感と誇りは、こういうところにも出てきているのだと思いました。それは十分配慮すべきことなのです。呼称にとどまらない問題として。
 タイトルにある「Ukraine」「the Ukraine」ですが、the をつけるのは、ロシア中心主義の立場からの叙述本のタイトル、ウクライナ政府は無冠詞を望んでいるようですね。これも、上の説明で理解できることです。

滋賀県政史料室の職員さんに感謝します2008/10/17

南保一義大尉以下5名の兵卒の移葬記事
相談にのっていただいた上に、
私が必要としている資料(上の写真)を
わざわざ探していただきました。
県政史料室の職員さん、
ほんとうにありがとうございます。

私は、ずっと「南保一義大尉」についての
史料を探していました。
閲覧を申請した史料があてはずれだったという
連絡をいただいたときは、がっかりしました。
やはり、墓碑そのものに当たるしかないと
思い始めていたのです。
それで、昨日、久しぶりに旧大津陸軍墓地を
訪れて墓碑を調べました。
そして、かろうじて読める部分を見つけて
大喜びしたばかりでした。
その翌日、つまり今日うれしい知らせをいただきました。
これで一年悩んだ問題が解決しました。

南保一義大尉だけではなく、
同じ大洞陸軍墓地(埋葬地)から
大津陸軍墓地(埋葬地)へ移葬された
5名の兵卒の氏名と出身地も、
あわせて正確に知ることが出来ました。
読めないままに終わるかと思えた
碑文のいくつかがが復元できるかと思うと、
うれしくなります。

もう一つ。
これは碑文の解読のことですが、
埃を取り払って碑文をじっくり見ると、
南保一義大尉が三十歳でなくなったことも
わかりました。

まずは、碑文の解読と言う第一段階の
目的はほぼ達っしたことになります。

*残っているのは、南保一義大尉の応徴日、
死亡原因(おそらく病死)、死亡年月日。
生年月日と死亡年月日は±3年以内で特定できます。

青年劇場『族譜』@びわこホール2008/10/16

『族譜』滋賀公演@びわこホールにいく
ぎりぎりで仕事場と折り合いをつけて
会場に駆けつけることができました。
開演二分前のことです。
いろんな事情があったにせよ、
見ることができてうれしく思いました。

「青年劇場」の演劇を見るのは、
『真珠の首飾り』以来3年ぶりのことでした。

この劇の内容などについては、
サイトがありますのでそちらで
ご覧ください。

私の感想。

奇をてらわずストレートに主題に
向かっている劇でした。

幕間のエピソードとも思えた
孫達の姿が見事に
時のながれを映し出す鏡として
使われていることになるほどという
思いがしました。

生々しい政治的な主題にこもる人間臭。
リアルな痛みに触れた気がしました。
韓国の方が見たら、ちがう感想をもつのか、
それとも、共感されるのか、
それも知りたいとも思いました。

「創氏改名」の先に、朝鮮の人たちに対する
徴兵の導入が待ち受けていました。
自国の利益のために、属国の人々を
徴兵する・・・現在、徴兵制度はありませんが、
似たような事態は日本とある大国の間で
すすんでいますね。
少なくともいまある軍隊をさしだすために、
憲法を変えようとする動きも。

いろいろ想像をかきたてられる演劇でした。
それらについては、エントリーをあらためて、
書き続けてみたいと思います。

高杉一郎 『征きて還りし兵の記憶』2008/09/10

高杉一郎 『征きて還りし兵の記憶』
この本の帯に
「スターリンとは、社会主義とは、
 戦後とは何だったのか」
と書かれています。

このタイトルから、
シベリア抑留の悲惨さと
ソ連のスターリンの悪行の
告発だと思っていました。

すでに事が明白になっていますから、
あらためて読む気がしませんでした。
それで、書名は知っていましたが、
読まずにパスしてきたのです。

先日、岩波現代文庫などから
戦争にかかわるものを数冊まとめて
買ってきました。
この機会にとこの本も買ったのです。

買えば、当然、読みますね。
最初の数章も心安らかに読める
内容ではありませんでしたが、
帰国後の章に入ると、
いっそう胸がふさがる思いでした。

私が最も打たれたのは(といっても、まだ途中)
「福原鱗太郎と宮本百合子」の章でした。

帰国してなおスターリンの亡霊に
二重、三重に苦しめられ、
傷つけられた人たちがいたのですね。

社会の進歩を願う人たちが
その亡霊に支配されるようなことに
どうしてなったのかと
同時に、どういうプロセスをへて
そこから抜け出すことができたのかと
その代価を払った人たちは
どうなるのかと思わずにいられませんでした。

あの「ナンバ歩き」は軍隊が直した? :吉田裕『日本の軍隊』2008/09/05

吉田裕『日本の軍隊 -兵士の近代史-』
昨日から、吉田裕さんの
『日本の軍隊  -兵士たちの近代史-』(岩波新書)
を読んでいます。
写真でもあるように、帯に、
「兵士の目線から近代日本を問う」というのが、
購入した決め手でした。

新書って表紙カヴァーの裏に数行の紹介がありますね。
それってなかなか有用なんです。

全体の主題なんかがわかりやすくかいてある。

1873年の徴兵令制定以来、文明開化の推進力となり、全国に近代秩序を浸透させる役割を果たした日本の軍隊。それが、15年戦争期のような反近代的で精神主義的な軍隊になってしまったのは、なぜか。日本の民衆にとって、軍隊経験とは、どんな意味があったのか。

要するに、こういう本を探していたのです。

まだ最初のほうですが、「ナンバ歩き」に目がとまりました。

「ナンバ歩き」って知ってますか?

右手と右足を同時に出す、つぎは
左手と左足を同時に出す、そうして
歩く・・・そういう歩き方です。
卒業式のとき、ガチンガチンになって
やってしまう、あれですよ。

それが明治まではふつうの日本人の歩き方であって、
それを現在のような歩き方に変えたのは、
軍隊での訓練のおかげ・・・ということになります。

この歩き方について聞いたのは、
これが二度目でした。
K君がなんかで話していました。
ブログでも書いたかな?

軍隊との関係で読んだのは、しかし、
これが初めてでした。

とりあえず、民衆の生活に深く影響を
与えているものとして軍隊を見る視点は、
なかなか興味深いものがあるということを
お伝えしたかったのです。

読み終わったら、まとまった感想を書きます。

痕跡2008/06/25

この痕跡はおだやかに見ることができますが
 何気ない痕跡が化石となり、数万年後に伝わる・・・ロマンがありますね。
 屋久島で見た生痕化石「ズーフィコス」がそうでした。たまたま泥地で生命活動をする。それが、どういうわけか、現代まで残っている・・・不思議です。
 上の写真も、もしかして化石になるかも?
 団地をつくるために盛土をし、その糊面にコンクリートの壁が造られます。それは、子どもたちの格好のキャッチボールの相手となります。壁に転々とつくボールの痕跡。いつ、だれがつけた痕なのか、わかりませんし、どれほど、この痕跡が残るのかも、わかりません。
 子どもたちの遊んだ姿の化石として1万年後まで残ったら面白いですね。



 でも、おなじタマの痕でも、二つ目の写真はちがいます。
 鹿児島市の城壁に残る西南戦争の銃痕。子どもたちのボールの痕跡を眺めているうちに、普段は考えもしないのですが、今日はこの壁を連想していました。

サイト『古屋哲夫の足跡』に2008/06/24

古屋哲夫氏が執筆者となった『新修大津市史』5
『古屋哲夫の足跡』(←クリック)というサイトがあります。
 「大阪鎮台」などをキーワードの検索して見つけました。
 サイトを散歩しているうちに、古屋哲夫氏が『新修・大津市史』(近代)の著者の一人であり、私がこの一年間ほど追求している「第九連隊」の章の執筆者であることを知り、驚きました。直接、話ができればと連絡先を探してみました。
 《ご挨拶》(←クリック)には、以下のように書かれています。

 私 古屋哲夫は、2006年12月2日午後2時2分、この世を去りました。
 自分の人生は、自分の能力からすれば出来すぎだ。
 日本人として、初めて敗戦を経験する事も出来て満足している。
 神様がもう一度初めから人間をやらせてやると言われても、御断りして、その分長生きさせてくれるよう御願いしたい。
 今、死と言うこの世の運命を受け入れ、あの世の新しい運命と取り組みます。

 このご挨拶で、古屋哲夫という人の人柄がよくわかります。そして、サイトを死後も大事に維持されているご遺族に敬意を表します。
 昨日から、これもまた最近亡くなられた小田実氏の『「難死」思想』(岩波現代文庫)を読んでいます。戦争と敗戦、社会の崩壊と価値の大転換を経験してきた世代のかけがえのない体験と強烈な思いがつづられています。
 古屋哲夫さんのサイトと業績を俯瞰していると、小田実さんと同様の強固な人間の核に向き合っているのを感じました。

ハーバート・G・ポンティング(長岡祥三訳)『英国人写真家の見た明治日本』(講談社学術文庫)2008/06/14

ハーバート・G・ポンティング(長岡祥三訳)『英国人写真家の見た明治日本』(講談社学術文庫)
 先日、高島市からの帰路、ブックオフに立ち寄って購入した本の一つです。立ち読みしたときに、冒頭や本文中にある数十枚の写真の見事さに感心して買ってきました。定価は1100円で、値札は600円。残念長等、105円ではなかったです。
 ハーバート・G・ポンティングは、1870年3月21日に、イギリスのソールスベリーで生まれ、1935年2月7日に亡くなっています。写真家として世に認められるのは、1900年以降。1910年から12年の間にスコット南極探検隊の一員として南極探検の記録を残しています。
 日本を最初に訪問したのは、1902(明治35)年ごろ。日露戦争(1904~5年)のときに、アメリカの雑誌社の特派員として日本陸軍の第一師団に同行。戦争終了後は帰国しますが、1906年には再び日本を訪れています。
 この本は、1910年に出版されています。日本語訳は1988年が初出。文庫本となったのは、2005年です。全訳ではなく抄訳。

 私が最も興味をいだいたのは、日露戦争のときの記述です。広島陸軍病院の様子、ロシア人捕虜の様子、そしてなによりも、児玉源太郎、黒木為楨、伊藤博文などとの取材をつうじての個人的な交流です。
 風景や文化など広い分野で、日本びいきの様子はありありとしていますし、日本人女性については絶賛です。そういう共感が暖かくて細やかな記述の根底となっています。
 明治の日本人が多数写真に写っています。無名の人々の姿は、威厳に満ちています。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)