
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日露戦争の戦死者名簿(旧マキノ町) ~『高島郡誌』より~ ― 2009/11/12
日露戦争は、『高島郡誌』では、「明治三十七八年戦役」という名称が用いられています。名簿は、100名・氏名、出身地、兵種、階級、勲等功級、戦病死年月日、戦病死場所という7項目に記載があります。
「平成の大合併」で高島市が誕生したのは、2005年1月1日。このときに、高島郡は消滅します。それまでは、マキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、高島町そして朽木村から成り立っていました。
5町1村が確立するのは、1950年のことで、下の村名は、それ以前の地名なのです。
マキノ町は、海津村、剣熊村、西庄村そして百瀬村の4つを合併して誕生しました。これら4村における日露戦争の戦死者は、以下の17名。内訳は、海津村から3名、剣熊村から3名、西庄村から8名、百瀬村から3名。すべての村から悲しい犠牲者が出たのです。
なお、マキノ町は、西南戦争では4名(南部由松、谷口筆松、谷口良造、中川寅吉)、日清戦争では1名(井花長太郎)の戦死者を出しています。その後の戦争はともかくとして、日露戦争がそれぞれの村に与えた衝撃の大きさがわかります。
○中村 治平 海津村大字海津
明治38年3月1日 奉天附近
○小谷 彌吉 海津村大字西濱
明治38年3月1日 北臺子
○土肥 定吉 海津村大字西濱
明治37年9月3日 遙陽附近
○岩本 岩三郎 剣熊村大字小荒路
明治38年3月4日 来神堡
○上田 興市 剣熊村大字浦
明治37年12月22日 旅順
○安本 孫吉 剣熊村大字野口
明治37年8月23日 盤龍山
○久保井 友吉 西庄村大字寺久保
明治37年8月24日 盤龍山
○田中 仙吉 西庄村大字開田
明治37年9月3日 シュアンシュダイ
○青谷 富蔵 西庄村大字牧野
明治38年3月2日 角面堡
○青谷 重太郎 西庄村大字牧野
明治37年8月21日 旅順
○木下 龍之介 西庄村大字下開田
明治37年8月24日 盤龍山
○橋本 甚右衛門 西庄村大字下開田
明治38年9月1日 大房身(病死)
○黒川 幸次郎 西庄村大字寺久保
明治37年8月1日 滾子泡
○藤田 吉之助 西庄村大字蛭口
明治37年7月23日 五臺山(病死)
○伊吹 米蔵 百瀬村大字中庄
明治38年3月7日 小貴興堡
○鳥居 宗七 百瀬村大字知内
明治37年8月22日 旅順要塞
○黒川 辰三郎 百瀬村大字新保
明治37年10月8日 長嶺子(病死)
「平成の大合併」で高島市が誕生したのは、2005年1月1日。このときに、高島郡は消滅します。それまでは、マキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、高島町そして朽木村から成り立っていました。
5町1村が確立するのは、1950年のことで、下の村名は、それ以前の地名なのです。
マキノ町は、海津村、剣熊村、西庄村そして百瀬村の4つを合併して誕生しました。これら4村における日露戦争の戦死者は、以下の17名。内訳は、海津村から3名、剣熊村から3名、西庄村から8名、百瀬村から3名。すべての村から悲しい犠牲者が出たのです。
なお、マキノ町は、西南戦争では4名(南部由松、谷口筆松、谷口良造、中川寅吉)、日清戦争では1名(井花長太郎)の戦死者を出しています。その後の戦争はともかくとして、日露戦争がそれぞれの村に与えた衝撃の大きさがわかります。
○中村 治平 海津村大字海津
明治38年3月1日 奉天附近
○小谷 彌吉 海津村大字西濱
明治38年3月1日 北臺子
○土肥 定吉 海津村大字西濱
明治37年9月3日 遙陽附近
○岩本 岩三郎 剣熊村大字小荒路
明治38年3月4日 来神堡
○上田 興市 剣熊村大字浦
明治37年12月22日 旅順
○安本 孫吉 剣熊村大字野口
明治37年8月23日 盤龍山
○久保井 友吉 西庄村大字寺久保
明治37年8月24日 盤龍山
○田中 仙吉 西庄村大字開田
明治37年9月3日 シュアンシュダイ
○青谷 富蔵 西庄村大字牧野
明治38年3月2日 角面堡
○青谷 重太郎 西庄村大字牧野
明治37年8月21日 旅順
○木下 龍之介 西庄村大字下開田
明治37年8月24日 盤龍山
○橋本 甚右衛門 西庄村大字下開田
明治38年9月1日 大房身(病死)
○黒川 幸次郎 西庄村大字寺久保
明治37年8月1日 滾子泡
○藤田 吉之助 西庄村大字蛭口
明治37年7月23日 五臺山(病死)
○伊吹 米蔵 百瀬村大字中庄
明治38年3月7日 小貴興堡
○鳥居 宗七 百瀬村大字知内
明治37年8月22日 旅順要塞
○黒川 辰三郎 百瀬村大字新保
明治37年10月8日 長嶺子(病死)
砲弾型の墓碑のルーツは「征清記念碑」(名古屋・廣島)なのか ― 2009/11/03
日露戦争のあと、高島郡では、、戦死者の墓碑が砲弾型に造られていました。高島郡のすべての町にあったわけではなく、旧マキノ町、旧今津町、旧新旭町にありましたが、旧安曇川町、旧高島町では、ありません。これらの町のうち、高島町では、日露戦争の戦死者の墓碑はありましたが、砲弾型ではありませんでした。
今津町と新旭町にまたがって旧日本陸軍の饗庭野(あいばの)演習場があります。現在も、近畿で唯一の日米合同演習場として機能していますが、そのことと無縁ではないと思われます。
ところで、この二つの町で砲弾型墓碑が建てられた理由はなにかが気になってきました。ここだけのオリジナルではなく、必ず、ルーツがあり、そこに従ったにちがいないと思ったからです。
そこで思い当たったのが、明治36年に建設された二つの「征清記念碑」です。名古屋市と広島市に建てられた20メートルの高さをもつ「征清記念碑」がきっと話題になったはずです。それらを主導したのは、それぞれの市と陸軍ですから、演習場をかかえる今津町、新旭町の関係者が知らないわけがありません。
これらの「征清記念碑」については、西尾林太郎氏が書かれた「碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争の記録 -新たな教材と資料をもとめて-」がとても参考になりました。
さらにネットで調べていると、砲弾型の記念碑は、諏訪神社にもあるということです。
日露戦争の場合は、203高地に建てられて巨大な記念碑が、砲弾型になっています。
上の写真は、旧今津町の弘川霊苑のものです。
正面の埋葬者の氏名などは読めますが、側面は風化して読むことができませんでした。 『高島郡誌』を調べていて、読めない部分に記載されていたであろう内容がわかりました。上の写真には、砲弾型の墓碑は、2柱あります。左は、「故陸軍歩兵二等卒勲八等功七級前川重五郎之墓」、右は「故陸軍歩兵上等兵小川友吉之墓」。
前川重五郎は、今津町弘川出身。明治三十七年十一月十四日に廣島予備病院で病死しています。小川友吉は、同じく今津町弘川出身。明治三十七年八月二十ニ日に旅順で戦死しています。
今津町と新旭町にまたがって旧日本陸軍の饗庭野(あいばの)演習場があります。現在も、近畿で唯一の日米合同演習場として機能していますが、そのことと無縁ではないと思われます。
ところで、この二つの町で砲弾型墓碑が建てられた理由はなにかが気になってきました。ここだけのオリジナルではなく、必ず、ルーツがあり、そこに従ったにちがいないと思ったからです。
そこで思い当たったのが、明治36年に建設された二つの「征清記念碑」です。名古屋市と広島市に建てられた20メートルの高さをもつ「征清記念碑」がきっと話題になったはずです。それらを主導したのは、それぞれの市と陸軍ですから、演習場をかかえる今津町、新旭町の関係者が知らないわけがありません。
これらの「征清記念碑」については、西尾林太郎氏が書かれた「碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争の記録 -新たな教材と資料をもとめて-」がとても参考になりました。
さらにネットで調べていると、砲弾型の記念碑は、諏訪神社にもあるということです。
日露戦争の場合は、203高地に建てられて巨大な記念碑が、砲弾型になっています。
上の写真は、旧今津町の弘川霊苑のものです。
正面の埋葬者の氏名などは読めますが、側面は風化して読むことができませんでした。 『高島郡誌』を調べていて、読めない部分に記載されていたであろう内容がわかりました。上の写真には、砲弾型の墓碑は、2柱あります。左は、「故陸軍歩兵二等卒勲八等功七級前川重五郎之墓」、右は「故陸軍歩兵上等兵小川友吉之墓」。
前川重五郎は、今津町弘川出身。明治三十七年十一月十四日に廣島予備病院で病死しています。小川友吉は、同じく今津町弘川出身。明治三十七年八月二十ニ日に旅順で戦死しています。
高島市全体が砲弾型ではありませんでした ― 2008/11/20

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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