お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「忠魂之碑」@旧朽木村2011/10/12

「忠魂之碑」@旧朽木村
 仕事に熱中しているときは、ブログの更新がつらくなります。カメラを積んでいても、取り出す意欲がなえているのです。・・・ですが、突然、目覚めるときがあります。今津で会議をし、安曇川経由で朽木のMさんを訪問する日。途中で、墓地を見た瞬間に、スイッチが入りました。そして、なんとなく勘が働いてきて、神社の境内を通過するときに、急ブレーキ。
 通過する短い時間でよく見つけたものだと自分でも感心しましたけれど、「英霊芳名誌」と「忠魂之碑」でした。
 形は、剣熊村や葛川村に似ていますが、建立は昭和29年でした。1954年・・・米軍が進駐した時期には隠されたり、壊されたりした忠魂碑が再建される時期にあたっています。

パル判事顕彰碑@「昭和の社」(京都護国神社)2011/09/26

パル判事顕彰碑@「昭和の社」(京都護国神社)
 霊山墓地(霊山官修墓地)の墓碑の紹介はしましたが、「昭和の社」については、紹介しませんでした。墓碑見学も、日露戦争までで、日中戦争・太平洋戦争まではあまりに多数のために追い切れないと思っていたからです。しかし、野田内閣の韓国との関係を見ても、下の時事通信の記事にあるように、1945年の敗戦まで続いた戦争は、いまなお政治の焦点であることをやめていません。
韓国外相、慰安婦請求権で協議提案=「解決済み」玄葉氏は拒否 時事通信 9月25日(日)0時17分配信

 【ニューヨーク時事】玄葉光一郎外相は24日午前(日本時間同日夜)、ニューヨーク市内のホテルで韓国の金星煥外交通商相と会談した。金氏は、旧日本軍の元従軍慰安婦の賠償請求権を確認するための政府間協議を提案。玄葉氏は、1965年の日韓基本条約を挙げ「請求権問題は完全かつ最終的に解決済みだ」と拒否した上で、「この問題が日韓関係全体に悪影響を及ぼさないようにすべきだ」と冷静な対応を求めた。
 金氏はまた、日本統治時代に朝鮮半島から日本に持ち込まれた古文書などの扱いに関する日韓図書協定が先に発効したことを踏まえ、「適切な時期に引き渡してほしい」と要請。玄葉氏は「韓国側の意向を尊重しながら引き渡したい」と述べた。時期について、日本側は年内を検討している。
 玄葉氏は同時に、江戸時代の対馬藩の記録である「対馬宗家文書」を念頭に、日本由来で韓国政府が所蔵している図書類へのアクセス改善と消失した文化財の調査を求めた。  会談では、日韓双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題も議題に取り上げられたが、内容は明らかにされなかった。 
 このパル判事顕彰碑をまえにして、共通の思いを持ちました。それで、調べようと思っていたのです。
パル判事顕彰碑@「昭和の社」

四つの日露戦争合葬碑@旧真田山陸軍墓地2011/09/22

四つの日露戦争合葬碑@旧真田山陸軍墓地
軍隊がもつ階級制。
目にみえる形で示す四つの日露戦争合葬碑。

右手が大きく、順番に小さくなります。
その写真をもう一度上手に撮りたいと思いました。

将校の墓碑が最も大きく、
兵卒の墓碑は最も小さくなっています。
犠牲者がもっとも多かったのは兵卒なのに。

墓碑の大きさの違いを
当然視するのが軍隊です。

舊土佐藩招魂社@霊山墓地2011/09/12

舊土佐藩招魂社@霊山墓地
この碑には「舊土佐藩招魂社」と刻まれています。
実は、招魂社の”本体”を撮り損ねています。それが、小さな祠だという意識がなかったからです。
 この碑には「舊」がついています。当初からのものではなく、比較的新しい碑だと思われます。

岐阜県招魂場@霊山墓地2011/09/12

岐阜県招魂場@霊山墓地
 岐阜県招魂場---これは墓地の入り口の案内板(300円で販売されているパンフも同じ)の名称と一致しています。
岐阜県招魂場の碑
 入り口の両側にあるものはなにでしょうか。砲弾を模したような記がします。しかし、細すぎる気がします。私は、砲弾の実物を実見したことはほとんどありません。ですから、確かなことがいえません。
 招魂場は、招魂社とちがって、祠がありません。背後に回って確認しました。この場所の中心となる大きな板碑。背面と側面は撮影しました。しかし、・・・正面を撮るのを忘れていました。そういうミスもありますね。側面には明治三年の日付がありました。

水戸藩招魂社@霊山墓地2011/09/12

水戸藩招魂社の説明版
 墓地の入り口の案内板では「茨城県招魂社」。実際に行ってみると、「水戸藩招魂社」。あえて名称を変えて表示する理由が、よくわかりませんけれど。
水戸藩招魂社@霊山墓地
 靖国神社は、当初は招魂社という名称でした。それが靖国神社と改められたとか。靖国神社のようなものを思い描いていたので、小さな祠が招魂社ということに驚きを隠せませんでした。そもそも、小さな山の斜面にそのようなものが数カ所造れるはずはないのですけれど。

山口藩招魂社@霊山墓地2011/09/12

「霊山招魂社」の碑のとなりに、「山口藩招魂社」の碑がありました。
「霊山招魂社」のとなりに、「山口藩招魂社」がありました。二つの碑のそれぞれ後ろにある祠がそうなんでしょうね。私はもっと立派なものだと思っていました。
これは、二つの招魂社の碑の間にある細長い案内碑です。ピントがあっていなくて、読みにくくなっています。

霊山招魂社2011/09/12

霊山招魂社
霊山招魂社とはなにか?
Wikipediaをそのまま引用すれば、つぎのようになります。
 1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持つ。
 「靖国神社よりも古い歴史をもつ」という一文にひかれて、霊山墓地にやってきました。個人墓碑にも関心はありますが、”招魂社とはどういうものか”、見てみたいと思いました。
 それぞれについて詳しく調べることは後にして、現物を見て回りました。
 上の写真の右。階段の手前にあるのが山口藩招魂社の碑です。色は茶色っぽいものです。

立ち並ぶ志士の墓碑@霊山墓地2011/09/08

立ち並ぶ志士の墓碑@霊山墓地
 「霊山墓地」に並ぶ維新の志士たちのか細い墓碑。
「戒名」・「法名」もなければ(ここは神社だから、ないのは当然)、
階級名もない。名前だけが並んでいる。
なかには苗字のない墓碑もある。
平民出身なのだろう。

よく観察すると、「墓」と刻まれているとは限らないのだ。
あるものは、「招魂碑」、
あるものは「」。

恋も革命(維新)もつらぬいた木戸松子(幾松)の墓碑2011/09/08

木戸松子(幾松)の墓碑@霊山墓地
 京都の「霊山墓地」の続きである。
 幕末から維新にかけての時代は、華やいで見える。登場人物が若く、また女性との恋にも事欠かない。とくに、坂本龍馬とお龍、木戸孝允と幾松などはそうである。「革命か、恋か」ではなく、「革命も、恋も」という時代である。
 木戸の墓碑の隣に、木戸松子(幾松)の墓碑が置かれている。木戸の生涯の危機をなんどもいっしょに乗り越えてきた松子に最もふさわしい場所といえる。
 幾松(松子)が桂小五郎(木戸孝允)に出会ったのは、まだ18歳か19歳の頃である。10歳の違いだから、木戸は28歳か29歳之頃である。
 恋いも革命も実り、木戸が参議になったとき、二人は正式に婚姻をはたす。身分差をこえた、日本ではじめての正式婚姻だという。

 墓碑銘は「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓」である。じっと目をこらしていて、窮屈な印象をぬぐえなかった。「松子」にたどり着くまでには、官位があり、夫の名前があり、養子家の氏名がある。それは、木戸孝允も同じである。こういうものを目にすると興ざめしてくる。
 坂本龍馬の碑文は、木戸孝允が揮毫したと聞く。碑文には、位もなにもない。ただの坂本龍馬である。少しあとの時代になると「陸軍歩兵一等卒」などという階級名がつけられていく。私は俗世のしがらみを墓碑銘にまで背負わせることはないと思う。幾松が命を賭けて守ったのは、ただの小五郎ではないのか。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)