お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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水戸藩招魂社@霊山墓地2011/09/12

水戸藩招魂社の説明版
 墓地の入り口の案内板では「茨城県招魂社」。実際に行ってみると、「水戸藩招魂社」。あえて名称を変えて表示する理由が、よくわかりませんけれど。
水戸藩招魂社@霊山墓地
 靖国神社は、当初は招魂社という名称でした。それが靖国神社と改められたとか。靖国神社のようなものを思い描いていたので、小さな祠が招魂社ということに驚きを隠せませんでした。そもそも、小さな山の斜面にそのようなものが数カ所造れるはずはないのですけれど。

霊山には、いくつ招魂社があるのか2011/09/12

入り口の案内板とは別に墓地内にある案内表示
 霊山墓地の入り口に案内板があります。それを見ると、京都招魂社、山口招魂社、高知招魂社、熊本招魂社、岐阜招魂場、福岡招魂社、鳥取招魂社および茨城招魂社があるのがわかります。
 碑の名称と一致しない場合があります。たとえば、案内板では、京都招魂社ですが、現地では「霊山招魂社」という碑が建っているなどです。
 また、なぜ、岐阜だけが、招魂社ではなくて、招魂場なんでしょうか。

山口藩招魂社@霊山墓地2011/09/12

「霊山招魂社」の碑のとなりに、「山口藩招魂社」の碑がありました。
「霊山招魂社」のとなりに、「山口藩招魂社」がありました。二つの碑のそれぞれ後ろにある祠がそうなんでしょうね。私はもっと立派なものだと思っていました。
これは、二つの招魂社の碑の間にある細長い案内碑です。ピントがあっていなくて、読みにくくなっています。

霊山招魂社2011/09/12

霊山招魂社
霊山招魂社とはなにか?
Wikipediaをそのまま引用すれば、つぎのようになります。
 1868年6月29日(慶応4年5月10日)、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持つ。
 「靖国神社よりも古い歴史をもつ」という一文にひかれて、霊山墓地にやってきました。個人墓碑にも関心はありますが、”招魂社とはどういうものか”、見てみたいと思いました。
 それぞれについて詳しく調べることは後にして、現物を見て回りました。
 上の写真の右。階段の手前にあるのが山口藩招魂社の碑です。色は茶色っぽいものです。

「膳所藩 粟屋良之助源達道墓」@霊山墓地2011/09/11

諸藩の志士たちの墓碑が並ぶ
 霊山墓地の個人墓碑を次々と見ていきました。最初は通り過ぎましたが、帰り道で見直し、「膳所藩」という文字に気づきました。私が見た限り、膳所藩と刻まれているのは一つだけでした。
「膳所藩 粟屋良之助源達道墓」
膳所藩 粟屋良之助源達道墓
 帰宅して「新修大津市史」を読み直すと、出てきました。膳所藩を脱藩して、1864年7月のいわゆる「蛤御門の変」で長州側について戦死した若者でした。24歳だったとのことでした。

藩名を見て回る@霊山墓地2011/09/11

徳山藩
 「長州」と刻まれた墓碑が居並ぶ区域を離れると、様々な藩の名前が登場する。上の写真は「徳山藩」、下は「十津川」。
「十津川」が並ぶ
下は、左から、久留米、土佐、土佐、土佐。
久留米、土佐・・・

西南戦争の個人墓碑@霊山墓地2011/09/11

西南戦争の個人墓碑@霊山墓地
 霊山墓地には招魂社があり、招魂碑があり、個人墓碑がある。個人墓碑の多くは、戊辰戦争以前のものである。つまり、明治政府誕生までのもの。案内図に掲載されていない墓碑もある。日中戦争など後世の墓碑など。
 写真の墓碑は、西南戦争の墓碑である。同じ墓碑だが、上の写真ではわかりにくいけれど、下の写真では、独立して置かれているのがわかる。石質も志士の墓碑(花崗岩か)とちがい砂岩っぽい。
 長州出身の木戸孝允がこの墓地をつくったあと、明治10年に病死する。西南戦争の年である。西南戦争は独立王国の様相を強めていた鹿児島県(旧薩摩藩)の士族と明治政府の戦争である。戊辰戦争の主力であり、唯一の陸軍大将である西郷隆盛がいて、最強の士族軍団と明治政府の生き残りをかけた戦争。
この霊山墓地に薩摩の墓碑がないというのは、そういう事情があるのだろう。
 西南戦争をたたかう明治政府軍の中心は大阪にあった。その大阪には、わが国最大の陸軍墓地がある。旧真田山陸軍墓地である。この墓地の西南戦争の墓碑には、「鹿児島賊徒征討」という敵愾心が文字となって刻まれている。高島市でみつけた西南戦争の墓碑には、このような文字はない。
 では霊山墓地ではどうか。
河合萬七正信招魂之碑
明治十年三月十五日戦死 於肥後國山本郡田原阪 行年二十五歳
 あっさりした記述である。
そもそも、この墓碑はいつ建てられたのだろうか(背後の写真を取り忘れているので)。

高杉晋作の墓碑は新しい・・・?2011/09/11

高杉晋作の墓碑@霊山墓地
 司馬遼太郎『世に棲む日日』、池宮彰一郎『高杉晋作』、古川薫『高杉晋作 わが風雲の詩』などで描かれている高杉晋作。「霊山墓地」にある墓碑は、上の写真でわかるように新しいものでした。左側面に「昭和四十九年十月十四日建」。
高杉晋作の墓碑の背面@霊山墓地
 背面には「慶応三年四月十四日下関で病死」と刻まれています。実は、正面を見る前に、この部分が目立ったので撮影しました。高杉晋作の墓碑と気づかずに。なぜなら、他の墓碑は空白でしたから。
 今見る高杉晋作の墓碑は建て替えたのでしょう。しかし、それはまたなぜ?こういう歴史的な墓地に、戦後に新しく墓碑を入れ込むとは考えられません。よほど痛んでいたのでしょうか。

高杉晋作、来島又兵衛、久坂玄瑞らも無名の志士も全く同じ形の墓碑2011/09/11

高杉晋作、来島又兵衛、久坂玄瑞らの個人墓碑@霊山墓地
 京都の「霊山墓地」に並ぶ維新の志士たちの墓碑の話。
 木戸孝允をのぞけば、どれも画一的な個人墓碑が並んでいる。書物や大河ドラマなどに登場するビッグネームも、そうではない無名の志士も区別がない。たとえば、この一角。右から高杉晋作、来島又兵衛、久坂玄瑞と続いている。
 不思議な気がしたが、次第に、好ましく思えるようになった。

「土藩」2011/09/09

「土藩」
 霊山墓地の個人墓碑。
「長州」と刻まれている墓碑が多数である。
そのほかに、「土藩」。
土佐藩のことだろうと思った。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)