お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
サイパン三日目(3月29日):戦没将兵の銘碑 ― 2005/04/15
遺族や関係者が建立した碑がこれです。
ガイドさんは、二つの驚くような話をされました。
たまたまであった若い人のグループをここに案内したとき、
碑に刻まれた人名を見て、そのうちの一人の女性が
悲鳴のような声をあげたというのです。
Nという方の名前が刻まれていましたが、それは、
その女性の祖父の名前。
中国で死んだとされていたのです。
もともとここに連れてこられた兵隊は、関東軍に所属していた人たち。
そこから引き抜かれてこの地へ。しかも、軍事秘密に属することでしたから、
ここで死んだことは遺族に知らされなかったのです。
もうひとつはほとんど動けない体でこの地へやってきた老紳士。
その方は、Yという名前の前で号泣されたというのです。
関東軍から引き抜いてこの地へ派遣するときに、
選抜する役目を果たしていた人でした。
それは、死地へ追いやる選択を下したことになるわけで、
そのことを深く悔いて、不自由な体をおして、慰問にこられたのです。
ガイドさんは、二つの驚くような話をされました。
たまたまであった若い人のグループをここに案内したとき、
碑に刻まれた人名を見て、そのうちの一人の女性が
悲鳴のような声をあげたというのです。
Nという方の名前が刻まれていましたが、それは、
その女性の祖父の名前。
中国で死んだとされていたのです。
もともとここに連れてこられた兵隊は、関東軍に所属していた人たち。
そこから引き抜かれてこの地へ。しかも、軍事秘密に属することでしたから、
ここで死んだことは遺族に知らされなかったのです。
もうひとつはほとんど動けない体でこの地へやってきた老紳士。
その方は、Yという名前の前で号泣されたというのです。
関東軍から引き抜いてこの地へ派遣するときに、
選抜する役目を果たしていた人でした。
それは、死地へ追いやる選択を下したことになるわけで、
そのことを深く悔いて、不自由な体をおして、慰問にこられたのです。
サイパン三日目(3月29日) : 黒木部隊の終焉の地 ― 2005/04/14
サイパンでのヒストリカル・ツァー、そのクライマックスはこの地でした。
この地は、野戦重砲兵第9連隊(黒木中隊)が玉砕をとげた地でした。
部隊はここで手榴弾をみずから爆発させて、
玉砕を遂げましたが、それを見ていた人がいたのです。
当時14才だった少年です。
その証言で、最後の様子が遺族に伝わることとなったのです。
そして、野戦重砲の残骸とともに、ここに記念碑が建てられました。
兵士たちは最後に歌を歌ったそうです。
それは、「ふるさと」
うさぎ追いしあの山、小フナ釣りしあの川・・・。
冥福を祈りながら、私たちも歌うことにしましたが、
その歌詞の一つ一つが胸をさます。
はるか遠い異国で命を落とす彼らの無念が
乗り移ってくる気がしました。
この地は、野戦重砲兵第9連隊(黒木中隊)が玉砕をとげた地でした。
部隊はここで手榴弾をみずから爆発させて、
玉砕を遂げましたが、それを見ていた人がいたのです。
当時14才だった少年です。
その証言で、最後の様子が遺族に伝わることとなったのです。
そして、野戦重砲の残骸とともに、ここに記念碑が建てられました。
兵士たちは最後に歌を歌ったそうです。
それは、「ふるさと」
うさぎ追いしあの山、小フナ釣りしあの川・・・。
冥福を祈りながら、私たちも歌うことにしましたが、
その歌詞の一つ一つが胸をさます。
はるか遠い異国で命を落とす彼らの無念が
乗り移ってくる気がしました。
サイパン三日目(3月29日):ヒストリカル・ツアーの参加者 ― 2005/04/13
サイパンの日本人統治と戦跡をたどるヒストリカル・ツアー。
家族連れが多いと感じました。
子どもたちにこの歴史をナマで感じてほしいと願う両親が
参加している様子です。もちろん、私も含めてです。
高齢者の方もいましたが、自分史とも重ねて
深い思いがあるのかも知れません。
「砂糖王」や「彩帆神社」のときとはちがう厳粛さが
参加者の間に生まれていました。
上の写真は、ガイドさんのあとを歩く参加者を映しています。
わが子のK君、H君はどう受け止めたのでしょうか?
家族連れが多いと感じました。
子どもたちにこの歴史をナマで感じてほしいと願う両親が
参加している様子です。もちろん、私も含めてです。
高齢者の方もいましたが、自分史とも重ねて
深い思いがあるのかも知れません。
「砂糖王」や「彩帆神社」のときとはちがう厳粛さが
参加者の間に生まれていました。
上の写真は、ガイドさんのあとを歩く参加者を映しています。
わが子のK君、H君はどう受け止めたのでしょうか?
サイパン三日目(3月29日):開放の日を刻む ― 2005/04/12
サイパンでのヒストリカル・ツァーは貴重な体験でした。
日本刑務所跡地を散策すると、壁に刻まれた文字があります。
それは、日本の統治の終了。
捕虜の方にとっては開放の日付でした。
日本刑務所跡地を散策すると、壁に刻まれた文字があります。
それは、日本の統治の終了。
捕虜の方にとっては開放の日付でした。
サイパン三日目(3月29日):日本刑務所跡地 ― 2005/04/11
日本の占領統治をナマで伝えるのが、
日本刑務所跡地です。
どのようなものであれ、刑務所は陰湿な感じがします。
ましてや、異国でそれを統治する外国人がつくるものとなったら、
よけいです。
刑務所にむかう道すがら、サイパンでは水が貴重であることを
詳しく説明されましたが、そのことが強い印象を持ちました。
日本刑務所跡地です。
どのようなものであれ、刑務所は陰湿な感じがします。
ましてや、異国でそれを統治する外国人がつくるものとなったら、
よけいです。
刑務所にむかう道すがら、サイパンでは水が貴重であることを
詳しく説明されましたが、そのことが強い印象を持ちました。
サイパン三日目(3月29日):彩帆香取神社 ― 2005/04/10
ガイドさんの話し振りは、まちがいなく日本語ではありましたが
聞き取りやすいものではありませんでした。
それに、その話のスタンスがなかなか私にはつかめませんでした。
日本の統治を肯定的に語ることに違和感があったからです。
「彩帆」というのは、サイパンのこと。
神社ではあっても、日本と同じ素材がサイパンにあるわけではありません。
シメ縄などは別の素材となっています。
それでも、こういうものをつくり、故国をしのんだと思われます。
それをサイパンの人たちに強制しなければ問題はないのです。
日本からも当時の人たちやその関係者が参拝にこられるといいます。
ガイドさんの話し振りから、日本政府の人情に乏しい取り組みに非難がこめらえているのを感じました。
聞き取りやすいものではありませんでした。
それに、その話のスタンスがなかなか私にはつかめませんでした。
日本の統治を肯定的に語ることに違和感があったからです。
「彩帆」というのは、サイパンのこと。
神社ではあっても、日本と同じ素材がサイパンにあるわけではありません。
シメ縄などは別の素材となっています。
それでも、こういうものをつくり、故国をしのんだと思われます。
それをサイパンの人たちに強制しなければ問題はないのです。
日本からも当時の人たちやその関係者が参拝にこられるといいます。
ガイドさんの話し振りから、日本政府の人情に乏しい取り組みに非難がこめらえているのを感じました。
サイパン三日目(3月29日):砂糖王の銅像 ― 2005/04/09
サイパンにある日本人の銅像。
それは、サイパンにとって日本が抑圧するだけではなかった証と
いえるのでしょうか?
日系人(?)ガイドさんは
「サイパン人は、日本人に共感をいだいているので、
グァムほど(日本人にとって)危険ではない。
サイパンでは、民間人も(日本)軍も一緒になって戦った」と。
それは、サイパンにとって日本が抑圧するだけではなかった証と
いえるのでしょうか?
日系人(?)ガイドさんは
「サイパン人は、日本人に共感をいだいているので、
グァムほど(日本人にとって)危険ではない。
サイパンでは、民間人も(日本)軍も一緒になって戦った」と。
サイパン三日目(3月29日):ヒストリカル・ツアー ― 2005/04/08
サイパンで三日目。最後の日です。
私が一番楽しみにしていたイベントである「ヒストリカル・ツアー」。
サイパンの戦跡と歴史をたずねるツアーです。
これは、小型のバスで回るので、予約は10名以内。
なぜ小型のバスなのか?
参加人数もあるでしょうし、通過する道の問題もあるのです。
「砂糖王」⇒「神社」⇒「刑務所」⇒「黒木隊」⇒「弾薬庫」
おおよそこのような流れになります。
バスの助手席にガイドさんが乗り込み、案内と解説をしてくれます。
写真は車でのガイドさんの様子です。
私が一番楽しみにしていたイベントである「ヒストリカル・ツアー」。
サイパンの戦跡と歴史をたずねるツアーです。
これは、小型のバスで回るので、予約は10名以内。
なぜ小型のバスなのか?
参加人数もあるでしょうし、通過する道の問題もあるのです。
「砂糖王」⇒「神社」⇒「刑務所」⇒「黒木隊」⇒「弾薬庫」
おおよそこのような流れになります。
バスの助手席にガイドさんが乗り込み、案内と解説をしてくれます。
写真は車でのガイドさんの様子です。
サイパン二日目(3月28日):マニャガハ島に高射砲 ― 2005/04/07
サイパンにあるマニャガハ島は天国のような楽園の地。
しかし、桟橋の正面に大砲が据付されていました。
もちろん、現役の砲ではなく、日本軍の残骸です。
残骸には、説明文がついていました。
他にもないのか気になって、島を一周してみました。
上の写真は、説明はありませんでしたが、
高射砲のように見えます。
しかし、桟橋の正面に大砲が据付されていました。
もちろん、現役の砲ではなく、日本軍の残骸です。
残骸には、説明文がついていました。
他にもないのか気になって、島を一周してみました。
上の写真は、説明はありませんでしたが、
高射砲のように見えます。
サイパン二日目(3月28日):マニャガハ島に大砲 ― 2005/04/06
サイパン旅行の二日目は、子どもたちにとって一番の楽しみのはずでした。
マニャガハ島でのダイビング体験です。
美しい海に浮かぶ美しい小島・・・天国のような島にも
戦争の傷跡が残っています。
どうしてこんな小さなところに大砲があるのかと思いました。
マニャガハ島でのダイビング体験です。
美しい海に浮かぶ美しい小島・・・天国のような島にも
戦争の傷跡が残っています。
どうしてこんな小さなところに大砲があるのかと思いました。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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