お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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サイパン二日目(3月28日):マニャガハ島2005/04/05

サイパンの観光スポットのひとつ、マニャガハ島に向かいました。
周囲は2~3キロの小さな島です。

ここでも、従業員はサイパンの人でしたが(船はちがいました)
あとは日本人、中国人、韓国人でした。
ここは、子どもたちに美しい海でダイビングをさせたいと思って
カミさんが選んだところでした。
子どもたちはすぐにシュノーケルの使い方を覚え、
美しい海の中を泳ぐ熱帯魚を見つけて、満足した様子でした。

サイパン一日目(3月27日):美しい海2005/04/04

サイパンの一日目。サイパンダ号に乗り込んで、ホテルから観光旅行へ。
他のバスもいっしょになる観光スポットがあります。
ほんとうに美しい海と島。
中国人や韓国人の観光客に出会いました。
最近は、日本人より韓国人の方のほうがサイパンには多いかも知れません。
名鉄はすでにサイパンから撤退。
そのあと進出している企業のほとんどは、韓国だそうです。
バブルが崩壊したあと、サイパン行きの航空便も縮小されています。
私たちが旅行したあと、さらに縮小される予定です。
複雑な気持ちでこの話をききました。

サイパン一日目(3月27日):司令部跡2005/04/03

サイパンに到着したのは深夜。朝目覚めて、すぐにバスで観光に出かけました。バンザイクリフ、そして日本軍の司令部の跡地を回りました。
今年は、終戦60周年の年です。
それだけの年月が経っていますが、艦砲射撃でえぐられた崖や
破壊された砲などは、その時間の長さを忘れさせるリアルさがありました。
バスの乗客はほとんどが日本人。

サイパン一日目: 「中部太平洋戦没者の碑」2005/04/02

サイパンで宿泊したのは、ホテルニッコー。
日本のホテルであり、日本人ばかりが目立ちました。
「サイパンダ」号に乗って、サイパンの観光に出発しました。
バンザイクリフに向かいました。
そこに、「中部太平洋戦没者の碑」がありました。

《さきの大戦において、中部太平洋の
 諸島および海域で戦没さえた人々をしのび
 平和への思いをこめてこの碑を建立する
 竣工 昭和49年3月25日
 日本国政府》

このように書かれていました。

サイパン一日目(3月27日) :目覚めて2005/04/01

26日の深夜に大阪国際空港を出発。
27日の午前2時にサイパンに到着。
いきなりの暑さでした。
バスでホテルに向かいましたが、
周りは真っ暗で、外国に来たという実感はわきませんでした。
家族は二室に分かれてしばらく仮眠を取りました。

歓声によって目を覚ましました。
海に面したホテルの11階から外を見ると、
一面に真っ青な海が広がっていました。
これから3日間、私たちの目を楽しませてくれた景色が
広がっていました。

K君の卒業旅行はサイパンに決定2005/03/31

K君の中学校卒業旅行として、サイパンに行くことにしました。
初めての海外旅行です。
忙しくて行き先を検討する余裕はありませんでした。
すべてカミさんまかせでした。
カミさんのHPを読むと、キャンセル待ちとかで
苦労した様子がわかりますが、私は仕事ばかりしていました。

K君の卒業旅行でしたが、私の第一希望は、中国。
万里の長城が見たいと思いました。
黄砂がひどく、家族の賛同がなかったので、
グァムかサイパンにすることになりました。
結局は、予約の関係で、サイパンに。
サイパンなら、ぜひ戦跡を見たいと思いました。

出発は、3月26日。夜の航空便でした。
帰りは、3月30日。現地を午前3時に出発して帰路に。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)