お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「黄金柱」@秋芳洞2008/08/23

「黄金柱」@秋芳洞
マハさんのコメントに出てきた「黄金柱」
確かに秋芳洞にありました。
その威容は最初見たときと変わりません。

どす黒く汚れた色が鍾乳石の元の色なのか!?2008/08/23

表面が黒く汚れているように見える鍾乳石
巨大な空間に次々現れる美しい鍾乳石
・・・それが、秋芳洞の印象でした。
2007年3月に訪問したときには、
それが悲しいまでに崩れていきました。

記憶による美化かもしれません。
しかし、確実に元の形を失っているように思えます。

それは色も同様です。

鍾乳石は名前のとおり、白いもののはず。
しかし、もはや、灰色でさえありませんでした。

「大松茸」の隣にある鍾乳石。
その色は、どす黒く醜悪でさえありました。

・・・それがここを楽しむ人間の仕業とすれば、
(それしか考えられませんが)、
元に戻す責任を果たさなければならないと思いました。

溶け出す鍾乳石?@秋芳洞2008/08/23

溶け出す鍾乳石?@秋芳洞
「大松茸」と名づけられている鍾乳石は、
最初に出かけたときから覚えています。
写真も撮ったからです。
いまその写真はどこへ行ったのでしょうか。
探して見てみたいと思います。

現在の大松茸(上の写真)は、どう見ても、
表面が溶けているように見えます。

石灰岩の彫刻が酸性雨で溶けていくように。


なお、上の写真は以前にもアップしたものです。

鍾乳石@秋芳洞2008/08/23

鍾乳石@秋芳洞
秋芳洞に入るとすぐに、
その巨大な内部空間に圧倒されます。
それは、小中学校の時代に初めて
ここを訪れたときと印象はかわりません。

しかし、鍾乳石の色に衝撃を受けました。

地域の観光事業を支えている
天然記念物なので、失礼な
表現は避けたいのですが、
最初みたときとは印象がちがうのです。
「こんな汚れた色だったのか!」という悲しさが
胸をよぎりました。

上の写真は、フラッシュを使って、
天井からたれている鍾乳石を写したものです。
下の写真は、フラッシュなしで、
望遠レンズで撮影しました。

リムストーンプール@秋芳洞2008/08/23

百枚皿@秋芳洞
秋芳洞では、「百枚皿」と名づけられいますが、
リムストーンプールというものではないでしょうか。

棚田を思わせる不思議な光景です。

石柱(競秀峰)@風連鍾乳洞2008/08/21

競秀峰(石柱)@風連鍾乳洞
上から垂れ下がる鍾乳石と
下からつみ上がる石筍が
めでたくひとつになると
石柱と呼ばれるものになる。

どの鍾乳洞でも、巨大な石柱が
その洞のハイライトとなる。
上の写真が風連鍾乳洞のそれ。
名前がつけてあり、「競秀峰」
高さ10メートル、周囲16メートル。
写真をクリックすると、
人の姿が映っているので、
大きさが実感できる。

鍾乳石と石筍がつくる景観@風連鍾乳洞2008/08/21

鍾乳石と石筍がつくる景観@風連鍾乳洞
鍾乳石と石筍は、
同じ水滴の流れをもとにしているので、
天井と床に呼応するようにできている。

鍾乳石は鋭角にたれさがり、石筍は丸くつみあがる。
その対比が意外な景観を創りだしている。

まるで二種類の生き物がお互いを求めて、
うごめきあう姿のようだ。

石筍@風連鍾乳洞2008/08/21

石筍@風連鍾乳洞
鍾乳石は、上から下へ垂れ下がる。
石筍=石のたけのこは、下から上へ形成される。
おなじ滴でできていると思われるけれど、
できる場所の違いで名前が違う。

奇岩として目を楽しませる鍾乳石@風連鍾乳洞2008/08/21

奇岩として目を楽しませる鍾乳石@風連鍾乳洞
天井から垂れ下がる鍾乳石は、
成長し、重なり合い、複雑で
奇妙な形態を造り出す。
それを見て人間が感じる驚きが、
観光資源となるのだ。
形の違いがどれだけ科学的な
価値があるのか、私にはわからない。

どこの鍾乳洞でも、人間の目から見て、
奇抜と思われるものに、名前がついている。
私にはそれが俗っぽくって、名札を見たり、
覚える気がしないのだ。



ところで、風連鍾乳洞は「日本一うつくしい」
と自称している。
すべての鍾乳洞を見たわけではないので、
私には、判断する資格はないのだけれど、
確かに美しいと感じる。
フラッシュをたかずに、洞内の照明だけで
撮影するとよくわかる。

<><

鍾乳石@風連鍾乳洞2008/08/21

鍾乳石@風連鍾乳洞
鍾乳石は、つららのように
天井から垂れ下がる炭酸カルシウムの塊。

風連鍾乳洞に入ってすぐの部分にある
この鍾乳石は、まだ色が薄い。
本来の色は、白なのだろうか?

薄暗いなかでは、肉眼では色がよくわからない。
フラッシュをたいて撮影すると、
濃い茶色だったり、どす黒かったりして、
カメラのディスプレイを見て、
ぎょっとする場合がある。



洞内の照明だけで撮影すると上のようになり、
フラッシュをたくと、下のようになる。
同じ鍾乳石なのに、印象が変わってくる。


                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)