お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
朽木雄六少尉の遺影は興聖寺本堂に、墓碑は同寺の廃寺跡に ― 2013/09/06
「陸軍少尉・朽木雄六温嘉墓」の印象と碑文 ― 2013/09/03
私がYさんの案内で、この墓碑を見たのは、2012年6月のことです。廃寺跡は林の中。それでも、遺跡保存のための努力が払われているそうです。木立のなかに、石垣に囲まれた空き地が続いています。
朽木雄六の墓碑は、入口にあたる場所に、置かれていました。
それは、これ見よがしに巨大につくられたものではなく、むしろ小ぶりの墓碑でした。
これまで高島市で見た西南戦争の墓碑はどれも似た形をしていました。京都の霊山護国神社にならぶ幕末の志士の墓碑とよく似ています。それは、兵卒の墓碑だったからかも知れません。
朽木雄六は階級では「陸軍少尉」。将校です。兵卒の墓碑と将校の墓碑の違いは、どこにあるのかが気になります。
大きさではなく、石材が高価なものであること、そして兵卒の墓碑にはない、碑文が刻まれていました。
碑文は写真にあるとおりです。
「鹿児島賊徒」という表現は、旧真田山陸軍墓地などの墓碑では見ましたが、「西郷隆盛」という名前を見たのは、はじめてでした。あと、戦死の記述。二十四歳という若さでの死。
朽木雄六の墓碑は、入口にあたる場所に、置かれていました。
それは、これ見よがしに巨大につくられたものではなく、むしろ小ぶりの墓碑でした。
これまで高島市で見た西南戦争の墓碑はどれも似た形をしていました。京都の霊山護国神社にならぶ幕末の志士の墓碑とよく似ています。それは、兵卒の墓碑だったからかも知れません。
朽木雄六は階級では「陸軍少尉」。将校です。兵卒の墓碑と将校の墓碑の違いは、どこにあるのかが気になります。
大きさではなく、石材が高価なものであること、そして兵卒の墓碑にはない、碑文が刻まれていました。
碑文は写真にあるとおりです。
「鹿児島賊徒」という表現は、旧真田山陸軍墓地などの墓碑では見ましたが、「西郷隆盛」という名前を見たのは、はじめてでした。あと、戦死の記述。二十四歳という若さでの死。
日露戦争の墓碑 ~洲崎善吉之墓~ ― 2013/01/25
高島市で一ヶ月以上、ほとんど泊まり込みで仕事をしている。
考え事をしていて、曲がるべき交差点を通り過ぎてしまった。
引き返すのも面倒だからと大回りをすることにした。
進んだ先の田んぼの間の農道に入り込んだとき、
集落の墓地があることに気づいた。
見ればその入口に「砲弾型」墓碑。
車一台分の駐車スペースがあり、棺をおく石台がある。
夕闇は迫り、カメラを持ち歩いていない。
手元のiphoneで撮影。
自分のブログで名簿を探すと、
川上村大字濱分
洲崎善吉
明治37年7月23日戦死
大石橋
という若者の墓碑だとわかる。
考え事をしていて、曲がるべき交差点を通り過ぎてしまった。
引き返すのも面倒だからと大回りをすることにした。
進んだ先の田んぼの間の農道に入り込んだとき、
集落の墓地があることに気づいた。
見ればその入口に「砲弾型」墓碑。
車一台分の駐車スペースがあり、棺をおく石台がある。
夕闇は迫り、カメラを持ち歩いていない。
手元のiphoneで撮影。
自分のブログで名簿を探すと、
川上村大字濱分
洲崎善吉
明治37年7月23日戦死
大石橋
という若者の墓碑だとわかる。
「忠魂之碑」@旧朽木村 ― 2011/10/12
仕事に熱中しているときは、ブログの更新がつらくなります。カメラを積んでいても、取り出す意欲がなえているのです。・・・ですが、突然、目覚めるときがあります。今津で会議をし、安曇川経由で朽木のMさんを訪問する日。途中で、墓地を見た瞬間に、スイッチが入りました。そして、なんとなく勘が働いてきて、神社の境内を通過するときに、急ブレーキ。
通過する短い時間でよく見つけたものだと自分でも感心しましたけれど、「英霊芳名誌」と「忠魂之碑」でした。
形は、剣熊村や葛川村に似ていますが、建立は昭和29年でした。1954年・・・米軍が進駐した時期には隠されたり、壊されたりした忠魂碑が再建される時期にあたっています。
通過する短い時間でよく見つけたものだと自分でも感心しましたけれど、「英霊芳名誌」と「忠魂之碑」でした。
形は、剣熊村や葛川村に似ていますが、建立は昭和29年でした。1954年・・・米軍が進駐した時期には隠されたり、壊されたりした忠魂碑が再建される時期にあたっています。
出身地・高島市安曇川町三尾里にある日置住吉の墓碑 ― 2011/09/16
西南戦争の戦病死者の日置住吉の話の続きです。
旧真田山陸軍墓地にある墓碑に再会し、左右の側面もきっちり撮影することができました。上の写真は、住吉の出身地・高島市安曇川町三尾里の共同墓地に置かれている墓碑です。これは、すでに紹介ずみの墓碑です。あらためて見てみると、旧真田山陸軍墓地の墓碑(砂岩)より、はるかにりっぱな墓碑(花崗岩だと思います)です。石造の墓碑がなかった当時では、目立つ墓碑だったことでしょう。 上の写真が現在の三尾里墓地の全体。「現在」というのは、移設されたと聞いているからです。
写っている墓碑はどれも戦没者の墓碑です。手前の最も大きく、また尖った墓碑が日清戦争戦病死者の日置卯市の墓碑です。砲弾のような形の墓碑の一つは、日露戦争の墓碑。西南戦争で亡くなった日置住吉の墓碑は、二つある砲弾型墓碑から2つ右にあります。
私の推測ですが、西南戦争戦病死者・日置住吉の墓碑は、当初は目立つ位置におかれていたのではないでしょうか。年月が経ち、碑文が摩滅するとともに西南戦争が忘れられていき、日本が対外戦争を行う時代には、内戦の犠牲者は顧みられることが少なくなっていったのでしょう。 最後に、もう一度、旧真田山陸軍墓地にある日置住吉之墓碑です。
旧真田山陸軍墓地にある墓碑に再会し、左右の側面もきっちり撮影することができました。上の写真は、住吉の出身地・高島市安曇川町三尾里の共同墓地に置かれている墓碑です。これは、すでに紹介ずみの墓碑です。あらためて見てみると、旧真田山陸軍墓地の墓碑(砂岩)より、はるかにりっぱな墓碑(花崗岩だと思います)です。石造の墓碑がなかった当時では、目立つ墓碑だったことでしょう。 上の写真が現在の三尾里墓地の全体。「現在」というのは、移設されたと聞いているからです。
写っている墓碑はどれも戦没者の墓碑です。手前の最も大きく、また尖った墓碑が日清戦争戦病死者の日置卯市の墓碑です。砲弾のような形の墓碑の一つは、日露戦争の墓碑。西南戦争で亡くなった日置住吉の墓碑は、二つある砲弾型墓碑から2つ右にあります。
私の推測ですが、西南戦争戦病死者・日置住吉の墓碑は、当初は目立つ位置におかれていたのではないでしょうか。年月が経ち、碑文が摩滅するとともに西南戦争が忘れられていき、日本が対外戦争を行う時代には、内戦の犠牲者は顧みられることが少なくなっていったのでしょう。 最後に、もう一度、旧真田山陸軍墓地にある日置住吉之墓碑です。
A-9-12 「軍役夫 中江小四郎墓」を見つけました ― 2011/09/15
日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)2011.9.10更新 ― 2011/09/10
旧高島郡の日露戦争戦没者名簿
『高島郡誌』によれば、日露戦争の戦病死者は、ちょうど100名です。その名簿を、日露戦争直後の2町15村の区分で分けて、掲載します。
『高島郡誌』によれば、日露戦争の戦病死者は、ちょうど100名です。その名簿を、日露戦争直後の2町15村の区分で分けて、掲載します。
海津村 3名
○中村 治平 海津村大字海津
歩兵上等兵
明治38年3月1日 奉天附近
●小谷 彌吉 海津村大字西濱
歩兵上等兵
明治38年3月1日 北臺子
*西浜共同墓地に砲弾型墓碑
●土肥 定吉 海津村大字西濱
歩兵一等卒
明治37年9月3日 遙陽附近
*西浜共同墓地に砲弾型墓碑
剣熊村 3名
○岩本 岩三郎 剣熊村大字小荒路
歩兵上等兵
明治38年3月4日 来神堡
○上田 興市 剣熊村大字浦
歩兵一等卒
明治37年12月22日 旅順
○安本 孫吉 剣熊村大字野口
歩兵一等卒
明治37年8月23日 盤龍山
西庄村 8名
○久保井 友吉 西庄村大字寺久保
歩兵曹長
明治37年8月24日 盤龍山
○田中 仙吉 西庄村大字開田
歩兵伍長
明治37年9月3日 シュアンシュダイ
○青谷 富蔵 西庄村大字牧野
歩兵上等兵
明治38年3月2日 角面堡
○青谷 重太郎 西庄村大字牧野
明治37年8月21日 旅順
○木下 龍之介 西庄村大字下開田
明治37年8月24日 盤龍山
○橋本 甚右衛門 西庄村大字下開田
明治38年9月1日 大房身(病死)
○黒川 幸次郎 西庄村大字寺久保
明治37年8月1日 滾子泡
○藤田 吉之助 西庄村大字蛭口
明治37年7月23日 五臺山(病死)
百瀬村
○伊吹 米蔵 百瀬村大字中庄
明治38年3月7日 小貴興堡
○鳥居 宗七 百瀬村大字知内
明治37年8月22日 旅順要塞
○黒川 辰三郎 百瀬村大字新保
明治37年10月8日 長嶺子(病死)
川上村
○新井 勝吉 川上村大字深清水
明治37年8月22日 旅順
○木下 石松 川上村大字酒波
明治38年11月6日 大坂予備病院(病死)
○山室 源治郎 川上村大字日置前
明治37年8月20日 旅順要塞
○松本 由太郎 川上村大字福岡
明治37年7月24日 金州(病死)
○古谷 徳次郎 川上村大字日置前
明治37年8月22日 東鶏冠山
●原田 徳松 川上村大字深清水
明治38年3月8日 小貴興堡
*深清水の墓地に砲弾型墓碑
○州崎 善吉 川上村大字濱分
明治37年7月23日 大石橋
●雲野 辰之助 川上村大字深清水
明治38年1月27日 沙河(病死)
*深清水の墓地に砲弾型の墓碑
今津町
○古我 彦四郎 今津町大供
明治38年3月2日 北臺子
○山田 長蔵 今津町大字藺生
明治37年8月24日 盤龍山
●小川 友吉 今津町大字弘川
明治37年8月22日 旅順
*弘川霊苑に砲弾型墓碑
○圓山 禅学 今津町大字今津
明治38年3月7日 小貴興堡
●柴田 権次郎 今津町大字今津
明治38年3月1日 北臺子
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑
○桂田 久蔵 今津町大字梅原
明治37年3月26日 金州南山
●中村 十治郎 今津町大字今津
明治37年5月26日 金州南山
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑
●中川 萬助 今津町大字今津
明治37年8月21日 旅順
*大字今津共同墓地に砲弾型墓碑
●前川 重五郎 今津町大字弘川
明治37年11月14日 廣島予備病院(病死)
*弘川霊苑に砲弾型墓碑
三谷村
○浅井 順誠 三谷村大字追分
明治38年3月7日 小貴興堡
○中山 四良平 三谷村大字椋川
明治37年11月5日 遼陽病院(病死)
○松田 豊治 三谷村椋川
明治37年8月23日 青泥窪病院(病死)
新儀村
●小林 鹿治郎 新儀村大字新庄
明治38年3月7日 清国小貴堡 (21歳)
*砲弾型墓碑
○多胡 源蔵 新儀村大字新庄
明治39年2月23日 大津衛戍病院 (23歳)
○三重生 辰蔵 北畑
明治37年8月5日 清国大平庄兵站病院 (24歳)
○兼子 捨松 新儀村大字藁園
明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (27歳)
○桂田 才治郎 新儀村大字藁園
明治38年3月1日 清国盛京有腰屯陣地 (25歳)
○清水 末吉 新儀村大字太田
明治38年3月23日 対馬西ノ水道付近 (20歳)
○清水 音治郎 新儀村大字太田
明治37年8月22日 清国東鶏冠山付近 (31歳)
○森 安三郎 新儀村大字太田
明治38年3月5日 清国盛京省唐家屯北方高地 (21歳)
饗庭村
○内藤 秀吉 木津
明治38年3月14日 清国盛京省樹林子 戦地病院 (25歳)
*『高島郡誌』では、饗庭村大字饗庭
○桒原 元次郎 今市
明治37年8月21日 清国旅順鶏冠山北砲台 (22歳)
*『高島郡誌』では、饗庭村大字熊ノ本
○遠藤 辰次郎 堀川
明治37年10月12日 清国老峮峪北高地 (24歳)
*『高島郡誌』では饗庭村大字旭。
○川島 乕太郎 霜降
明治38年3月7日 清国盛京省小貴堡 (22歳)
*『高島郡誌』では”虎太郎”。饗庭村大字旭
●中村 新九郎 饗庭村大字深溝
明治38年2月15日 清国遼陽兵站病院 (31歳)
*砲弾型墓碑がある
廣瀬村
○入江 初次郎 廣瀬村大字上古賀
明治37年8月24日 旅順
○横井 喜久太郎 廣瀬村大字中野
明治37年8月29日 大坂予備病院(病死)
●黒丸 藤吉 廣瀬村大字南古賀
明治37年7月31日 野戦病院(病死)
*南古賀墓地に角錐型墓碑
○北村 勘七 廣瀬村大字下古賀
明治38年3月2日 北臺子
○西澤 石松 廣瀬村大字南古賀
明治39年 関東陸軍病院(病死)
○北村 梅吉 廣瀬村大字長尾
明治37年8月21日 旅順
○平井 嘉十郎 廣瀬村大字上古賀
明治38年8月20日 茨林子療養院(病死)
安曇村
●横江 菊次郎 安曇村大字西萬木
明治37年8月21日 東鶏冠山
*西万木墓地。砲弾型
●薬師川 彌市 安曇村大字田中
明治37年8月24日 旅順
*田中墓地。砲弾型墓碑
●藤澤 傳治郎 安曇村大字田中
明治37年8月21日 旅順要塞
*田中墓地。砲弾型墓碑
○日置 鹿蔵 安曇村大字西萬木
明治37年8月21日 旅順要塞
●前川 幸太郎 安曇村大字田中
明治37年10月6日 東干家野戦病院(病死)
*田中墓地。砲弾型墓碑
●福井 彌七 安曇村大字三尾里
明治38年4月1日 廣島予備病院(病死)
*常盤木・十八川墓地
●河井 角右衛門 安曇村大字常盤木
明治38年3月12日 大坂予備病院(病死)
*常盤木・十八川墓地
○多胡 徳治郎 安曇村大字常盤木
明治37年10月3日 遼陽兵站病院(病死)
●熊谷 新次郎 安曇村大字田中
明治37年9月3日 ドウズアシュアンシウズイ
*田中墓地。砲弾型墓碑
●中西 傳次郎 安曇村大字西萬木
明治38年3月23日 対馬付近船内
*西万木墓地。砲弾型。「傳」でなく「鍵」
青柳村
○吹畑 鐵蔵 青柳村大字小川
明治38年9月21日 戦地舎営病院(病死)
○木原 幾太郎 青柳村大字青柳
明治38年3月7日 小貴興堡
○岡田 亀吉 青柳村大字青柳
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
○小島 松之助 青柳村大字下小川
明治37年8月24日 盤龍山西砲台
本庄村
●梅村 七松 本庄村大字四津川
明治37年10月31日 青泥窪兵站病院(病死)
*砲弾型墓碑
●山本 鶴吉 本庄村大字四津川
明治37年8月21日 旅順
*砲弾型墓碑
●拝藤 勇蔵 本庄村大字四津川
明治38年3月7日 小貴興堡
*砲弾型墓碑
●梅村 伊三郎 本庄村大字四津川
明治37年6月15日 得利寺
*砲弾型墓碑
●澤井 六之丞 本庄村大字横江濱
明治38年10月7日 古城堡(病死)
*砲弾型墓碑
●橋本 伊三郎 本庄村大字南船木
明治38年3月7日 小貴興堡
*四角柱の墓碑
●竹原 岩次郎 本庄村大字南船木
明治37年8月21日 旅順
*四角柱の墓碑
●早藤 彌三郎 本庄村大字四津川
明治38年1月24日 遼陽兵站病院(病死)
*砲弾型墓碑
高島村
●大塚 徳松 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年10月15日 大坂予備病院
*黒谷墓地に四角錐の墓碑
●八田 金蔵 高島村大字高島
明治37年8月22日 旅順
*伊黒墓地に四角錐の墓碑
●西川 元治郎 高島村大字高島
明治38年3月7日 小貴興堡
*伊黒墓地に四角錐の墓碑
●西 歳徳 高島村大字鹿ヶ瀬
明治37年8月22日 東鶏冠山北砲台
*鹿ガ瀬に巨大な碑
大溝町
●山田 與三郎 大溝町大字勝野
明治38年3月2日 角面堡
*中野墓地に四角錐の墓碑
●竹下 伊三郎 大溝町大字勝野
明治38年3月4日 来神堡
*中野墓地に四角錐の墓碑
○仁賀 富蔵 大溝町大字勝野
明治38年4月15日 遼陽兵站病院(病死)
●萬木 音吉 大溝町大字勝野
明治38年3月8日 小貴興堡
*中野墓地に四角錐形の墓碑
○和治 庄蔵 大溝町大字勝野
明治37年7月30日 小倉予備病院(病死)
○仁賀 半兵衛 大溝町大字勝野
明治38年9月11日 佐世保港三笠艦遭難
水尾村
●鈴木 勘三郎 水尾村大字宮野
明治37年8月1日 滾子泡
*宮野墓地に四角錐の墓碑
○伊藤 岩吉 水尾村大字武曽横山
明治37年11月8日 廣島予備病院(病死)
○林 善蔵 水尾村大字鴨
明治38年3月31日 遼陽兵站病院(病死)
*鴨の共同墓地に四角錐墓碑
○横田 元蔵 水尾村大字武曽横山
明治37年5月26日 金州南山
○中村 嘉治郎 水尾村大字鴨
明治37年11月21日 青泥窪兵站病院
○横田 寅吉 水尾村大字武曽横山
明治37年10月19日 廣島予備病院(病死)
朽木村
○岡本 常吉 朽木村大字麻生
明治37年8月24日 盤龍山
○三浦 新左衛門 朽木村大字麻生
明治37年5月26日 金州南山
○久保 留吉 朽木村大字平良
明治38年10月1日 南嶺病院(病死)
○中辻 大三郎 朽木村大字小川
明治38年3月2日 北臺子
○久保 吉蔵 朽木村大字大野
明治38年3月2日 北臺子
○松谷 松右衛門 朽木村大字地子原
明治38年8月22日 野戦病院(病死)
○米村 岩吉 朽木村大字雲洞谷
明治38年3月2日 北臺子
『高島郡誌』に記載のない戦没者
百瀬村
●栗本 藤三郎 大沼
*大沼霊園にある
本庄村
●橋本 卯之助 北舟木
*砲弾型墓碑。
安曇町
●福井 捨治
*砲弾型墓碑 常磐木・十八川墓地
●井上 庫吉
*通常型墓碑。西万木墓地
直四角柱の墓碑 ~「陸軍歩兵軍曹石原作之烝墓」 ― 2011/09/01
直四角柱型の戦没者の墓碑~「陸軍歩兵一等卒山田庄吉之墓」~ ― 2011/09/01
墓碑の形のことで思い出しました。
「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」(西野墓地)や「陸軍歩兵軍曹小林廣三郎墓」(河原墓地)と似た直四角柱型の戦没者の墓碑を新旭町で見たことがあります。
それが「陸軍歩兵一等卒山田庄七之墓」です。
養護学校のちかくの墓地・・・新庄墓地なんでしょうか・・・にありました。日露戦争の戦死者で砲弾型墓碑「故陸軍歩兵一等卒小林鹿治郎墓」のある墓地です。
山田庄七は、日清戦争後に日本が清国から「割譲」された台湾の守備中に亡くなったことが墓碑に記されています。
いましげしげと眺めると、石積みのうえに、台座が載っているのは、珍しい気がします。当初からこうなのか、そうではないのか。
そういう扱いや変遷のなかに、戦死者の「死後の物語」があるように思います。
稲田岩太郎や小林廣三郎の墓碑に比べると山田庄吉の墓碑は素朴です。そこに飾りを受けつけない厳しさを感じます。亡くなった当初は、美しい墓碑をつくるという発想は生まれない気がします。となると、岩太郎や廣三郎の墓碑は後の時代のものかも知れません。
「陸軍歩兵一等卒稲田岩太郎墓」(西野墓地)や「陸軍歩兵軍曹小林廣三郎墓」(河原墓地)と似た直四角柱型の戦没者の墓碑を新旭町で見たことがあります。
それが「陸軍歩兵一等卒山田庄七之墓」です。
養護学校のちかくの墓地・・・新庄墓地なんでしょうか・・・にありました。日露戦争の戦死者で砲弾型墓碑「故陸軍歩兵一等卒小林鹿治郎墓」のある墓地です。
山田庄七は、日清戦争後に日本が清国から「割譲」された台湾の守備中に亡くなったことが墓碑に記されています。
いましげしげと眺めると、石積みのうえに、台座が載っているのは、珍しい気がします。当初からこうなのか、そうではないのか。
そういう扱いや変遷のなかに、戦死者の「死後の物語」があるように思います。
稲田岩太郎や小林廣三郎の墓碑に比べると山田庄吉の墓碑は素朴です。そこに飾りを受けつけない厳しさを感じます。亡くなった当初は、美しい墓碑をつくるという発想は生まれない気がします。となると、岩太郎や廣三郎の墓碑は後の時代のものかも知れません。
大荒比古神社の日清戦争「紀念碑」 ― 2011/08/29
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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