お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
前は2本で後ろは1本 ― 2009/10/16
「JRアパート」が消えて ― 2009/06/16
梅雨入りというのに、雨がふらない。
乾燥した空気を通して、工事の音が響く。
「とうとう取り壊すんですね」
ヘルメットをかぶって工事を見守る人に
私は話しかける。
「20年も30年もほっぽりだしやったさかいね」
という返事。
国鉄分割民営化は1987年のこと。
その前後の事情を刻んだアパートが消えようとしている。
私はこのアパートの窓からたくさんの
洗濯物が風に揺れていたことを覚えている。
近くで繰り返し見るようになったのは、2006年。
私の仕事場がこの近くに引っ越してきたためだ。
そのときには、もはや人の姿はなかった。
無関心に通り過ぎる人々。
必ずやってくるこの日。
2007年に数枚の写真を撮った。
二度と撮ることができないことが、
私をセンチメンタルにしている。
この建物は、JRアパート。
しかし、市民の間では、
それ以前の名前で呼ばれていた。
「国鉄アパート」と。
そのエンブレムを見つけたとき、
素直な疑問がわいた。
「なぜ、残しておいたのだろうか?」と。
もっと不思議だったのは、壊れた掲示板。
ここで読むことのできる文章に、
私は、歴史の証人としての値打ちを感じたのだ。
だが、もうそれもない。
監督している人が言ったように、
巨額の負債をかかえているなか、
無駄に遊ばせている建物がようやく、
有用に使われることへの安堵感。
それが、ふつうの反応ということになるのだろう。
乾燥した空気を通して、工事の音が響く。
「とうとう取り壊すんですね」
ヘルメットをかぶって工事を見守る人に
私は話しかける。
「20年も30年もほっぽりだしやったさかいね」
という返事。
国鉄分割民営化は1987年のこと。
その前後の事情を刻んだアパートが消えようとしている。
私はこのアパートの窓からたくさんの
洗濯物が風に揺れていたことを覚えている。
近くで繰り返し見るようになったのは、2006年。
私の仕事場がこの近くに引っ越してきたためだ。
そのときには、もはや人の姿はなかった。
無関心に通り過ぎる人々。
必ずやってくるこの日。
2007年に数枚の写真を撮った。
二度と撮ることができないことが、
私をセンチメンタルにしている。
この建物は、JRアパート。
しかし、市民の間では、
それ以前の名前で呼ばれていた。
「国鉄アパート」と。
そのエンブレムを見つけたとき、
素直な疑問がわいた。
「なぜ、残しておいたのだろうか?」と。
もっと不思議だったのは、壊れた掲示板。
ここで読むことのできる文章に、
私は、歴史の証人としての値打ちを感じたのだ。
だが、もうそれもない。
監督している人が言ったように、
巨額の負債をかかえているなか、
無駄に遊ばせている建物がようやく、
有用に使われることへの安堵感。
それが、ふつうの反応ということになるのだろう。
融雪施設は私には新鮮です ― 2008/12/03
風が吹けばJRが止まる@湖西線 ― 2008/04/24
24日は夜に高島市で会議。夕方から車で向かいましたが、足元が不安定です。ふらつく・・・人間ではなく、車がです。
しばらくして風が吹いているんだと気がつきました。あまり周囲をみずに、大きな音でCDを聞いていたせいで、木の動きなどに目が向かなかったのです。
窓をあけるとすごい風!自転車に乗らず、押して歩いている人の服がめくりあがっています。
JRが風で止まるなんて(旧)大津市では考えられません。しかし、「(旧)志賀町では、風のために止まることがしばしば、だから防災無線があって知らせていたのに、合併で大津市になったからというだけで、なくすのは許せない」・・・よく怒っていたKさんの顔が浮かびました。
つまり、こういう風が吹いているんですね。
なかなか実感できないことでしたが、車が左に振られ気分が悪くなりそう・・・。
しばらくして風が吹いているんだと気がつきました。あまり周囲をみずに、大きな音でCDを聞いていたせいで、木の動きなどに目が向かなかったのです。
窓をあけるとすごい風!自転車に乗らず、押して歩いている人の服がめくりあがっています。
JRが風で止まるなんて(旧)大津市では考えられません。しかし、「(旧)志賀町では、風のために止まることがしばしば、だから防災無線があって知らせていたのに、合併で大津市になったからというだけで、なくすのは許せない」・・・よく怒っていたKさんの顔が浮かびました。
つまり、こういう風が吹いているんですね。
なかなか実感できないことでしたが、車が左に振られ気分が悪くなりそう・・・。
草津JCT付近はこんな感じ ― 2008/04/13
やっぱり雪国型の信号でした@高島市 ― 2008/03/07
「逢坂山トンネルの跡」 ― 2007/09/12
車石が保存されています、蝉丸神社に ― 2007/09/12
道路地図のほうが見やすいかも②ちとアップ ― 2007/08/27
道路地図のほうが見やすいかも①広域 ― 2007/08/27
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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