お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その15 ~営口~2011/08/30

「明治二十八年十月五日於営口歿」
 旧大津陸軍墓地に眠る日清戦争戦没者の足取りをたどるのが目的です。『戦役経歴書 歩兵第九聯隊』、『戦役経歴書 第四師団第二野戦病院』などを使っていますが、わからないことが多いのです。
 兵卒の墓碑で死亡場所が「営口」と刻まれた墓碑がいくつかあります。上の写真(恒木丈太郎の墓碑)がそれです。
 『金州半島兵站監部 編成表』を見ながら、それは「営口兵站病院兼検疫所」のことだと思いました。旧真田山陸軍墓地にある日清戦争の墓碑(下の写真)には病院名まで刻まれています。
旧真田山陸軍墓地の墓碑には病院名がある
 しかし、それは推察にすぎません。

 旧大津陸軍墓地にある日清戦争の墓碑で、「営口」で死亡したと刻まれているのは、以下の兵卒の墓碑です。
 7月13日 営口 一等卒 梅山 竹二郎(80)

 8月 4日 営口 二等卒 山田 藤吉(185)
 8月10日 営口 一等卒 谷 傳蔵(190)
 8月21日 営口 一等卒 伊庭 米二郎(8)
 9月 4日 営口 一等卒 宮村 多治郎(72)

10月 5日 営口 一等卒 恒木 丈太郎(192)
11月 1日 営口 一等卒 勝見 市蔵(26)
11月 6日 営口 一等卒 井上 幸太郎(22)
11月 7日 営口 一等卒 今井 源松(7)
 4月、5月、6月は一名もありません。

 そもそも、営口はどこに位置していたのでしょうか。

 地図を見ると、遼東半島から見れば西側、遼東湾に面した港で、内陸の海城からは数十㎞の距離にあります。遼東半島の東側にある旅順口、大連湾、柳樹屯などとは反対の位置にあります。大孤山→岫巌→柝木城→海城→営口という順番でしょうか。
 柝木城にいた第三大隊よりも、海城の守備をしていた第二大隊の方が営口にちかいために、亡くなった兵卒は、第二大隊に属していた可能性が高いと思います。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その14 ~金州~2011/08/29

 『高島郡誌』に掲載されている「明治廿七八年戦役戦病死者」17名のうち、旧大津陸軍墓地に墓碑がある(=歩兵第九聯隊所属)のは、以下の8名でした。
○大溝村 大字勝野   中村 林蔵
○安曇村 大字三尾里  日置 卯市
○饗庭村 大字旭   内田 検次郎
○高島村 大字拝戸  奥村 久米蔵
○饗庭村 大字饗庭  冨田 楳吉
○西庄村 大字蛭口  井花 長太郎
○安曇村 大字常磐木 福井 乙吉
○新儀村 大字太田  大塚 長次郎
 このうちの一人福井乙吉は、「金州」で明治28年9月11日に亡くなっています。乙吉の足取りを「金州」と刻まれた文字を手がかりに、推察してみます。
 死亡場所が「金州」の兵卒の名簿です。
 4月24日 金州 上等兵 川勝 善吉(84)
 4月26日 金州 二等卒 胡内 梅太郎(81)
 5月 1日 金州 二等卒 有山 信太郎(85)
 5月 1日 金州 二等卒 吉田 健吉(201)
 5月 7日 金州 二等卒 川上 定吉(188)

 5月23日 金州 二等卒 竹村 健吉(90)

 8月10日 金州 一等卒 松本 鉄次郎(178)
 8月29日 金州 一等卒 田尾 栄次郎(110)
 9月 1日 金州 二等卒 岩井 音松(28)
 9月 3日 金州 一等卒 安本 仙之助(104)
 9月 8日 金州 一等卒 波多野 藤次郎(73)
 9月11日 金州 二等卒 福井 乙吉(高島郡)(32)
10月 8日 金州 一等卒 松本 由之助(206)

12月 3日 金州 一等卒 寺田 吉太郎(99)
12月11日 金州 一等卒 宮島 岩松(49)
 4月はじめから5月に死亡者が続出した「柳樹屯」や「沙家屯」とちがって、ところどころ日数が空いていることに気がつきます。
  『戦役経歴書 歩兵第九聯隊』によれば、第二大隊と第三大隊は、5月12日に沙家屯を出発し、13日には王家屯着、27日には王家屯を出発し、6月6日に海城に着いています。
 第一大隊は、5月12日、「豼子窩ニ残留シ金州半島兵站監ノ指揮ヲ受」けるように命じられました。大隊の「首部」は、別の命令をうけて、5月29日に豼子窩を出発し、30日に柳樹屯に到着しています。
 ですから、4月24日から5月7日までの死亡者は、上陸直後に、金州兵站病院に収容されて亡くなった兵卒だと思われます。
 5月23日の兵卒は、もしかしたら、金州守備の任務について第一大隊の兵卒かもしれません。
 それ以降の「金州」で死亡した兵卒は、第一大隊に所属していたと思われます。第二大隊も第三大隊も海城など遠方の任務についていたからです。

 それで、福井乙吉の運命について、いえることは、なんでしょうか。

 高島郡出身の福井乙吉は、歩兵第九聯隊第一大隊に所属した兵卒でした。明治27年12月3日に動員を完成したあとも、なかなか出征の命令は下りませんでした。ほぼ4カ月近く大津で待機したあと、3月28日に、大津を出征。広島に到着します。
 第一大隊は、宇品港(現広島港)から4月11日に乗船、14日に大連湾に到着します。柳樹屯への上陸は、第三大隊から1日遅れの23日。25日に沙家屯付近の舎営に到着します。第二大隊と第三大隊が海城へ向かいますが、第一大隊は金州半島の守備の任務にあたります。  4月と5月初めをピークにして、疫病は一時的に勢いを失います。ところが、8月を過ぎてからふたたび流行。福井乙吉は、9月11日に、金州兵站病院でなくなったと思われます。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その13 ~第一大隊は柳樹屯にふたたび~2011/08/29

「陸軍輜重輸卒冨田楳吉之墓」@旧大津陸軍墓地
 高島郡饗庭村饗庭は、現在の高島市新旭町にあります。おそらくその地域の共同墓地に、輜重輸卒をつとめた冨田楳吉の墓碑があると思われます。いま、楳吉の存在を確認するものは、旧大津陸軍墓地にある小さな墓碑だけです。
「明治二十八年六月十八日於柳樹屯歿」
 楳吉は、明治28(1895)年6月18日に「柳樹屯」でなくなったことが、この墓碑からわかります。
 楳吉は第九聯隊の兵卒がもっとも多く亡くなった4月および5月を生き延びることができました。上陸した柳樹屯で兵站病院に4月から入院し、6月に亡くなった可能性はありますが、聯隊の兵士を死に追いやった病気の性格(劇症の赤痢、コレラなど)を考えれば、確率は低いと思います。ですから、楳吉は、4月に柳樹屯に上陸し、さらに沙家屯附近の舎営まで無事到着したという前提で、足取りを推測してみました。
 楳吉は、書かれていませんが、第一大隊に所属した輜重輸卒だと思われます。なぜなら、第二大隊も、第三大隊も、柳樹屯、沙家屯と移動しますが、第一大隊とちがって、5月12日には、沙家屯を出発し、13日には王家屯、6月6日には海城に到着しています。楳吉が死を迎えたときには、はるか遠方にいたわけです。
 第一大隊は、沙家屯から二三日の距離にある豼子窩に残留。5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発柳樹屯ニ」到着しました。
 「大隊ノ首部」とは、大隊司令部を含む一定の部隊のことでしょう。輜重輸卒の冨田楳吉は、その移動の荷を負ったと思います。
 楳吉の発症もしくは事故がいつ起こったのかわかりません。死亡場所と年月日は、柳樹屯に到着後、19日目に亡くなったことを示しています。楳吉をほぼ同じ運命をたどったと思われる兵卒は、以下のとおりです。
 6月 8日 柳樹屯 輜重輸卒 堀居 留治郎(150)
 6月16日 柳樹屯 一等卒 田中 興吉(158)
 6月18日 柳樹屯 輜重輸卒 冨田 楳吉(高島郡)(197)
 6月24日 柳樹屯 二等卒 大倉 菊次郎(74)
 7月19日 柳樹屯 二等卒 畠中 熊次郎(124)
 7月23日 柳樹屯 輜重輸卒 丸岡 嘉一郎(168)
 8月18日 柳樹屯 一等卒 小和田 三次郎(51)
 9月 2日 柳樹屯 一等卒 楠浦 権之助(14)
 9月 8日 柳樹屯 一等卒 利田 鶴吉(182)
10月 4日 柳樹屯 一等卒 村上 米治郎(131)
10月10日 柳樹屯 一等卒 萩野 治三郎(148)
11月 1日 柳樹屯 一等卒 今堀 欽次郎(155)
 第一大隊の第一中隊は9月16日から別の任務につきましたが、撤退命令が出たあと12月11日に柳樹屯に戻ってきました。第九聯隊全体では、12月10日から25日の間に、柳樹屯から本国への帰途につきました。冨田楳吉をはじめ上記の兵卒は戻ることができなかったのです。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その12 ~旧大津陸軍墓地Eブロック名簿~2011/08/29

旧大津陸軍墓地のEブロックの一部から
 旧大津陸軍墓地のEブロックには、207柱の墓碑が整然と並んでいます。しかし、このブロックが、日清戦争で命を落とした兵卒の墓地であることを示す表記は、どこにもありません。そもそも旧大津陸軍墓地についての文献は、ほとんどない状態です。
 2007年の秋から、500を超える個人墓碑の名簿づくりをやってきました。1970年代に大津市が移設のために作成した名簿がありますが、決して正確とはいえませんでした。
Kブロックの墓碑には履歴が刻まれています
 上の写真はKブロックの墓碑ですが、これら他のブロックの墓碑には、個人履歴が大なり小なり刻まれています。しかし、Eブロックは、簡潔な表記の墓碑ばかりでした。一つひとつ墓碑が与えてくれる情報は少なくても、全体をまとめれば、逆に一人ひとりの顔が見えてくるものがあるはずだと、思いました。
 墓碑が、私にそれを望んでいるように感じました。
 2007年の秋にも一度挑戦しましたが、最後まで果たすことができませんでした。今回は、わかるところまですべて形にしてしまおうと考えています。ですから、等身大の将兵の死の物語にもう少しおつきあいください。
 それにしても、残念なのは、それぞれの出身地がわからないことです。公の市町村史で確認する作業をしていますが、個人名を書いていないものが多いのです。出身地は、文献で見つけるか、個人墓碑を見つけ、その地域であることを確認するか、のいずれしかありません。
 『高島郡誌』はこの点では申し分のない文献でした。ですから、高島郡出身の若者の運命を中心にたどることにしたのです。

 今回で、12回目。
 11回目までに、明らかになったのは、大溝村大字勝野の中村林蔵、安曇村大字三尾里の日置卯市、饗庭村大字旭の内田検次郎および高島村大字拝戸の奥村久米蔵の死の状況のあらましでした。
 次回は、饗庭村大字饗庭の冨田楳吉を取り上げてみます。

大荒比古神社の日清戦争「紀念碑」2011/08/29

大荒比古神社の日清戦争「紀念碑」
 大荒比古神社は、高島市新旭町にある有名な神社だそうです。マキノの天満宮で、砲弾型の小さな「日清戦役紀念」碑をみつけたことにヒントをえて、帰途、この神社に立ち寄りました。有名な神社なら、あるはずだと思えたからでした。
左手に「紀念碑」が見えています
 そして、それはありました。境内に通じる入口のところです。
 文言の解読はあとでしてみます。

「日清戦役紀念」碑@マキノ2011/08/28

「日清戦役紀念」碑@マキノ
 マキノの天満宮の境内に、「日清戦役紀念」と刻まれた砲弾の形をした碑が置かれていました。道路沿いにある「天満宮」の石碑をこえて、本社の方に歩いていくと、奇妙なオブジェが目につきました。
社の近くに砲弾型のオブジェが見えています
 これまでの経験から、それが戦争の碑であることはすぐわかりました。
天満宮にある砲弾型の「日清戦役紀念」碑
 石造ですが、砲弾そのものをかたどっているように見えます。私は砲弾の実物がどのようなものか知りません。樽のように、二箇所で帯に巻かれていて、取っ手がつけられている様子をかたどっています。
リングは砲弾の取手を模しているのでしょうか?

見てみたい日清戦争の碑 ~征清記念碑(第一軍戦死者記念碑)~2011/08/28

 私が見てみたいもう一つの碑があります。それは、日清戦争の記念碑のなかで最大のもの---名古屋市にある「第一軍戦死者記念碑」です。高さは、20メートルあったそうです。現在は、移設されていて、巨大な台座がなくなっているように見えます。
 戦前の絵はがきに写る姿は、圧倒的な印象をもちます。軍隊と戦争をつよく意識させるものです。

見てみたい日清戦争の碑 ~広島市の凱旋碑~2011/08/28

 私がナマで見てみたい碑があります。
 ひとつは、広島市にある凱旋碑。名前が示すように、日清戦争に勝利した軍隊を迎えた記念の碑。旧宇品港(現広島港)から市の中心部へ向かう旧道沿いにあるそうです。16メートルの高さをもつ巨大なものです。写真で見ると、隣の三階建てのビルをはるかにしのいだ高さです。
 アメリカの占領軍の目を意識して、「平和記念塔」という名前に変えられているそうです。外見と違和感があり、とってつけた感があるのは、否めません。

凱旋碑の記事
http://www.arch-hiroshima.net/arch-hiroshima/arch/delta_south/gaisenhi.html
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/e/6e18c94053f13fdaa11fbde45063c227
http://park1.wakwak.com/~vine/mati/minami/heiwatou/index.html

戦争の碑などについて

http://ww3.enjoy.ne.jp/~simoiti1329/index.html

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その11 ~柝木城~2011/08/27

伊香郡古保利・東柳野出身の中川力蔵の墓碑@旧大津陸軍墓地
 中川力蔵は、滋賀県伊香郡古保利の東柳野出身であることがわかっています。いま、「力蔵の消息を知りたい」という遺族の方がいらっしゃったら、いえることは、つぎのことです。
 陸軍歩兵第九聯隊に所属した一等卒・中川力蔵は、明治28(1895)年3月28日に大津の衛戍地を出征し、廣島に向かう。4月13日に宇品港から乗船。16日に大連湾に到着。22日に柳樹屯上陸。24日に沙家屯附近の舎営到着。5月12日にそこを出発し、13日に王家屯附近の舎営に到着。27日にふたたびそこを出発し、6月6日に海城到着。8月24日にそこを出発して柝木(たくぼく)城に到着しました。中川力蔵が所属した第三大隊は、そこを最終地点として、撤退を開始する11月27日まで守備にあたりました。
 しかし、中川力蔵は、柝木城に到着してから一週間後の9月1日に死亡しています。下の写真は、旧大津陸軍墓地の中川力蔵の墓碑に刻まれた死亡年月日と場所です。
中川力蔵の墓碑から
 力蔵とともに柝木城まで到達しながら、そこで亡くなった兵卒は、9名でした。
 9月 1日 柝木城 一等卒 中川 力蔵(伊香郡)(63)
 9月 8日 柝木城 一等卒 丸山 文吉(3)
 9月 8日 柝木城 一等卒 田辺 長造(179)
 9月16日 柝木城 一等卒 新畑 音吉(10)
 9月18日 柝木城 上等兵 横田 勝次郎(29)
10月11日 柝木城 一等卒 今井 久吉(187)
10月11日 柝木城 一等卒 山口 萬吉(207)
10月30日 柝木城 一等卒 西田 柳吉(88)
 輜重輸卒の本田政治郎(133)は、同じ折木城で亡くなっていますが、日付は6月20日です。どういう行動をしていたのかは、わかりません。さらに、柝木城にどういう医療機関があったのかも、わかりません。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その10 ~「戦役経歴書 第九聯隊」~2011/08/27

 陸軍歩兵第九聯隊には、三つの大隊がありました。第一、第二および第三です。聯隊司令部は第三大隊と一緒に行動していたようです。
 日清戦争の「戦役経歴書 第九聯隊」の記述は、わずか二ページにすぎません。それでも、疑問を解くカギにはなります。私の疑問というのは、5月以降、死亡場所がバラバラに広がっていく(柳樹屯、豼子窩、折木城、大孤山、金州、営口、海城などなど)のは、なぜかということでした。
 わかったことは、下関条約の締結と批准をうけて、戦闘序列を解き、あらたな任務が第九聯隊に与えられることと関係するということです。第九聯隊は、遼東半島の守備に任務を与えられて、三つの大隊ごとに、ときには中隊レベルまで分けて、異なる場所に配置されるからです。
 それを「戦歴書」の記述から見てみます。
 これによると、衛戍地の大津を出発し、廣島に向かうのは、3月28日。これは同時だったと思われます。次に、船で遼東半島に向かうのですが、第一と第二大隊は4月11日に宇品港から乗船、第三大隊と聯隊司令部は13日になりました。つぎに大連湾に到着するのは、第一と第二が14日、第三が16日でした。柳樹屯への上陸は、第三大隊が先で22日、第一と第二が23日。
 聯隊は上陸後、「宿営予定地沙家屯附近ニ在ル西華屯附近ノ舎営地ニ到ル」ことになります。第三が24日、第一と第二が25日に到着しています。
 聯隊は、このように日はずれるものの、5月12日までは、一体となって行動していました。4月に死亡した将兵は、「大連湾検疫所」、「旅順口兵站病院」、「柳樹屯兵站病院」、「劉家屯避病室」、「沙家屯舎営病院」で死を迎えたと思われます。

 ここまでは、すでに書いたとおりです。

 分岐点は、5月12日です。
 同日、聯隊のうち第一大隊を残して、第二大隊第三大隊は「豼子窩ヨリ熊笹ニ通スル街道南崗子豼子窩間ニ集合スル為メ」に、舎営地を出発し、13日に「王家屯附近ノ舎営地」に到着。
 さらに、「海城方面守備」のために、27日に「王家屯附近ノ舎営地」を出発し、6月6日に海城に到着します。
 第二大隊は、このまま11月23日まで海城に残り、守備の任務につきました。
 第三大隊は「柝木城守備ト交代スル」ために、8月24日に海城を出発し、柝木城に到着。11月27日まで「柝木城附近及ヒ其以南王家堡子間守備及ヒ兵站事務ヲ兼務」するのです。
 5月12日に、第二・第三大隊と分かれた第一大隊は、どうなったのか。
 第一大隊は、「豼子窩ニ残留シ金州半島兵站監ノ指揮ヲ受」けました。さらに、5月29日に「大連湾大孤山間ノ守備ヲ命セラレ大隊ノ首部ハ翌30日ニ出発、柳樹屯ニ」到着しました。また、9月16日には、第一大隊第一中隊が「岫厳守備ノ命ヲ受ケ」柳樹屯出発。「海路ヨリ大孤山ヲ経岫巌ニ至ル」
 次に撤退の命令が下ります。
 第二大隊と聯隊司令部は11月23日に海城を出発し、12月7日に大連湾に到着します。
 第三大隊は、11月28日に柝木城を出発し、12月11日に柳樹屯に到着。
 第一大隊第一中隊は11月25日岫厳出発、12月11日に柳樹屯に到着。
 そして、柳樹屯から、12月10日から25日の間に、柳樹屯から乗船し、廣島の宇品港へ12月13日から28日の間に上陸。大津市の衛戍地に12月15日から30日の間に戻ることができました。

 ややこしいのですが、これをもとにして、死亡した将兵のたどった道を再現してみようと思います。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)