お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「故郷」の歌声が聞こえる~野戦重砲兵第九聯隊玉砕の地@サイパン~ ― 2010/11/08
ある大きな会場で、「故郷」を二度聴きました。最初は、合唱で、つぎにはジャズで。ともに感動的な演奏でした。
この選曲が偶然とは思えないままに、私は、ある光景を思い浮かべていました。
それは戦後60周年の節目の年のことです。
私たち家族は、サイパンに旅行しました。選んだのは、少人数のヒストリカル・ツァー。ガタガタ揺れるミニバンに乗せられて、ある戦場跡に案内されました。そこは、米軍に追われて、ちりぢりとなった日本軍の残存部隊が手榴弾で自爆した場所でした。十数人が最後の瞬間に、輪になって、この歌を歌ったそうです。
現地の少年がその光景を偶然に目撃したために、いまに伝わる「野戦重砲兵第九聯隊」の実話でした。
私たち家族も、その場で歌いましたが、その一語一語が痛切な思いをもって、胸に刺さりました。そのとき以来、太平洋の諸島や中国で戦死した若者の墓碑を見る度に、「故郷」の歌声が聞こえるように思えるのです。
天候のいい一日。ある小さな墓地をめぐりましたが、そこでも戦死者の墓碑は、十数柱見つけることができました。まだ建立されて新しい墓碑もあり、刻まれた文字は、あまりに鮮明で、戦死が昨日の出来事のように思えました。
第二次世界大戦で、戦闘員の死者は、570万人を超え、そのうち日本人の戦死者は、230万人といわれています。
この選曲が偶然とは思えないままに、私は、ある光景を思い浮かべていました。
それは戦後60周年の節目の年のことです。
私たち家族は、サイパンに旅行しました。選んだのは、少人数のヒストリカル・ツァー。ガタガタ揺れるミニバンに乗せられて、ある戦場跡に案内されました。そこは、米軍に追われて、ちりぢりとなった日本軍の残存部隊が手榴弾で自爆した場所でした。十数人が最後の瞬間に、輪になって、この歌を歌ったそうです。
現地の少年がその光景を偶然に目撃したために、いまに伝わる「野戦重砲兵第九聯隊」の実話でした。
私たち家族も、その場で歌いましたが、その一語一語が痛切な思いをもって、胸に刺さりました。そのとき以来、太平洋の諸島や中国で戦死した若者の墓碑を見る度に、「故郷」の歌声が聞こえるように思えるのです。
天候のいい一日。ある小さな墓地をめぐりましたが、そこでも戦死者の墓碑は、十数柱見つけることができました。まだ建立されて新しい墓碑もあり、刻まれた文字は、あまりに鮮明で、戦死が昨日の出来事のように思えました。
第二次世界大戦で、戦闘員の死者は、570万人を超え、そのうち日本人の戦死者は、230万人といわれています。
報国隊員として千島列島に赴き戦没と刻まれた墓碑 ― 2010/11/04
「赤紙」(召集令状)が記憶する戦争 ― 2009/12/11
一枚の写真と一本の電話 ― 2009/12/03
それは昨晩のこと。ある会場で、女性県議のFさんが語ったエピソードが心に残りました。Fさんは困惑ぎみに話しました。「私が訪れたとき、90歳ぐらいのお年寄りが、ここで待っていてくれと奥に入り、一枚の写真を持ってこられきました。若い兵隊さんが4名写っている写真でした。その方は、一番隅に自分が写っていると指差しました。そのお年よりは、生きて戦争から帰ってきたのですが、となりの方たちは、沖縄へ派遣されてそこで戦死しました。亡くなった人たちの家族が写真をたよりに尋ねてきて、『うちのひとはどういう死に方をしたのでしょうか。教えてください』と繰り返し求められたそうです。その高齢者は、たまたま隣に移っているだけで、それ以上の面識もなければ、ましてやその後の消息は知りようもありませんでした。その高齢者は、とても悲しそうに無念そうに語りました。」
その高齢者がいまだにこのことを心の重荷にしていること、そして、その写真をわざわざ見ず知らずのFさん見せ、心にたまったことを訴えたいと思ったこと(Fさんは困惑した様子でしたが)を聞き、私は、あらためて戦争の傷跡の深さを知ったのです。
家族は、若者の最後を知りたかったのです。それなくしては、非業の死を受け入れることができないということなのでしょう。
これが一枚の写真の話です。
一本の電話は今日のことです。
お昼前に私の携帯にかかってきました。番号は、メールでお伝えしておいたので、見知らぬ高齢者の声でしたが、私はピンときたのです。それは、丁寧なお礼の電話でした。親戚の方が戦場で亡くなった様子を私が調べてお知らせしたことの返礼でした。
私は、若者の最後の姿を追い求める切ない気持ちに、昨晩と今日触れました。そのことをブログで書いておきたかったのです。
上の写真は、西南戦争から太平洋戦争・日中戦争までをたたかった軍隊が大津市に衛戍地をもっていたという碑です。碑の裏側には、戦歴が誇らしげに刻まれています。しかし、そこには、無念の死に苦しむ家族などの思いは見ることはできませんでした。
その高齢者がいまだにこのことを心の重荷にしていること、そして、その写真をわざわざ見ず知らずのFさん見せ、心にたまったことを訴えたいと思ったこと(Fさんは困惑した様子でしたが)を聞き、私は、あらためて戦争の傷跡の深さを知ったのです。
家族は、若者の最後を知りたかったのです。それなくしては、非業の死を受け入れることができないということなのでしょう。
これが一枚の写真の話です。
一本の電話は今日のことです。
お昼前に私の携帯にかかってきました。番号は、メールでお伝えしておいたので、見知らぬ高齢者の声でしたが、私はピンときたのです。それは、丁寧なお礼の電話でした。親戚の方が戦場で亡くなった様子を私が調べてお知らせしたことの返礼でした。
私は、若者の最後の姿を追い求める切ない気持ちに、昨晩と今日触れました。そのことをブログで書いておきたかったのです。
上の写真は、西南戦争から太平洋戦争・日中戦争までをたたかった軍隊が大津市に衛戍地をもっていたという碑です。碑の裏側には、戦歴が誇らしげに刻まれています。しかし、そこには、無念の死に苦しむ家族などの思いは見ることはできませんでした。
心にひっかかった容器 ~防火水槽~ ― 2009/09/16
異土での「戦死」と向き合うとき ― 2009/09/08
9月初旬の太陽は、夏の力強さを残していて、モノの輪郭を鮮明に浮き立たせています。そんななか、わずかな時間を見つけては、墓地を歩いてきました。
隣のテニスコートから、時折声がきこえるぐらい墓地は静かに思えます。実際には、大きな道路に面していましたから、車の騒音は絶えず響いていたのでしょうけれど、私にはほとんで感じられませんでした。
墓地を半分ぐらい巡ったときに、一人の方とすれちがい、挨拶を交わしたぐらいで、人影はありません。
南小松の墓地でもそうでしたが、戦死者の墓碑のいくつかが、新しいものに代わっています。8月のお盆を機会に、更新されているのかもしれません。墓石も安価ではありえないでしょうに、戦死者への敬慕がいまなお遺族のなかに残り、生きているのを感じます。
戦死者の墓碑をひとつも見逃すまいとできるだけゆっくりと歩きます。そうして、2年間が過ぎましたが、いつも感じること、それは、カタカナのもつ違和感です。日本の地名には、カタカナは稀です。高島市の「マキノ町」はその一つではあるのですけれど。
ですから、上の写真のような碑文が次々を並んでいるのを見ると、遺族の思い、そそして、故郷を遠く離れた異国で亡くなった若者の無念さを強く意識するのです。
恒常的な海外派兵法ができれば、70年近い時を隔てて、ふたたび、このような墓碑と遺族の悲しみを生みだすことになります。
戦前は、忠義の死、お国のための死として、社会的に認知され、強制されていたものが、いまは、存在しません。
派兵されていく若者は、自分の死とどう向き合えばいいのか、そんな迷いや恐れをいだいているように思えるのです。
隣のテニスコートから、時折声がきこえるぐらい墓地は静かに思えます。実際には、大きな道路に面していましたから、車の騒音は絶えず響いていたのでしょうけれど、私にはほとんで感じられませんでした。
墓地を半分ぐらい巡ったときに、一人の方とすれちがい、挨拶を交わしたぐらいで、人影はありません。
南小松の墓地でもそうでしたが、戦死者の墓碑のいくつかが、新しいものに代わっています。8月のお盆を機会に、更新されているのかもしれません。墓石も安価ではありえないでしょうに、戦死者への敬慕がいまなお遺族のなかに残り、生きているのを感じます。
戦死者の墓碑をひとつも見逃すまいとできるだけゆっくりと歩きます。そうして、2年間が過ぎましたが、いつも感じること、それは、カタカナのもつ違和感です。日本の地名には、カタカナは稀です。高島市の「マキノ町」はその一つではあるのですけれど。
ですから、上の写真のような碑文が次々を並んでいるのを見ると、遺族の思い、そそして、故郷を遠く離れた異国で亡くなった若者の無念さを強く意識するのです。
恒常的な海外派兵法ができれば、70年近い時を隔てて、ふたたび、このような墓碑と遺族の悲しみを生みだすことになります。
戦前は、忠義の死、お国のための死として、社会的に認知され、強制されていたものが、いまは、存在しません。
派兵されていく若者は、自分の死とどう向き合えばいいのか、そんな迷いや恐れをいだいているように思えるのです。
「昭和十九年七月四日硫黄島ニ於テ戦死」 ― 2009/09/03
湖西バイパスには、地上から見上げるばかり高い橋梁の上を走っている区間があります。冬などは横風が強くて、背の高い車両は、危険を感じるほどです。
高島市から大津市へ戻る途中、その箇所を通ると左手の小山に墓地が見えます。段々畑のような形状で多数の墓碑が並んでいます。それを目にするたびに、いつか訪れてみたいと思っていました。
手前でバイパスを降りて、側道を走り、遠くに見える墓地に向かって車を飛ばしました。近づけば、何度も通過したことのある土地でした。車でのアクセスもあり、一番下には、駐車場のスペースまでありました。
午後6時を過ぎた墓地は、一刻一刻、薄暗さを増していく気がしました。急いで、墓地を一周しました。
形状は一般の墓碑とかわらないものでしたが、「殉国院」という碑文で戦死者の墓碑とわかる地味なお墓でした。側面には、「陸軍兵長」という階級と氏名が刻んでありました。もう一方の側面をみたとき、「硫黄島」という文字に目に飛び込んできました。
全文は、写真のとおりです。
昭和十九年7月4日・・・偶然でしょうけれど、アメリカ建国記念日ですね。米軍が硫黄島に上陸するのは、昭和20(1945)年2月19日で、栗林中将が最後の攻撃に出て、戦死するのが3月26日です。
この墓碑の方は、その半年以上前に、亡くなっているのです。
「大津の地から、硫黄島で戦死している人がいた」・・・そんなことを何度も頭のなかで、繰り返しながら、私はたった一人、暗くなっていく墓地の中でたたずんでいました。
高島市から大津市へ戻る途中、その箇所を通ると左手の小山に墓地が見えます。段々畑のような形状で多数の墓碑が並んでいます。それを目にするたびに、いつか訪れてみたいと思っていました。
手前でバイパスを降りて、側道を走り、遠くに見える墓地に向かって車を飛ばしました。近づけば、何度も通過したことのある土地でした。車でのアクセスもあり、一番下には、駐車場のスペースまでありました。
午後6時を過ぎた墓地は、一刻一刻、薄暗さを増していく気がしました。急いで、墓地を一周しました。
形状は一般の墓碑とかわらないものでしたが、「殉国院」という碑文で戦死者の墓碑とわかる地味なお墓でした。側面には、「陸軍兵長」という階級と氏名が刻んでありました。もう一方の側面をみたとき、「硫黄島」という文字に目に飛び込んできました。
全文は、写真のとおりです。
昭和十九年7月4日・・・偶然でしょうけれど、アメリカ建国記念日ですね。米軍が硫黄島に上陸するのは、昭和20(1945)年2月19日で、栗林中将が最後の攻撃に出て、戦死するのが3月26日です。
この墓碑の方は、その半年以上前に、亡くなっているのです。
「大津の地から、硫黄島で戦死している人がいた」・・・そんなことを何度も頭のなかで、繰り返しながら、私はたった一人、暗くなっていく墓地の中でたたずんでいました。
梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』 ― 2009/09/03
『硫黄島からの手紙』(イーストウッド監督)とそのメイキング映像の影響で、軍人・栗林忠道に強い関心を覚え、先日から、この本を買ってきて読んでいます。(世間の動きより、ずいぶん遅れていますけれど)
イーストウッドがこの映画を創るまでもなく、この指揮官の名前は、アメリカで知られていたのですね。
この本のタイトルは、どこか違和感がありましたが、それが大事なことがよくわかりました。日本の軍人にない感性と意図が、辞世の句の一節「散るぞ悲しき」に込められていたというのが、著者のいいたいことなのです。
そして、その意図を察知したがゆえに、この文言は、改変して発表されることになったのです。
ようやく半分読み終えました。
イーストウッドがこの映画を創るまでもなく、この指揮官の名前は、アメリカで知られていたのですね。
この本のタイトルは、どこか違和感がありましたが、それが大事なことがよくわかりました。日本の軍人にない感性と意図が、辞世の句の一節「散るぞ悲しき」に込められていたというのが、著者のいいたいことなのです。
そして、その意図を察知したがゆえに、この文言は、改変して発表されることになったのです。
ようやく半分読み終えました。
『硫黄島からの手紙』 ― 2009/08/29
この映画をBDで見た。
米国人のクリント・イーストウッドがなぜこの映画を製作したのか、という点は、だれもが関心をいだくことである。
だが、この問いかけは、そのまま、なぜ、日本人がつくらなかったのか、に通じている。
実際、イーストウッドも「この映画は、日本人がつくるべきものであった」という主旨のことを言っているが、私の胸に強くささる言葉のひとつとなった。
米国人のクリント・イーストウッドがなぜこの映画を製作したのか、という点は、だれもが関心をいだくことである。
だが、この問いかけは、そのまま、なぜ、日本人がつくらなかったのか、に通じている。
実際、イーストウッドも「この映画は、日本人がつくるべきものであった」という主旨のことを言っているが、私の胸に強くささる言葉のひとつとなった。
大石村の12名の戦死者 ― 2009/08/09
大石村は、昭和26(1951)年に大津市に合併。
大石学区となった。私は、村の時代を知らない。
現在の人口は、4,300人ぐらい。
そのうち、住宅開発でできた団地が
三分の二ぐらいを占めている。
村の時代は、きっと、2千人程度だったのだろう。
(後日、国勢調査を調べて見ることにする)
その村にある「忠霊塔」
黒い金属のプレートがはめ込まれ、
村出身の戦没者の名前が刻まれている。
日清戦争時が2名。
あとは、1939年から1945年まで
戦死された土地は、
中国、ビルマ、南洋群島、フィリピン、
御前崎沖そして沖縄。
階級についての記述はなく、
年代が西暦で刻まれていることに、
私は、注目した。
後の戦争に比べて小数であった
日清戦争の死者が、この地に生まれ、
それをはるかにしのいだ日露戦争の
戦死者が出なかったのは
なぜだろう・・・などど思いながら、
しばらく、この場所にたたずんでいた。
大石学区となった。私は、村の時代を知らない。
現在の人口は、4,300人ぐらい。
そのうち、住宅開発でできた団地が
三分の二ぐらいを占めている。
村の時代は、きっと、2千人程度だったのだろう。
(後日、国勢調査を調べて見ることにする)
その村にある「忠霊塔」
黒い金属のプレートがはめ込まれ、
村出身の戦没者の名前が刻まれている。
日清戦争時が2名。
あとは、1939年から1945年まで
戦死された土地は、
中国、ビルマ、南洋群島、フィリピン、
御前崎沖そして沖縄。
階級についての記述はなく、
年代が西暦で刻まれていることに、
私は、注目した。
後の戦争に比べて小数であった
日清戦争の死者が、この地に生まれ、
それをはるかにしのいだ日露戦争の
戦死者が出なかったのは
なぜだろう・・・などど思いながら、
しばらく、この場所にたたずんでいた。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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