お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

8年前に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。通信兵だった父や防空監視隊にいた母から聞かされた話は、戦争は二度とあってはならないという思いを強くさせるものでした。ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、国家の理屈で議論が進みます。同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。戦争は、最悪の暴力。私は草の根の痛み、どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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「大坂鎮臺歩兵第九聯隊第三大隊第二中隊 二等卒太田澤一之墓」2011/09/17

「大坂鎮臺歩兵第九聯隊第三大隊第二中隊 二等卒太田澤一之墓」
 正面に「大坂鎮臺歩兵第九聯隊第三大隊第二中隊 二等卒太田澤一之墓」と刻まれた墓碑を見つけました。「大坂鎮臺歩兵第九聯隊」と刻まれた墓碑を見つけると、立ち止まらずにはいられませんでした。旧家がこの聯隊の営所のごく近くにあり、西南戦争の碑の周りを遊びまわった記憶あるからです。
 名簿を見れば、第九聯隊の墓碑が、どこに、何基の墓碑があるのかはわかります。しかし、そういう探し方はしませんでした。自分の「発見」(の驚き)を大事にしたかったのです。
 右側面には、個人的な経歴が刻まれています。三重県の出身。
左側面には死亡記事。

虎列刺(コレラ)病死 ~兵卒真川菊五郎墓~2011/09/17

虎列刺(コレラ)病死
 旧真田山陸軍墓地を、昼前から午後3時過ぎまで歩き回りました。墓碑の読み取りも、名簿化も終わっている墓地ですから、私が何かを発見するということはありません。なにかを感じたくて、自分がなにをかんじるのかを楽しみに見て回りました。
 そこにそういう墓碑があると知っていても、現物を実際の目で見ると衝撃を受けます。たぶん、何度見ても。
 「虎列刺」という文字。明治10年に流行したコレラのことです。無事、西南戦争から戻ってきた兵卒たちが、原隊に復帰する途上で次々と倒れていったという記述を見たことがあります。この兵卒の場合はどうだったのでしょうか。
 墓碑は折れて、セメント類でつなぎとめられています。「大坂鎮台歩兵第九聯隊」の文字が見えます。大津市に営所があった聯隊の兵卒でした。正面は「真川菊五郎墓」

出身地・高島市安曇川町三尾里にある日置住吉の墓碑2011/09/16

日置住吉の出身地での墓碑
 西南戦争の戦病死者の日置住吉の話の続きです。
 旧真田山陸軍墓地にある墓碑に再会し、左右の側面もきっちり撮影することができました。上の写真は、住吉の出身地・高島市安曇川町三尾里の共同墓地に置かれている墓碑です。これは、すでに紹介ずみの墓碑です。あらためて見てみると、旧真田山陸軍墓地の墓碑(砂岩)より、はるかにりっぱな墓碑(花崗岩だと思います)です。石造の墓碑がなかった当時では、目立つ墓碑だったことでしょう。
戦病死者の墓碑がならぶ三尾里墓地
 上の写真が現在の三尾里墓地の全体。「現在」というのは、移設されたと聞いているからです。
 写っている墓碑はどれも戦没者の墓碑です。手前の最も大きく、また尖った墓碑が日清戦争戦病死者の日置卯市の墓碑です。砲弾のような形の墓碑の一つは、日露戦争の墓碑。西南戦争で亡くなった日置住吉の墓碑は、二つある砲弾型墓碑から2つ右にあります。
 私の推測ですが、西南戦争戦病死者・日置住吉の墓碑は、当初は目立つ位置におかれていたのではないでしょうか。年月が経ち、碑文が摩滅するとともに西南戦争が忘れられていき、日本が対外戦争を行う時代には、内戦の犠牲者は顧みられることが少なくなっていったのでしょう。
旧真田山陸軍墓地にある日置住吉の墓碑
 最後に、もう一度、旧真田山陸軍墓地にある日置住吉之墓碑です。

西南戦争の”私的な墓碑”と”公的な墓碑”2011/09/15

旧真田山陸軍墓地にある西南戦争兵卒の墓碑から
 日清戦争や日露戦争の戦死者(兵卒)の墓碑の扱いは、出身地と陸軍墓地ではずいぶん差がありました。陸軍墓地は、集団の一つとして小さく没個性的な存在でした。出身地の共同墓地では、最も目立つ個性的な墓碑として屹立しています。
 西南戦争の場合は、すこし様子がちがうと感じます。
 まず、旧真田山陸軍墓地の墓碑は画一的ですが、記事内容が具体的です。死因なども明記されています。さらに、「鹿児島賊徒征討」という文言が刻まれています。共同墓地の墓碑の碑文は短く、階級さえ刻まれていない場合もあります。

 今回の旧真田山陸軍墓地訪問の目的の三つ目は、日置住吉の墓碑との再会でした。
 西南戦争で没した日置住吉の墓碑は二つあります。一つは、旧真田山墓地。もう一つは、出身地の共同墓地に置かれています。
 出身地の墓碑は、ほとんど碑文が読めない状態でした。その墓地には、日清戦争の墓碑、日露戦争の墓碑もあります。それらは目を引く大きさと形をしています。その一方、日置住吉の墓碑は、顧みられることのない影の薄い存在となっていました。その扱いの違いに強い印象を持ちました。

児島 襄 『大山巌 第二巻 西南戦争』2011/09/13

 児島 襄の『大山巌』の第二巻を読む。西南戦争が主役であって、大山が主役という記述ではない。司馬遼太郎のような脇話がないのがいい。

西南戦争の個人墓碑@霊山墓地2011/09/11

西南戦争の個人墓碑@霊山墓地
 霊山墓地には招魂社があり、招魂碑があり、個人墓碑がある。個人墓碑の多くは、戊辰戦争以前のものである。つまり、明治政府誕生までのもの。案内図に掲載されていない墓碑もある。日中戦争など後世の墓碑など。
 写真の墓碑は、西南戦争の墓碑である。同じ墓碑だが、上の写真ではわかりにくいけれど、下の写真では、独立して置かれているのがわかる。石質も志士の墓碑(花崗岩か)とちがい砂岩っぽい。
 長州出身の木戸孝允がこの墓地をつくったあと、明治10年に病死する。西南戦争の年である。西南戦争は独立王国の様相を強めていた鹿児島県(旧薩摩藩)の士族と明治政府の戦争である。戊辰戦争の主力であり、唯一の陸軍大将である西郷隆盛がいて、最強の士族軍団と明治政府の生き残りをかけた戦争。
この霊山墓地に薩摩の墓碑がないというのは、そういう事情があるのだろう。
 西南戦争をたたかう明治政府軍の中心は大阪にあった。その大阪には、わが国最大の陸軍墓地がある。旧真田山陸軍墓地である。この墓地の西南戦争の墓碑には、「鹿児島賊徒征討」という敵愾心が文字となって刻まれている。高島市でみつけた西南戦争の墓碑には、このような文字はない。
 では霊山墓地ではどうか。
河合萬七正信招魂之碑
明治十年三月十五日戦死 於肥後國山本郡田原阪 行年二十五歳
 あっさりした記述である。
そもそも、この墓碑はいつ建てられたのだろうか(背後の写真を取り忘れているので)。

『安曇川町史』(昭和59年)には西南戦争の記述がない2011/07/30

 『高島郡誌』(滋賀県高島郡教育會)は、昭和2(1927)年に発行されています。「各戦役に於ける本郡民の戦病死者(=戦死者と戦病死者をあわせての意味)は左の如し」として、「明治十年西南戦役戦病死者」(15名)、「明治二十七八年戦役(=日清戦争)戦病死者」(17名)、「明治三十七八年戦役(=日露戦争)戦病死者」(100名)の名簿が掲載されています。
 昭和59(1984)年に、大冊の『安曇川町史』(安曇川町役場)が発行されました。戦争と戦死者を扱った部分は「第六章 第七節 軍事と災害」です。この節は、つぎの三つの項目にわかれています。
1.饗庭野と船木飛行機発着場
2.明治の戦争
3.洪水と南郷洗堰
「2.明治の戦争」は、徴兵制度や西南戦争に触れることなく、「日清戦争と日露戦争」から叙述が始まります。
 節の最後に戦没者名簿(510名)があります。しかし、「表5 満州事変以後戦没者氏名」となっていて、それ以前の戦死者の名前はありません。
 名簿は『高島郡誌』と重ならないという意図かも知れません。それは譲ったとしても、本文の叙述から、西南戦争が抜け落ちるのは、納得がいきません。安曇川の過去を振り返ろうと思ったとき、最初に参考にするのは、この『町史』ではないでしょうか。そのときに、日清戦争と日露戦争と郷土との関係には、気づいたとしても、西南戦争とのかかわりは視野に入らなくなります。
 いままで農業や漁業、商業にたずさわっていた若者を、強制的に軍隊に入れることを決めたのが、明治6年の徴兵制度でした。明治8年には大津市に歩兵第九聯隊の営所ができます。安曇川を含む高島郡の若者は、そこへ入営し、軍事訓練をうけはじめました。実戦は、わずか2年後にやってきます。相手は当時最強と思われていた鹿児島の士族。第九聯隊の兵士は田原坂をはじめとする激戦地にいきなり投入されました。田原坂のたたかいは、3月4日から17昼夜たたかわれました。高島郡出身者だけをとれば、わかっているだけで、3月6日には、剣熊村の谷口筆松と百瀬村の中川寅吉が戦死。同8日には、川上村の大森六蔵。10日には、剣熊村の谷口良造と新儀村の清水清五郎。12日には、安曇村の岸嘉七。
 戦没者の数は、その後の戦争には及びません。しかし、最初の衝撃はいかばかりだったのか。上記のように、西南戦争が、この地にまで影響を及ぼし、その犠牲者が身近にいたという事実が、叙述からも記憶からも消えていくのは、いいことだとは思いません。いまも残る墓碑は、遺族の悲しみと忘れないでというメッセージを伝えているように思えます。

西南戦争で田原坂で戦死した「岸嘉七」の墓碑???2011/07/29

「故陸軍歩兵一等兵 岸(?)○○○」@西万木墓地
 『高島郡誌』には、高島郡の「明治十年西南戦役戦病死者」名簿が掲載されています。全体で15名ですが、安曇村出身者は2名のみ。一人が、三尾里の日置住吉。歩兵二等卒で所属部隊は不明。明治十年六月二十九日に宮崎県三田村で死亡したと記録されています。
 もう一人が問題の、岸嘉七。安曇村大字西萬木出身。兵種不詳・階級不詳・所属部隊名不詳であり、明治十年三月十日に熊本県田原坂で亡くなったとあります。
 墓碑の形は、今回実際に見ることができた南部由松の墓碑、日置住吉の墓碑と正面の形は同じ(将棋の駒の形)であり、日清や日露の墓碑の形(砲弾型、もしくは四角柱の上に四角錐が載っている形)ではありません。
 墓碑名が判読できれば、推論など無用なわけですが、上の写真のように読み取るのがもはや困難です。「故陸軍歩兵一等兵」まではなんとか判読できそうです。私には、その次の一文字が「岸」に見えるのです。読み取れない部分も入れると「岸嘉七墓(碑)」ではないかと。
 変だと思う点は、最初の「故」。これは新しい時代の墓碑にはついていますが、西南戦争の直後の時代につけたのかどうか、自信がありません。ちなみに、確実に西南戦争の戦死者である海津村の南部由松の墓碑は「陸軍兵卒南部由松碑」であり、それかどうか不明の徳田政吉の墓碑は、「故陸軍歩兵二等卒 徳田政吉墓」でした。
南部由松の墓碑
 参考までに、上の写真が南部由松の墓碑で、下の写真が日置住吉の墓碑です。
日置住吉の墓碑

西万木墓地の小さな墓碑は西南戦争の墓碑ではないか2011/07/29

西万木墓地
 西南戦争の墓碑が少なくとも2柱(海津の南部由松と三尾里の日置住吉)、高島市で見つかりました。徳田政吉の場合は、まだ確定はできません。しかし、少なくとも、今と明治10年とがつながる窓が見つかったのです。
 西万木墓地を見て回ったときに、あまりの小ささに気になって仕方のない墓碑がありました。その話をします。
 まず、西万木の墓地を見回して、二つの特徴に気づきました。第一は、西万木地域の戦没者が多いのに、石造の戦死者の墓碑は少ないという事実です。墓地の大部分には、木製の墓標がならんでいました。中野墓地に比べるとその違いは歴然としていました。
 第二に、上の事実から、戦死者の墓碑はきっと特別な人たちだろうということです。つまり、墓標の風習を壊してでも、建てるべき理由があると地域が納得できる人たちにちがいないのです。
 そう思って戦死者の墓碑を眺め直しました。
 墓地の外周には、上の写真のように、戦死者の墓碑が垣根のように並んでいます。手前から砲弾型2基とその間に四角錐の頭をもつ通常の墓碑。その左手には、より大きな四角錐の頭をもった四角柱の墓碑が4柱ならんでいました。外周にはあと2柱ありました。ひとつは手前で隠れています。ごく最近のもののようすです。
 問題は、残り1柱。
 あまりの小ささに、存在に気づかない墓碑です。近い方の砲弾型墓碑のわきに写っている本体だけの墓碑です。
 財政的に余裕がないために、こういうごく小さな墓碑になったと考えられなくもありません。しかし、残りの墓碑がりっぱすぎるのに、あとからあえて石造でしかも異様に小さな墓碑を建立するとは思えません。したがって、砲弾型墓碑よりも古いものではないか・・・。私はその正面の形を観察しながら、これが西南戦争戦死者・岸嘉七の墓碑ではないかと思ったのです。
 次の記事で、具体的に、墓碑を観てみることにします。

西南戦争戦死者の記事~尾島五次郎(饗庭村熊之本出身)の場合~2011/07/29

西南戦争の戦死者の軍報告書は、どういうものなのか。尾島五次郎の死亡報告を見つけました。
滋賀県下近江国高嶋郡辻沢村農
大坂鎮台上歩兵第九連隊第二大隊第四中隊
明治七年第千六百九十五 二等卒 尾島五次郎
右明治十年三月十五日熊本県下肥後国山本郡横平山防戦之際傷ヲ受同年三月十九日竟ニ死去候也
大坂鎮台歩兵第九連隊第二大隊第四中隊事係
明治十一年八月十四日  陸軍伍長  岡直武

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)