お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
2004年大津市長選挙の結果について考える ― 2004/01/26
1月25日に投票された大津市長選挙の結果は、以下のとおりでした。
①目片 信 28,766 当選
②木津 稔 24,381
③八幡 和郎 21,425
④藤崎ヨシヲ 13,404
⑤竹内 照夫 6,758
⑥田中 敏雄 2,051
下馬評では「本命」と思われていた木津稔氏が落選し、元衆院議員の目片信氏が当選するという意外な結果となりました。
自分なりに、市長選挙の結果について、過去を振り返って考えてみることにしました。
大津市長選挙は、1972年に劇的な変化を見せました。それまでは保守の圧倒的な勝利でした。1968年の選挙では、現職の西田善一市長は37,503票を得て、対抗馬の共産党の仲川半次郎候補(15,893)に2倍以上の差をつけた圧勝でした。
1970年代の革新の流れをうけて、社会党や共産党などの共同ができて、1972年はまれにみる激戦となりました。1968年の投票率は52.43%であったのに対して、1972年は72.38%と急上昇。市民の関心がいかに高かったかがわかります。
その結果、奇跡が起こり、保守の井上良平(前助役)が前任者の西田市長の票をはるかに上回る42,130票を得たにもかかわらず、社共統一候補の山田耕三郎氏(45,096)にせり負ける結果となったのです。
自民党の受けた打撃の大きさは、続く1976年の市長選挙に対抗馬を立てることができず、不戦敗したことによく現れています。
しかし、1980年に全国的な動きを先取りする事件が起こります。
それは、社会党と公明党の合意が成立した直後でした。
山田耕三郎市長を、突然、参院選挙に担ぎ出す動きが出てきたからです。社会党と共産党の共同を断ち切る動きでした。その後任として浮上したのが、山田豊三郎助役。革新の理念をもたない方でした。
自民党はこの方なら、相乗りすることは可能と考えたのです。簡単にいうならば、ひさしを借りて母屋をとるという戦術です。
その結果、1980年の市長選挙も無投票。これによって、奇妙なオール与党体制が成立し、水面下ではげしい綱引きが行われる市政運営となりました。自民党が与党のなかから共産党を追い落とすことができれば、完成というプロセスが動きだしたのです。
1983年は、まだこのプロセスの中間地点にあり、無投票当選。
しかし、ついに1988年に共産党は野党宣言をして、対抗馬を出し、争う市長選挙となったのです。自民党は母屋をとることに成功したのです。
1988年、1992年、1996年の三回の選挙は、共産党を除くオール与党体制VS共産党という構図のなかで、市長選挙がたたかわれました。
1988年は、山田豊三郎氏 58,129
鈴木 弘一氏 21,341
1992年は、山田豊三郎氏 55,865
和所 英ニ氏 15,740
1996年は、山田豊三郎氏 47,064
田村 六郎氏 21,934
圧倒的なオール与党に支えられた山田豊三郎氏の圧勝という様相は変わりません。しかし、その得票は回を追うごとに減っていきます。また、市民的な関心もさめていき、88年は48.03%、92年は38.63%、96年は34.11%というように投票率も低迷します。
全国どこでも起こった現象ですが、いまの政治がいいとは思わないが、変わるとも思えないという閉塞感が広がった状況を反映しています。
少し変化が感じられたのが、2000年の市長選挙でした。
「オール与党VS共産党」ではない構図が生まれたからです。政治を変えたいと思い、また政策的には共産党の候補者に共感するが「共産党ではねぇ」という気分をもつ有権者にとって、その気分に合致すると思われる選択肢(この場合は、八幡和郎氏)が提供されたことによるのでしょうね。
2000年の市長選挙は、投票率が43.54%。前回よりも、10ポイント近く上昇しています。
結果はつぎのとおりです。
①山田豊三郎氏 46,802 ←自民など
②八幡 和郎氏 30,846
③佐藤 昇氏 15,770 ←共産党など
この場合でも、山田豊三郎氏は、自民などの基礎票をしっかり踏まえて勝利しています。八幡氏と佐藤氏を合わせた得票は、ごくわずかにしても、山田氏を上回るまでにいたっていません。
そして、その次が今回(2004年)となるのです。
山田豊三郎市政の行き詰まりもあり、与党の間で、分裂選挙となったことが特徴です。しかし、そのことが市民の期待を集めたのかというとそうではないと思います。投票率は、40%台になりましたが、前回よりも1ポイント低くなっています。八幡和郎氏をどう評価するかにかかってきますが、八幡氏も共産党陣営(佐藤昇氏⇒藤崎ヨシヲ氏)も、前回よりも得票を減らしています。
ここでもまだ市民の間に閉塞感が支配しているように思えるのです。
オール与党の分裂選挙となったことで、共産党候補が掲げた市民的な要求を公約に取り入れた目片信市政が誕生しました。その動向が注目されます。
①目片 信 28,766 当選
②木津 稔 24,381
③八幡 和郎 21,425
④藤崎ヨシヲ 13,404
⑤竹内 照夫 6,758
⑥田中 敏雄 2,051
下馬評では「本命」と思われていた木津稔氏が落選し、元衆院議員の目片信氏が当選するという意外な結果となりました。
自分なりに、市長選挙の結果について、過去を振り返って考えてみることにしました。
大津市長選挙は、1972年に劇的な変化を見せました。それまでは保守の圧倒的な勝利でした。1968年の選挙では、現職の西田善一市長は37,503票を得て、対抗馬の共産党の仲川半次郎候補(15,893)に2倍以上の差をつけた圧勝でした。
1970年代の革新の流れをうけて、社会党や共産党などの共同ができて、1972年はまれにみる激戦となりました。1968年の投票率は52.43%であったのに対して、1972年は72.38%と急上昇。市民の関心がいかに高かったかがわかります。
その結果、奇跡が起こり、保守の井上良平(前助役)が前任者の西田市長の票をはるかに上回る42,130票を得たにもかかわらず、社共統一候補の山田耕三郎氏(45,096)にせり負ける結果となったのです。
自民党の受けた打撃の大きさは、続く1976年の市長選挙に対抗馬を立てることができず、不戦敗したことによく現れています。
しかし、1980年に全国的な動きを先取りする事件が起こります。
それは、社会党と公明党の合意が成立した直後でした。
山田耕三郎市長を、突然、参院選挙に担ぎ出す動きが出てきたからです。社会党と共産党の共同を断ち切る動きでした。その後任として浮上したのが、山田豊三郎助役。革新の理念をもたない方でした。
自民党はこの方なら、相乗りすることは可能と考えたのです。簡単にいうならば、ひさしを借りて母屋をとるという戦術です。
その結果、1980年の市長選挙も無投票。これによって、奇妙なオール与党体制が成立し、水面下ではげしい綱引きが行われる市政運営となりました。自民党が与党のなかから共産党を追い落とすことができれば、完成というプロセスが動きだしたのです。
1983年は、まだこのプロセスの中間地点にあり、無投票当選。
しかし、ついに1988年に共産党は野党宣言をして、対抗馬を出し、争う市長選挙となったのです。自民党は母屋をとることに成功したのです。
1988年、1992年、1996年の三回の選挙は、共産党を除くオール与党体制VS共産党という構図のなかで、市長選挙がたたかわれました。
1988年は、山田豊三郎氏 58,129
鈴木 弘一氏 21,341
1992年は、山田豊三郎氏 55,865
和所 英ニ氏 15,740
1996年は、山田豊三郎氏 47,064
田村 六郎氏 21,934
圧倒的なオール与党に支えられた山田豊三郎氏の圧勝という様相は変わりません。しかし、その得票は回を追うごとに減っていきます。また、市民的な関心もさめていき、88年は48.03%、92年は38.63%、96年は34.11%というように投票率も低迷します。
全国どこでも起こった現象ですが、いまの政治がいいとは思わないが、変わるとも思えないという閉塞感が広がった状況を反映しています。
少し変化が感じられたのが、2000年の市長選挙でした。
「オール与党VS共産党」ではない構図が生まれたからです。政治を変えたいと思い、また政策的には共産党の候補者に共感するが「共産党ではねぇ」という気分をもつ有権者にとって、その気分に合致すると思われる選択肢(この場合は、八幡和郎氏)が提供されたことによるのでしょうね。
2000年の市長選挙は、投票率が43.54%。前回よりも、10ポイント近く上昇しています。
結果はつぎのとおりです。
①山田豊三郎氏 46,802 ←自民など
②八幡 和郎氏 30,846
③佐藤 昇氏 15,770 ←共産党など
この場合でも、山田豊三郎氏は、自民などの基礎票をしっかり踏まえて勝利しています。八幡氏と佐藤氏を合わせた得票は、ごくわずかにしても、山田氏を上回るまでにいたっていません。
そして、その次が今回(2004年)となるのです。
山田豊三郎市政の行き詰まりもあり、与党の間で、分裂選挙となったことが特徴です。しかし、そのことが市民の期待を集めたのかというとそうではないと思います。投票率は、40%台になりましたが、前回よりも1ポイント低くなっています。八幡和郎氏をどう評価するかにかかってきますが、八幡氏も共産党陣営(佐藤昇氏⇒藤崎ヨシヲ氏)も、前回よりも得票を減らしています。
ここでもまだ市民の間に閉塞感が支配しているように思えるのです。
オール与党の分裂選挙となったことで、共産党候補が掲げた市民的な要求を公約に取り入れた目片信市政が誕生しました。その動向が注目されます。
京都先斗町へ ① ― 2004/01/28
カミさんは、九州出身。
大学は京都。
私は、一時京都の社宅にいたようですが、大津育ち。
大学は大阪。
どっちが京都をよく知っているのでしょうね?
我が家から京都までJRで9分。
たいていの京都市内よりも、京都駅に近いわけです。
高校生のときから京都へはよく遊びにいきました。
博物館、美術館、そして音楽ショップ古本屋街へ。
古い町並みを楽しむようなことはしませんでした。
平日の休みをあわせて、カミさんとふたりきりで、
先斗町を歩きました。
確かに歴史的な町並みを楽しみましたが・・
あまり手馴れたつくりのように思えました。
それでも、歴史を街づくりに生かす点では、
学ぶことはおおい街です。
大学は京都。
私は、一時京都の社宅にいたようですが、大津育ち。
大学は大阪。
どっちが京都をよく知っているのでしょうね?
我が家から京都までJRで9分。
たいていの京都市内よりも、京都駅に近いわけです。
高校生のときから京都へはよく遊びにいきました。
博物館、美術館、そして音楽ショップ古本屋街へ。
古い町並みを楽しむようなことはしませんでした。
平日の休みをあわせて、カミさんとふたりきりで、
先斗町を歩きました。
確かに歴史的な町並みを楽しみましたが・・
あまり手馴れたつくりのように思えました。
それでも、歴史を街づくりに生かす点では、
学ぶことはおおい街です。
京都先斗町へ ② 車が走る古の街路 ― 2004/01/28
カミさんとふたりで京都へ。
平日に休みをあわせて、ゆっくり出かけました。
京都先斗町は、私は初めてでした。
こんな近くに住んでいるのに・・・。
でも、車がこんなところを平然と走れるように
しているのは驚きでした。
観光と歴史的な町並みの両立でしょうね。
歴史的といっても、いまだ半分それが生きているのですから、
発展もするのでしょう。
平日に休みをあわせて、ゆっくり出かけました。
京都先斗町は、私は初めてでした。
こんな近くに住んでいるのに・・・。
でも、車がこんなところを平然と走れるように
しているのは驚きでした。
観光と歴史的な町並みの両立でしょうね。
歴史的といっても、いまだ半分それが生きているのですから、
発展もするのでしょう。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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