お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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三井寺観音堂からの眺望① 北北西方向2007/09/14

三井寺観音堂の上にある高台からの眺望は、昔から有名。
絵葉書をはじめ、記録がたくさん残っているはずです。
いわば、大津市の風景の基準点。

一年に一度は記録しておく値打ちがあると思います。

そこで、18ミリの広角レンズで4枚の写真を撮りました。
北北西(真北より若干西と思うので)、真北、すこし東、真東。
方位は、およそでしかありませんが、重なりあってつながると思います。

琵琶湖と大津の街並みを(拡大表示を使って)ご覧ください。

正面の高いビルは、西大津駅前のマンション「ファースト・タワー」です。
38階建です。その右の山は比叡山。正面には、米軍キャンプの跡地に建てられた皇子山陸上競技場と皇子山球場が見えます。

三井寺観音堂からの眺望② 北方向2007/09/14

三井寺観音堂の高台から、琵琶湖と大津市を写しています。
西日を浴びて、建物の輪郭がはっきり写っています。

拡大表示でご覧ください。
元の画像は、もっと大きいのですが。

画面中央から斜め右上に琵琶湖へと続く緑地は、第一疎水です。

明治時代のここからの眺望

http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/08/11/1716934

三井寺観音堂からの眺望③ 北東方向2007/09/14

さらに右にカメラを振りました。
高層マンションが増えています。
もっとも琵琶湖に突き出ているマンションは、最近できたもの。
浜大津港にあります。
琵琶湖の「壁」といって私が怒っているものです。もちろん、これだけに怒っているわけではありません。
これが現在(2007年)↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/07/22/1673842
これが3年前(2004年)↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/07/22/1673805
「あたか飯店」は裁判に訴えていると聞いていますが、勝ち目がないのは、環境を守るための法や条例の不備に原因すると思われます。
このことは、ブログで書いてみたいと思っています。

三井寺観音堂からの眺望④ 東方向2007/09/14

これが東。
右から3分の1あたりに、小さく飛び出ているのは、プリンスホテル。

ビルの合間を進む観光船ミシガン2007/09/14

高台から三井寺観音堂の展望台へ降りました。
ちょうど観光船ミシガンが琵琶湖に見えます。
200ミリのズームで撮影しました。
浜大津港のちょうど前を走っているようですね。

高層マンションがないときは、琵琶湖の輪郭がくっきりみえたのです。
しかし、いまや、マンションの隙間を、ミシガンが進むのを見るしかないのです。

え?どれがミシガンかわからない?!

そんな皮肉がいいたくなります。
左手の高いビルが浜大津にできた琵琶湖の「壁」マンション。
8月の終わりの夕暮れ、浜大津を写した写真。↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/01/1763841
この写真の右手がそれ。

右下の黒い傘のような屋根は、これ↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/01/1763870

気がつかなかった第一次世界大戦とシベリア出兵の碑2007/09/14

すでに目にしながら、紹介が抜けている碑がありました。

それは、第一次世界大戦とシベリア出兵の碑です。

第一次世界大戦には、日英同盟を口実に、
列強が争っている隙に、ドイツのアジア植民地を
わがものにしようと出兵しています。
旧第九連隊も出兵していて、犠牲者を出しています。
さらに、ロシア革命が起こったあとの、シベリア出兵でも、
第九連隊は動員され、犠牲者を出しています。

「第九連隊の碑」の碑文にもそのことは出ています。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/11/1790143

「第一次世界大戦の碑」とか、「シベリア出兵の碑」とかいう
名称の碑はありません。
しかし、第一次世界大戦は1914~18年=大正3年~同7年。
     シベリア出兵は、1918~1925年=大正7年~14年
     1920(大正9)年には、アムール川の河口にあるニコライエフスク港(尼港)でロシア守備隊との衝突も起きています。

歴史的な年代をわきまえていなかったので、見落としたのです。

つまり、日本側から言えば、
第一次世界大戦=「大正四年戦役」
シベリア出兵  =「大正九年戦役」
だったのです。

上の碑には、つぎのように刻まれています。

「大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑」

*この二つの「戦役」での大津第九連隊の動きについての私の記述は、正確にする必要がありますね。

西南戦争以来の戦争の碑(大津市)2007/09/14

明治維新以来1945年の敗戦まで、
日本はほぼ10年おきに大きな戦争をしてきました。
戦争ばかりしてきたといっていいのかも知れません。

大津市は、明治の近代陸軍が成立するその最初から、
陸軍歩兵部隊がおかれていました。
そのために、大津市は「軍都」となり、
戦争とは切っても切れない関係となりました。

戦争は敵味方の兵士、民衆の屍の山を積み上げていきます。
そのことへの悲しみが、軍都の戦争の碑に
こめられている気がしました。

戦争の碑は、3箇所、8柱。
部隊の碑は、2つありました。

これ以上あるのかは、いまはわかりません。
長年大津市に住みながら、私は、今になってようやく
場所は確認することができたのです。
やっと第一歩が踏み出せたってことでしょうね。

名称と場所をまとめておくと、

部隊の碑は、つぎの二つ。

①陸軍歩兵第九連隊の碑
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/11/1790145

②若鷲の碑
 大津陸軍少年飛行兵学校
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/10/1789609

戦争の碑は、つぎの3箇所8柱
それぞれ写真は1枚から数枚アップしていますが、全体が見えるものを選びました。

①西南戦争の碑 
   名称は、「記念碑」とのみ。
   三井寺境内の御幸山の上
   明治11(1879)年建立。
   http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/13/1795117

②日清戦争の碑 
   名称は、「明治廾七八年没忠勇戦死者紀念碑」
   蝉丸神社の境内    
   http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/12/1792347

●日露戦争の碑 = 大津陸軍墓地
   これは階級別に4種類・4柱あります。
    名称は、以下のとおり。

   ③「明治三十七八年戦没将校同相当戦病死者合葬碑」
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769240
   ④「明治三十七八年戦没准士官戦病死者合葬碑」
    http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769239
   ⑤「明治三十七八年戦没下士戦病死者合葬碑」
    http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/04/1769238
   ⑥「明治三十七八年戦没兵卒戦病死者合葬碑」
    http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775869

⑦第一次世界大戦とシベリア出兵の碑
   名称は、「大正四年乃至九年戦役戦病没者之碑」
   大津陸軍墓地
   大正11(1922)年建立
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/14/1796582
⑧15年戦争の碑
   名称は、「大東亜戦戦没者の碑」
   大津陸軍墓地
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/12/1792258

ムクドリが、なぎさ公園で目の前に舞い降りました2007/09/14

なぎさ公園の歩道。
目の前、2~3メートルにムクドリが舞い降りました。
この距離ならば、よく姿も色もわかります。
あわててカメラを構えたのですが、たちまち飛び立ちます。
幸いなことに、近くの枝に止まりました。
珍しくピントが合っている写真です。

この顔つきは、相模川の電線に止まっていたトリと同じですね。
ということは、そのトリも、ムクドリってことですね。

ムクドリをもう一枚2007/09/14

もう一枚。

ムクドリのおシリです(鑑定用サンプルにしよう)2007/09/14

おシリしか写っていない場合を考えて、
鑑定用のサンプルにします(笑)。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)