お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
私は素人にすぎませんが、陸軍墓地の調査の計画を立てました ― 2007/09/20
●一つの事実がわかるのに半日!
せっかくの休日。
陸軍墓地の件をさっさと片付けようと思っていたのですが、単純な事実ひとつわかるのに、半日かかる始末です。
そういうプロセスのなかでこそ、わかることもある・・・のも事実です。
しかし、買い物や整理の予定が飛んでいきそうです。
●だれかがやらなくてはならないんじゃないだろうか?
大津市も、財務事務所も、それぞれ担当者は、墓碑そのものには責任をもっていないことがわかりました。墓碑というか、後世につたえるべき遺産としての墓地に責任をもっていない気がしました。文化財保護課もそういう立場にはありませんでした。
個人の墓がほとんどですが、それらの所有権は、個人なのでしょうか?
たとえば、日清戦争は、1894から95(明治26から27)年ですが、それからすでに100年以上経っています。すべての墓碑に献花されていますが、それは遺族の方の花なんでしょうか?管理をゆだねられているボランティアの方の心づけなんでしょうか?
いわば無縁墓地のような扱いで、大津市が管理しているのではないでしょうか?
このまま調査が行われないまま、資料もないままで放置しておくことはできません(調査結果があるならば、私はその時点で安心して手を引くことができます)。
●悉皆調査をしてみることに
お昼の12時半ごろに、陸軍墓地から帰宅したのですが、もう足がふらふらでした。全部で559あるお墓のうち、150ぐらいは一枚一枚アップで(4面中の1面ですが)写真を撮ったからなのです。
いちいち体を屈めては写真をとり、少し進んで、また写真を。スローなうさぎ跳び状態です。
直接的には、写真さえ撮っておけば、忙しいときでも整理ぐらいはできると思うからです。長期的には、デジタル写真で残しておけば、風雪に削られてもなんとか記録として残るかと。
一日で559柱は、こういう方法では、一日かけても一人では無理です。それでも、数日かければ一面だけは可能な量ではあります。
全部で4面ありますから、その4倍の日数。
●やりはじめたことですから、計画を立てることにしました。
いまの陸軍墓地に559柱すべてがあること(まだ数えていないけれど)が判明しましたから、他の場所を探す必要はありません。
墓地は、お墓がまとまっている領域があります。
①領域ごとに名前をつけること。A地区とか、B地区とか。
②それぞれの地区ごとに、なん列のなん番という形でお墓に番号をふる。
たとえば、A(地区の)-2(前から2列めの)-5(左から5番目)
③すべてができあがったときに、お墓のID番号をふる。
とりあえず、こういう形で一つ一つのお墓を特定する準備をしてみようと思います。
せっかくの休日。
陸軍墓地の件をさっさと片付けようと思っていたのですが、単純な事実ひとつわかるのに、半日かかる始末です。
そういうプロセスのなかでこそ、わかることもある・・・のも事実です。
しかし、買い物や整理の予定が飛んでいきそうです。
●だれかがやらなくてはならないんじゃないだろうか?
大津市も、財務事務所も、それぞれ担当者は、墓碑そのものには責任をもっていないことがわかりました。墓碑というか、後世につたえるべき遺産としての墓地に責任をもっていない気がしました。文化財保護課もそういう立場にはありませんでした。
個人の墓がほとんどですが、それらの所有権は、個人なのでしょうか?
たとえば、日清戦争は、1894から95(明治26から27)年ですが、それからすでに100年以上経っています。すべての墓碑に献花されていますが、それは遺族の方の花なんでしょうか?管理をゆだねられているボランティアの方の心づけなんでしょうか?
いわば無縁墓地のような扱いで、大津市が管理しているのではないでしょうか?
このまま調査が行われないまま、資料もないままで放置しておくことはできません(調査結果があるならば、私はその時点で安心して手を引くことができます)。
●悉皆調査をしてみることに
お昼の12時半ごろに、陸軍墓地から帰宅したのですが、もう足がふらふらでした。全部で559あるお墓のうち、150ぐらいは一枚一枚アップで(4面中の1面ですが)写真を撮ったからなのです。
いちいち体を屈めては写真をとり、少し進んで、また写真を。スローなうさぎ跳び状態です。
直接的には、写真さえ撮っておけば、忙しいときでも整理ぐらいはできると思うからです。長期的には、デジタル写真で残しておけば、風雪に削られてもなんとか記録として残るかと。
一日で559柱は、こういう方法では、一日かけても一人では無理です。それでも、数日かければ一面だけは可能な量ではあります。
全部で4面ありますから、その4倍の日数。
●やりはじめたことですから、計画を立てることにしました。
いまの陸軍墓地に559柱すべてがあること(まだ数えていないけれど)が判明しましたから、他の場所を探す必要はありません。
墓地は、お墓がまとまっている領域があります。
①領域ごとに名前をつけること。A地区とか、B地区とか。
②それぞれの地区ごとに、なん列のなん番という形でお墓に番号をふる。
たとえば、A(地区の)-2(前から2列めの)-5(左から5番目)
③すべてができあがったときに、お墓のID番号をふる。
とりあえず、こういう形で一つ一つのお墓を特定する準備をしてみようと思います。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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