お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
大津旧陸軍墓地 Mブロック ― 2007/09/21
大津陸軍墓地の略図(↓)に従って、ここをMブロックと呼ぶことにします。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909
最初、ここに来たとき、他のブロックとは異質であることを感じました。
それは、お墓そのものが少なく、バラバラにたっていること。
そして、軍とは関係がないと思われる女性の墓が多いことです。
9月20日に大津財務事務所で見た地図では、ここは国有地とは違います。
お墓まで、軍と関係ないとしたら、ここは、まったくの私有地?
除外すべきなのかも知れません。
全部で559柱とされていますから、数えていけばわかることです。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909
最初、ここに来たとき、他のブロックとは異質であることを感じました。
それは、お墓そのものが少なく、バラバラにたっていること。
そして、軍とは関係がないと思われる女性の墓が多いことです。
9月20日に大津財務事務所で見た地図では、ここは国有地とは違います。
お墓まで、軍と関係ないとしたら、ここは、まったくの私有地?
除外すべきなのかも知れません。
全部で559柱とされていますから、数えていけばわかることです。
「軍都・大津」の過去と向き合いながら考えています。 なにを調べて、なにを伝えていくべきか。 ― 2007/09/21
大津旧陸軍墓地の調査を、仕事の合間に、粘り強くやることにしました。
実務的な計画もたてましたから。
それでも、この墓地の歴史的経過について知りたいことは、たくさんあります。たとえば、
①この墓地は、どういう経過で造られたか。
全国で80あまり造られたと聞いています。
それが原型を残しているのは、ごくわずかとも。
②それはいつのことか。
その管轄はどこだったのか。
③戦前、この墓地はどう扱われてきたか。
④名簿はあったはずだが、それは失われたのか。
大きく言えば、戦後の混乱のなかで、どういう扱いを受けてきたのか
⑤この地を占領した米軍は、どういう扱いをしたのか。
などですね。
同時に、そういう実地調査では直接に見えてこない問題もあります。
それは、現在と未来の問題。
①この墓地は、今のわれわれにとってどういう意味があるのか。
②同様に、次の世代にとってどういう意味があるのか。
③どういう意味で、これを保全していこうというのか。
④形だけ残すのでhなく、市民の歴史意識の財産にすべきではないか。
真田山旧陸軍墓地は保存会などがあり、活動をしています。
それを参考にしたらというアドヴァイスもいただきました。
琵琶湖があり、古いまちなみがあり、寺がやたら多いまちというたけでは大津に生きる市民としては足りないものがあります。
それは「軍都」としての過去。
この悲しい(亡くなった兵士と家族にとっては悲しみ、しかし侵略を受けた側からすると加害者の記録になる)過去をしっかり総括して、それを次の時代の教訓にすることが大切だと思います。
過去を見ないものは、過ちを繰り返すことになるからです。
それにしても、大津のまちは動いています。
墓地は静かで、他人に会ったことはありません。
前にもいいましたね、まるでラピュタだって。
さて、生きて動いているまちに戻って、問題を考えて見ます。
実務的な計画もたてましたから。
それでも、この墓地の歴史的経過について知りたいことは、たくさんあります。たとえば、
①この墓地は、どういう経過で造られたか。
全国で80あまり造られたと聞いています。
それが原型を残しているのは、ごくわずかとも。
②それはいつのことか。
その管轄はどこだったのか。
③戦前、この墓地はどう扱われてきたか。
④名簿はあったはずだが、それは失われたのか。
大きく言えば、戦後の混乱のなかで、どういう扱いを受けてきたのか
⑤この地を占領した米軍は、どういう扱いをしたのか。
などですね。
同時に、そういう実地調査では直接に見えてこない問題もあります。
それは、現在と未来の問題。
①この墓地は、今のわれわれにとってどういう意味があるのか。
②同様に、次の世代にとってどういう意味があるのか。
③どういう意味で、これを保全していこうというのか。
④形だけ残すのでhなく、市民の歴史意識の財産にすべきではないか。
真田山旧陸軍墓地は保存会などがあり、活動をしています。
それを参考にしたらというアドヴァイスもいただきました。
琵琶湖があり、古いまちなみがあり、寺がやたら多いまちというたけでは大津に生きる市民としては足りないものがあります。
それは「軍都」としての過去。
この悲しい(亡くなった兵士と家族にとっては悲しみ、しかし侵略を受けた側からすると加害者の記録になる)過去をしっかり総括して、それを次の時代の教訓にすることが大切だと思います。
過去を見ないものは、過ちを繰り返すことになるからです。
それにしても、大津のまちは動いています。
墓地は静かで、他人に会ったことはありません。
前にもいいましたね、まるでラピュタだって。
さて、生きて動いているまちに戻って、問題を考えて見ます。
進む高層マンション建設。「防音」の文字がうるさいくらい!? ― 2007/09/21
大津市は、人口増加が続いています。
それは、いいこと??
地理的な条件もありますが、政令指定都市になるという野望をいだいて、人口計画を建てて、行政が促進しているからです。
そのために、ひずみが生まれています。
たとえば、全国でもワースト10内にはいるマンモス小学校ができてくるとか、100名を超える学童保育所もそうです。
その人口増を狙って、郊外型の大型複合商業施設が進出(イオンモールなど)し、競争の激化と庶民の暮らしの困難さで、住宅街に近いお店やチェーン店が閉店するなどです。
環境を守れというのが時代の要請なのに、湖岸にはどんどんマンションがたち、歴史的な町並みやかつての商店街はくずれていきます。
いろんなベクトルが錯綜しているなかで、市長選挙がはじまります。
それは、市民全体が、自分たちの市について考える絶好の機会です。
もちろん、私にとっても。
しかし、自分たちの市がどうなっているのかをすべての市民がつかむことは困難です。
自分のこと、そして目の前で、この瞬間に起こっていることは、わかります。しかし、どういう流れで進んでいるのか、そして、それはいいことなのか、悪いことなのか考えるゆとりと情報がすべての有権者に提供されているわけではありません。
選挙は民主主義の大事な制度ですが、上のような前提がなければ、民意が生かされるものとはなりませんね。
それはともかく、「防音」の文字がいっぱい。
うるさいぐらいに書かれています。効果はどうなんでしょうか?
それは、いいこと??
地理的な条件もありますが、政令指定都市になるという野望をいだいて、人口計画を建てて、行政が促進しているからです。
そのために、ひずみが生まれています。
たとえば、全国でもワースト10内にはいるマンモス小学校ができてくるとか、100名を超える学童保育所もそうです。
その人口増を狙って、郊外型の大型複合商業施設が進出(イオンモールなど)し、競争の激化と庶民の暮らしの困難さで、住宅街に近いお店やチェーン店が閉店するなどです。
環境を守れというのが時代の要請なのに、湖岸にはどんどんマンションがたち、歴史的な町並みやかつての商店街はくずれていきます。
いろんなベクトルが錯綜しているなかで、市長選挙がはじまります。
それは、市民全体が、自分たちの市について考える絶好の機会です。
もちろん、私にとっても。
しかし、自分たちの市がどうなっているのかをすべての市民がつかむことは困難です。
自分のこと、そして目の前で、この瞬間に起こっていることは、わかります。しかし、どういう流れで進んでいるのか、そして、それはいいことなのか、悪いことなのか考えるゆとりと情報がすべての有権者に提供されているわけではありません。
選挙は民主主義の大事な制度ですが、上のような前提がなければ、民意が生かされるものとはなりませんね。
それはともかく、「防音」の文字がいっぱい。
うるさいぐらいに書かれています。効果はどうなんでしょうか?
これがマンションの「売り」なのでしょうか? ― 2007/09/21
真田山の「保存の会」の作業を参考に大津でも基本的なデータをつくることにします ― 2007/09/21
前にもどこかで書きました。
真田山には、陸軍墓地と保存を考える会があります。
サイトが2002年5月14日に出来ていて、いまも更新されています。
↓
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
この会の活動が多面的に紹介されていて、
私には、大いに参考になります。
「墓地への行き方と基礎知識」というページからは、まずなにを明らかにしなければならないかがわかります。
●「配置図といろいろな墓碑」
これは、初期版を私もつくりました(↓)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909
●各ブロックごとの墓石配置
このようなタイトルで、真田山では、以下のように整理されています。
A 軍役夫 934基
B 兵卒 1260基
C 下士官 247基
D 下士官 154基
E 兵卒 707基
F 兵卒 1413基
G 将校 155基
H 野田村遺族会建立
169基
I 破損墓碑塚
260以上
合計 5299基以上
これと同じものをつくることは大事ですね。
私は、ブロック分けはしてみました。
ブロックごとに丁寧に作業をすすめるほかはありません。
大津の陸軍墓地は、真田山の規模の10分の1(559基)ですから、
まだ楽といえば楽ですね。
●歴史と沿革
これはまだ白紙。
しかし、大津の第九連隊は大阪の第4師団に属していましたから、同じ師団に所属した真田山と経過が重なるのです。
このページを読んで、私が抱いたいくつかの疑問(・・なぜ、日露戦争の個人のお墓がすくないのか?)への回答が見つかりました。
これについては別に書いてみます。
●崩壊の危機にある墓碑
これは、保存のために必要な作業。
各ブロックごとに表までつくられています。
ここまでやるには、個人的な作業では無理ですね。
大津でも「保存の会」をつくることが必要になります。
真田山には、陸軍墓地と保存を考える会があります。
サイトが2002年5月14日に出来ていて、いまも更新されています。
↓
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/
この会の活動が多面的に紹介されていて、
私には、大いに参考になります。
「墓地への行き方と基礎知識」というページからは、まずなにを明らかにしなければならないかがわかります。
●「配置図といろいろな墓碑」
これは、初期版を私もつくりました(↓)
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/21/1810909
●各ブロックごとの墓石配置
このようなタイトルで、真田山では、以下のように整理されています。
A 軍役夫 934基
B 兵卒 1260基
C 下士官 247基
D 下士官 154基
E 兵卒 707基
F 兵卒 1413基
G 将校 155基
H 野田村遺族会建立
169基
I 破損墓碑塚
260以上
合計 5299基以上
これと同じものをつくることは大事ですね。
私は、ブロック分けはしてみました。
ブロックごとに丁寧に作業をすすめるほかはありません。
大津の陸軍墓地は、真田山の規模の10分の1(559基)ですから、
まだ楽といえば楽ですね。
●歴史と沿革
これはまだ白紙。
しかし、大津の第九連隊は大阪の第4師団に属していましたから、同じ師団に所属した真田山と経過が重なるのです。
このページを読んで、私が抱いたいくつかの疑問(・・なぜ、日露戦争の個人のお墓がすくないのか?)への回答が見つかりました。
これについては別に書いてみます。
●崩壊の危機にある墓碑
これは、保存のために必要な作業。
各ブロックごとに表までつくられています。
ここまでやるには、個人的な作業では無理ですね。
大津でも「保存の会」をつくることが必要になります。
陸軍墓地の成立と所管の移動について ― 2007/09/21
●陸軍墓地はだれが、いつ造ったのか
答えは予想できるものですが、確認すべきことです。
真田山墓地は、1871(明治4)年に、旧兵部省が大阪で陸軍基地を創設とする計画と一体につくられています。
『新修大津市史』(第5巻)を読むと、琵琶湖のほとりの大津市に、陸軍基地を置く計画が、当初からあったことがわかります。園城寺(三井寺)の広大な土地を接収し、第九連隊の兵舎と練兵所ができるのです。
大阪で、軍地基地の一環として墓地が建設されたとするなら、事情は大津でも同じでしょうね。
いずれにしても、大津の陸軍墓地の創設は、明治4年から8年にかけてのことだと思います。そういう見当で調べてみましょう。
●「陸軍墓地」の名称は1938年の陸軍墓地規則から
こういうことも知りませんでした。
●所管はどこへ
戦前の陸軍墓地の所管は、陸軍省。
では戦後は?
真田山陸軍墓地は、大蔵省大阪財務局に所管が移り、1946(昭和21)年8月に、付帯条件をつけて大阪市に無償貸与すると書かれています。
おお!!やっぱりそうだ。
体よく、国は面倒なものは、タダ(無償貸与)という恩着せがましい言葉をつけて、市に所管を押し付けたのです。
市は扱いに困ったはず。
真田山陸軍墓地も、このころに荒廃したと書いていますね。
それで、真田山ではボランティアによる維持保存活動がはじまるわけです。
答えは予想できるものですが、確認すべきことです。
真田山墓地は、1871(明治4)年に、旧兵部省が大阪で陸軍基地を創設とする計画と一体につくられています。
『新修大津市史』(第5巻)を読むと、琵琶湖のほとりの大津市に、陸軍基地を置く計画が、当初からあったことがわかります。園城寺(三井寺)の広大な土地を接収し、第九連隊の兵舎と練兵所ができるのです。
大阪で、軍地基地の一環として墓地が建設されたとするなら、事情は大津でも同じでしょうね。
いずれにしても、大津の陸軍墓地の創設は、明治4年から8年にかけてのことだと思います。そういう見当で調べてみましょう。
●「陸軍墓地」の名称は1938年の陸軍墓地規則から
こういうことも知りませんでした。
●所管はどこへ
戦前の陸軍墓地の所管は、陸軍省。
では戦後は?
真田山陸軍墓地は、大蔵省大阪財務局に所管が移り、1946(昭和21)年8月に、付帯条件をつけて大阪市に無償貸与すると書かれています。
おお!!やっぱりそうだ。
体よく、国は面倒なものは、タダ(無償貸与)という恩着せがましい言葉をつけて、市に所管を押し付けたのです。
市は扱いに困ったはず。
真田山陸軍墓地も、このころに荒廃したと書いていますね。
それで、真田山ではボランティアによる維持保存活動がはじまるわけです。
Gブロック :日露戦争・ロシア人捕虜の墓がたった一柱あります ― 2007/09/21
日露戦争のときに、数万規模のロシア人捕虜が日本国内に連れてこられて収容されていた事実を、私も知りませんでした。
「日露戦争と習志野」というサイトに詳しく紹介されています。
習志野市教育委員会のものです(↓)。
http://www.city.narashino.chiba.jp/siyakusyo/kyouiku/nichiro/index.html
予備知識のないまま、大津陸軍墓地に来て、ロシア人の墓を見つけた驚きはいまでも残っています。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775806
考えてみれば、不思議なことではありませんでした。
しかし、こうして生の墓を見ると深い思いに囚われます。
日本に輸送されたロシア人捕虜は、79,637人。習志野では15,000人を超えています。習志野では34名が死亡。
大津ではたった一人だったのでしょうか?
異国で病死することは、さぞ心細く、淋しかったことと思います。
また、死んでなお、たった一柱離れて葬られています。
しかも、途中から折れていて、あとで修理されていますね。
二重、三重に、気の毒に思えます。
「日露戦争と習志野」というサイトに詳しく紹介されています。
習志野市教育委員会のものです(↓)。
http://www.city.narashino.chiba.jp/siyakusyo/kyouiku/nichiro/index.html
予備知識のないまま、大津陸軍墓地に来て、ロシア人の墓を見つけた驚きはいまでも残っています。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775806
考えてみれば、不思議なことではありませんでした。
しかし、こうして生の墓を見ると深い思いに囚われます。
日本に輸送されたロシア人捕虜は、79,637人。習志野では15,000人を超えています。習志野では34名が死亡。
大津ではたった一人だったのでしょうか?
異国で病死することは、さぞ心細く、淋しかったことと思います。
また、死んでなお、たった一柱離れて葬られています。
しかも、途中から折れていて、あとで修理されていますね。
二重、三重に、気の毒に思えます。
ロシア人墓碑には「病死」と刻まれています。 ― 2007/09/21
露国第四狙撃連隊第三中隊列兵イワン・オシホフ・ドラトフスキー ― 2007/09/21
墓碑銘は、
「露国第四狙撃連隊第三中隊列兵イワン・オシホフ・ドラトフスキー」
となっています。
横の生年月日を見れば、1875年6月15日。
ロシア帝国は、革命までは旧い露暦を使っていました。
現行のものと、13日ほどずれるのです。
それを考慮しても、死亡時は29歳であることがわかります。
この若者は、いったいどういう人だったんでしょうね。
習志野教育委員会のサイトでは、捕虜で死亡した方の名前のリストを作成して公開しています。↓
http://www.city.narashino.chiba.jp/siyakusyo/kyouiku/nichiro/08.html
習志野で死亡された方のなかに、ドラトフスキー氏と同じ第四狙撃連隊の方は、2名いますね。
大津市では、記録として残していないのだろうか・・・?
「露国第四狙撃連隊第三中隊列兵イワン・オシホフ・ドラトフスキー」
となっています。
横の生年月日を見れば、1875年6月15日。
ロシア帝国は、革命までは旧い露暦を使っていました。
現行のものと、13日ほどずれるのです。
それを考慮しても、死亡時は29歳であることがわかります。
この若者は、いったいどういう人だったんでしょうね。
習志野教育委員会のサイトでは、捕虜で死亡した方の名前のリストを作成して公開しています。↓
http://www.city.narashino.chiba.jp/siyakusyo/kyouiku/nichiro/08.html
習志野で死亡された方のなかに、ドラトフスキー氏と同じ第四狙撃連隊の方は、2名いますね。
大津市では、記録として残していないのだろうか・・・?
どんな花になるんだろう? ― 2007/09/21
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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