お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「大坂鎮台(大津)歩兵第九連隊」の文字が刻まれた墓石2007/10/04

明治11年に大津営所で病死した兵(21歳)の墓碑
 旧大津陸軍墓地のKブロックは、同Lブロックと同様に、バイパス工事のために、移設された墓碑が並んでいます。
 その最後尾の一番左の5つが、最古の墓石だと思います。
いずれも、明治5(1872)年の4月以降に病没した大坂鎮台第一分営小浜第十八大隊の兵士の墓石でした。
 小浜の分営が火事で消失したために、同年に彦根城に移転し、そこ病没した20代前半の若者のお墓です。

 この五つの墓石の横に並んでいる墓石に注目しました。
もしかすると、その次に古いお墓かも知れません。

 明治11(1878)年4月29日に徴兵され、大坂鎮台大津第九連隊第二大隊に配属になり、同年9月22日に大津営所の病室で病没したと書かれています。21歳7ヶ月の若さでした。

確かに古いお墓ですが、
西南戦争(1877年)のあとに入営した方のものです。

Fブロックにある「明治八年」没の墓石2007/10/04

明治八年にできたばかりの大津営所で亡くなった兵の墓
たしかに、明治5年没の墓石が5つKブロックにありました。
それ以外を見比べると、KとLブロックにある墓石よりも、
Fブロックの墓石のほうが古いように思えるのです。

ちなみにFブロックは、移転せずにすんだ場所にありますから、
原型をとどめた箇所です。

摩滅している墓石のなかに、
「明治八年」という文字を見つけました。
これは、大阪鎮台第九連隊が建設されたばかりの大津営所へ
移転してきた年にあたります。
西南戦争のまえのことです。

ブログのカテゴリーについて2007/10/04

アサブロは、カエゴリーを100まで作ることができます。
しかし、それぞれが並立的ではなく、
ディレクトリーの下にサブディレクトリーがあるように、
重層的なカテゴリー構成にはできないものでしょうか。

たとえば、
 「生き物」の下位に、ネコ、イヌ、昆虫、魚、トリ
   その「トリ」の下位に、ムクドリ、ハト、ヤキトリ・・・。            

ブログは、きままに書き散らすことができますが、
後で系統的に読み直そうとしたら、大変。

順番も、日付で降順も昇順も選べるとか。

情報をもっと有用に
取り出せるようにならないものかと
思います。

ひとつのテーマで追跡していて、
それを跡で「あの記事はどこだっけ?」となったとき、
カテゴリーが有効だと思うのです。

検索機能はそういう意味でも必要。

いかがなものでしょうか?

大阪電通大に小田康徳教授を訪問2007/10/04

小田研究室があるE号館
「旧真田山陸軍墓地と保存を考える会」理事長の
小田康徳教授から、メールをいただいて、
お会いする約束をしていました。

私の休日である10月4日
午前10時30分に、寝屋川市にある研究室を訪ねました。

多くの有益なアドヴァイスをいただきましたが、
同時に、旧大津陸軍墓地の位置についても
知ることができました。

①大津陸軍墓地には、女性の墓碑がある。
 女性の墓碑のある陸軍墓地はほかにない。

②大津陸軍墓地には、十字架(キリスト教徒)のついた墓碑が
 あるが、他の陸軍墓地にはない。

できるだけ近い機会(土日)に、
旧大津陸軍墓地の見学会を実現することにしました。

旧真田山陸軍墓地を見学2007/10/04

 小田教授のご紹介で、「旧真田山陸軍墓地と保存を考える会」の吉岡武さんが案内していただけることになり、寝屋川から、大阪玉造にある旧真田山陸軍墓地に向かいました。
 上の写真は、その入り口。

 最古の陸軍墓地であると同時に、墓碑だけで6000近くある大きな墓地です。

NPO法人旧真田山陸軍墓地と保存を考える会2007/10/04

NPO法人旧真田山陸軍墓地と保存を考える会の建物
 10月4日に、小田教授や吉岡さんを訪問した目的は、陸軍墓地についての知識を深めることだけではありません。
 私が知りたいと思ったのは、「旧真田山陸軍墓地と保存を考える会」がどうして生まれ、どういう活動をしながら、どう発展しているかです。
 私が大津市で旧陸軍墓地を目の当たりにして、感じたことは、「ここを廃れるままにしてはならない」という思いでした。
 墓石は、年月を経て崩壊がはじまっています。
 そのまま推移すれば、ただの岩くれになってしまいます。人間の生きた証を示すものが消えていくのです。
 同時に、陸軍墓地はいまもそこにありながら、その存在が忘れ去られようとしています。
 モノとしても、記憶としても、消え去るがままにしていいのかという思いです。
 ですから、真田山の会が生まれ、保存への努力と市民が訪れる文化財として生かす活動が行われていることにおおいに激励されたのです。
 なんとかそれを自分のところでもできないかと思ったのです。
 
 吉岡さんは、自分のお店をおいてまで時間を割いていただきました。
そして、この建物に私を招きいれ、お話を聞かせていただきました。

 それは、通り一遍のものではありませんでした。
 この方と会の思いが伝わるものでした。

『当陸軍地を案内しています』の看板2007/10/04

入り口は入るとすぐ左手に
真田山陸軍墓地維持会の建物があります。

その前に、NPO旧真田山陸軍墓地と保存を考える会の看板。

市民にこの墓地の大切さを知らせよう熱意と親切さが
あふれています。

墓地ができる過程をしめすパネルや新聞記事などの展示2007/10/04

NPO旧真田山陸軍墓地と保存を考える会の建物。
中に入ると、40名以上が講義をうけることができるスペースがあります。
そこで説明会ができますね。
そこの左には、さらに別の部屋。
それがここです。

中には、パネル展示や資料などが置かれています。

ここで吉岡武さんのお話を聴きました。

吉岡さんは、「真田山陸軍墓地維持会常任理事」をされていますが、
同時に「空堀振興町会会長」をされています。つまり、仕事をもちながら、墓地の保存のために活動されているのです。

 戦争中は、疎開せず、この地で空襲とグラマン戦闘機の機銃掃射をあびるという体験をしたそうです。墓地も当然空爆を受けています。
 自分の身内がこの墓地に葬られているわけではありませんが、戦争で命を亡くしていった人たちの存在をしめす唯一の手がかりである墓地が、見捨てられ、荒廃していくことは許されないという思いから、活動を始めたそうです。
 まったく共感します。

 陸軍墓地の基礎知識と会の運動について丁寧に説明されました。

 お話のあと、実際に墓地を案内していただきました。
 お仕事をもってらっしゃるのに、恐縮しました。

5299以上の墓碑がならぶ真田山陸軍墓地2007/10/04

吉岡さんに案内していただきながら、墓地を歩きました。
(写真は吉岡さん)
これだけの墓地ですから、案内なしには、
その値打ちがわかるように回ることができないと思いました。

吉岡さんの案内は的確でわかりやすく、ときどき、
「それはなぜか?」と問題を問いかけて、
答えを教えていただくスタイルでした。

私が感動したのは、墓地を見て回る別の人が遠くに見えたときの
吉岡さんの態度です。

ひとりごとのように、「あ、いっしょに案内してあげればいいかな」
「もうすこしこっちにこられないかなぁ」と、気になる様子。
きっと、いつもそうして、来てもらっている人に声をかけて
あげているんでしょうね。

会の活動によって、確実に、訪問する人がふえているそうです。

真田山しかない軍役夫の墓碑群(Aブロック)2007/10/04

全国に80ほどつくられた陸軍墓地ですが、
旧真田山陸軍墓地しかない墓碑があります。
それが、軍役夫の墓碑です。
このAブロックには、934の軍役夫の墓石があります。

軍に所属しない民間人を雇って、輸送などの任務を行わせたのです。
日清戦争のときは、まだこの部門が不十分で
多くの軍役夫が必要でもありました。

・・・一つ一つ見て回って、驚くことがたくさんありました。
それは、墓碑の名称。
軍人ではありませんから、階級名はありません。
そのかわり、刻まれていたのは、具体的な役目でした。

具体的だけに、生々しさがあります。

その写真も撮ってきました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)