お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ぎんなん ― 2007/10/07
K氏を訪ねて: 「部屋ヶ谷」とは? ― 2007/10/07
故事に詳しいK氏に電話して、お会いできることになりました。
市役所で情報公開で手に入れた資料の第一ページが、
「部屋ヶ谷旧陸軍墓地地形略図」となっていたからです。
こんな地名は初めてききました。
まずは「部屋ヶ谷」について、たずねました。
●「部屋ヶ谷」という地名をご存知ですか?
部屋ヶ谷とは、そもそも古墳をさしていた。
(古墳に由来する名称だ)。
現在の陸軍墓地の上手には、古墳が多数あった。
石室があり、それに盛り土がされていた。
農業のために、その土を利用。
そのために、石室がむき出しになり、
農機具を入れる部屋として農民が利用していた。
●現在は?
千石台という団地の開発によって、ブルトーザーで
すべて破壊された。
(え!!)
●記憶で元の様子を描いてもらえますか?
上の写真がそれ。
丸に三角がそれ。その周りに家が散在。
市役所で情報公開で手に入れた資料の第一ページが、
「部屋ヶ谷旧陸軍墓地地形略図」となっていたからです。
こんな地名は初めてききました。
まずは「部屋ヶ谷」について、たずねました。
●「部屋ヶ谷」という地名をご存知ですか?
部屋ヶ谷とは、そもそも古墳をさしていた。
(古墳に由来する名称だ)。
現在の陸軍墓地の上手には、古墳が多数あった。
石室があり、それに盛り土がされていた。
農業のために、その土を利用。
そのために、石室がむき出しになり、
農機具を入れる部屋として農民が利用していた。
●現在は?
千石台という団地の開発によって、ブルトーザーで
すべて破壊された。
(え!!)
●記憶で元の様子を描いてもらえますか?
上の写真がそれ。
丸に三角がそれ。その周りに家が散在。
K氏を訪ねて:陸軍墓地と地域のかかわりは? ― 2007/10/07
「部屋ヶ谷」につづいて、「陸軍墓地」についてたずねました。
●陸軍墓地と地域のかかわりはありますか?
陸軍墓地は、バイパス開通のときに
一部が移設されたりしているが、
そのときでも、どのように変えるとか、
一切地域とは関係がなく行われている。
地域のほうから、陸軍墓地にかかわるということはなかった。
そもそも、軍の施設だから。
●戦前で陸軍墓地にかかわる思い出はありますか?
小学校三年生のときから、墓地の清掃をやらされた。
太平洋戦争以降だ。
終戦は、六年生のときなので、三年間だけ。
当時は、ロシアは敵国であり、さげすんでいたので、
たった一つある捕虜の墓に、おしっこをかけたり、
倒したり、侮辱的なことをしていた。
●ロシア兵士の墓について
ロシア兵士の墓は、土手のはしっこにあり、
草が生えたところにひっそりとおいてあった。
(地図を見せて現在の位置とちがうか確認)
ここ。今と同じところか。
ロシア兵士は、伏見の病院で亡くなって、ここに移された。
(この話は私は初耳)
●どんな風に陸軍墓地を見ていましたか?
まず陸軍というのが怖い存在だった。
監視人がいるわけではなかったけれど。
それに、下から上がっていくと木が茂っていて、暗くて
おまけにお墓だから、近づくこともなかった。
●十字架の入ったお墓があるのをご存知ですか?
ああ、知っている。
●女性の墓もありますね
え、どこですか
●バイパス工事が周りをすっかり変えましたね
そうそう、墓地は早尾神社にちかいところにあった。
今もそうだが、神社に行くには、山の中にわけいるようにして
行かなければならなかった。
いまは、むきだしのような状態だが。
●最後に協力を約束していただけました
Kさんは、わざわざ奥座敷に私を招きいれ、
丁寧に応対していただきました。
見学会のときにも、用事がなければ
参加していただけるそうです。
●陸軍墓地と地域のかかわりはありますか?
陸軍墓地は、バイパス開通のときに
一部が移設されたりしているが、
そのときでも、どのように変えるとか、
一切地域とは関係がなく行われている。
地域のほうから、陸軍墓地にかかわるということはなかった。
そもそも、軍の施設だから。
●戦前で陸軍墓地にかかわる思い出はありますか?
小学校三年生のときから、墓地の清掃をやらされた。
太平洋戦争以降だ。
終戦は、六年生のときなので、三年間だけ。
当時は、ロシアは敵国であり、さげすんでいたので、
たった一つある捕虜の墓に、おしっこをかけたり、
倒したり、侮辱的なことをしていた。
●ロシア兵士の墓について
ロシア兵士の墓は、土手のはしっこにあり、
草が生えたところにひっそりとおいてあった。
(地図を見せて現在の位置とちがうか確認)
ここ。今と同じところか。
ロシア兵士は、伏見の病院で亡くなって、ここに移された。
(この話は私は初耳)
●どんな風に陸軍墓地を見ていましたか?
まず陸軍というのが怖い存在だった。
監視人がいるわけではなかったけれど。
それに、下から上がっていくと木が茂っていて、暗くて
おまけにお墓だから、近づくこともなかった。
●十字架の入ったお墓があるのをご存知ですか?
ああ、知っている。
●女性の墓もありますね
え、どこですか
●バイパス工事が周りをすっかり変えましたね
そうそう、墓地は早尾神社にちかいところにあった。
今もそうだが、神社に行くには、山の中にわけいるようにして
行かなければならなかった。
いまは、むきだしのような状態だが。
●最後に協力を約束していただけました
Kさんは、わざわざ奥座敷に私を招きいれ、
丁寧に応対していただきました。
見学会のときにも、用事がなければ
参加していただけるそうです。
ピカソ展 ― 2007/10/07
京都の「えき」ビルでピカソ展がありました。
陶器が多数展示されていたのが特徴でした。
晩年のミノタウロスが出てくるエッチング(?)もありました。
最初は、人が多くて落ち着きませんでしたが、
それにもかかわらず、静かな雰囲気でしたので、
集中して見ることができました。
絵画だけではなく、いろんな分野に挑戦している姿が
具体的にわかって、よかったと思います。
女性関係はにぎやかな人だとあらためて
感心もしましたが。
しかし、ピカソ亡き後、夫人、元夫人(何番目の?)
が最後は自殺というのは、つらいことです。
そうそう、ポスターはシンプルな形でしたが、
展示の内容にあわせて作られているのが興味深かったです。
ドラクロアやマネ展などは、もととなった絵が有名なだけに、
ピカソ風アレンジが面白かったのです。
どのような年齢でもその気持ちがあれば、
新鮮さを保って生きられることを実感しました。
もう老いたのでというのは、死語にすべきかも。
陶器が多数展示されていたのが特徴でした。
晩年のミノタウロスが出てくるエッチング(?)もありました。
最初は、人が多くて落ち着きませんでしたが、
それにもかかわらず、静かな雰囲気でしたので、
集中して見ることができました。
絵画だけではなく、いろんな分野に挑戦している姿が
具体的にわかって、よかったと思います。
女性関係はにぎやかな人だとあらためて
感心もしましたが。
しかし、ピカソ亡き後、夫人、元夫人(何番目の?)
が最後は自殺というのは、つらいことです。
そうそう、ポスターはシンプルな形でしたが、
展示の内容にあわせて作られているのが興味深かったです。
ドラクロアやマネ展などは、もととなった絵が有名なだけに、
ピカソ風アレンジが面白かったのです。
どのような年齢でもその気持ちがあれば、
新鮮さを保って生きられることを実感しました。
もう老いたのでというのは、死語にすべきかも。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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