お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「第十八大隊」について ― 2007/10/10
●「歩兵第十八大隊」は、徴兵令発布前
そもそも明治6年以降には、
連隊のもとに3程度の大隊が所属しました。
たとえば、大津第九連隊第一大隊
第二大隊
第三大隊のように。
ですから、18という数字をもつ大隊は存在しません。
●昭和3年3月刊行の『滋賀県史』第四巻
《第五編 県治時代 第一章 明治初期 十一節 兵事》には、つぎのような記述があります。
第一項 徴兵令頒布前
明治四年八月東京・大阪・鎮西・東北の四鎮台を置き、常備兵として旧藩兵を召集して入営せしめた。十二月小浜第一分営焼失のため、仮に彦根に同営所を設け第十八大隊を置いた。これ徴兵令頒布以前のことで、壮兵即志願兵で編成せられ、同兵には除隊後猶二年間一人扶持を給せられたのであった。
(同72ページから)
●『滋賀県百年年表』(滋賀県 昭和46年3月刊)
これには、つぎのような記事が見える。
明治4年12月 歩兵十八大隊彦根城に駐屯
明治6年5月 彦根兵営所の歩兵十八大隊が伏見に移転
そもそも明治6年以降には、
連隊のもとに3程度の大隊が所属しました。
たとえば、大津第九連隊第一大隊
第二大隊
第三大隊のように。
ですから、18という数字をもつ大隊は存在しません。
●昭和3年3月刊行の『滋賀県史』第四巻
《第五編 県治時代 第一章 明治初期 十一節 兵事》には、つぎのような記述があります。
第一項 徴兵令頒布前
明治四年八月東京・大阪・鎮西・東北の四鎮台を置き、常備兵として旧藩兵を召集して入営せしめた。十二月小浜第一分営焼失のため、仮に彦根に同営所を設け第十八大隊を置いた。これ徴兵令頒布以前のことで、壮兵即志願兵で編成せられ、同兵には除隊後猶二年間一人扶持を給せられたのであった。
(同72ページから)
●『滋賀県百年年表』(滋賀県 昭和46年3月刊)
これには、つぎのような記事が見える。
明治4年12月 歩兵十八大隊彦根城に駐屯
明治6年5月 彦根兵営所の歩兵十八大隊が伏見に移転
彦根の「大洞陸軍埋葬地」とはなんだろう? ― 2007/10/10
●滋賀県百年年表にみつけだ記事
滋賀県が昭和46年に編纂した
『滋賀県百年年表』には、つぎのような記述がある。
《明治5(1872)年2月28日 彦根城は第4軍管、第9師管、工兵第4方面、第2?区(管区)の所管となる。このとき彦根城並びに大洞陸軍埋葬地、同火薬庫地の測量が行われる。》(8ページ)
●旧大津陸軍墓地との関係
旧大津陸軍墓地に彦根兵営所の「第一八大隊」の兵士の墓碑が5つある。すべて明治五(1872)年没である。
旧大津陸軍墓地が明治8(1875)年にできたと思われるので、それより先に大津で埋葬されるとは考えられない。
彦根のどこかに最初の埋葬地があったはずだと思う。
この「大洞陸軍埋葬地」がそれではないか?
●彦根市史
まずこの刊行物を探してみることにしたい。
滋賀県が昭和46年に編纂した
『滋賀県百年年表』には、つぎのような記述がある。
《明治5(1872)年2月28日 彦根城は第4軍管、第9師管、工兵第4方面、第2?区(管区)の所管となる。このとき彦根城並びに大洞陸軍埋葬地、同火薬庫地の測量が行われる。》(8ページ)
●旧大津陸軍墓地との関係
旧大津陸軍墓地に彦根兵営所の「第一八大隊」の兵士の墓碑が5つある。すべて明治五(1872)年没である。
旧大津陸軍墓地が明治8(1875)年にできたと思われるので、それより先に大津で埋葬されるとは考えられない。
彦根のどこかに最初の埋葬地があったはずだと思う。
この「大洞陸軍埋葬地」がそれではないか?
●彦根市史
まずこの刊行物を探してみることにしたい。
旧大津陸軍墓地が明治8(1875)年にできたという根拠 ― 2007/10/10
直接の文献は、まだ見つけていない。
しかし、『滋賀県百年年表』のつぎの記述はそれではないだろうか?
●明治7(1874)年9月24日
陸軍省大津営所、練兵場取設けのため別所、山上村のうち、18町5反歩を買上げる。一反56円33銭4厘の割。
現在の皇子山公園あたりの土地のはず。
そこに陸軍墓地も存在する。
*約18万平方メートルかな?
●明治8(1875)年3月10日
新兵営の大津営所に、大阪鎮台歩兵第九連隊移転
しかし、『滋賀県百年年表』のつぎの記述はそれではないだろうか?
●明治7(1874)年9月24日
陸軍省大津営所、練兵場取設けのため別所、山上村のうち、18町5反歩を買上げる。一反56円33銭4厘の割。
現在の皇子山公園あたりの土地のはず。
そこに陸軍墓地も存在する。
*約18万平方メートルかな?
●明治8(1875)年3月10日
新兵営の大津営所に、大阪鎮台歩兵第九連隊移転
大津陸軍墓地最初の墓碑=「舘 源左衛門」の墓(明治8年7月15日没) ― 2007/10/10
大津陸軍墓地最古の墓碑=「清水男外吉之墓」(明治5年4月27日没) ― 2007/10/10
ヒヨドリ ― 2007/10/10
近くの木にとまったヒヨドリ ― 2007/10/10
電信柱の上から鳴き声がします ― 2007/10/10
スズメのジャンプ! ― 2007/10/10
スズメのジャンプ先もまた電線 ― 2007/10/10
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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