お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
なぜ明治44年版大津市志は台湾征服戦争に寡黙なのか? ― 2007/10/21
旧大津陸軍墓地について書くのは、ひさしぶりの気がします。日露戦争の墓碑を探すことに熱中していたせいです。11月24日に、はじめての見学会をしますから、到達点をはっきりさせないといけませんね。原点にもどって、考えてみたいと思います。
●戦死者の墓石が林立するEブロック(上の写真)
この墓地で最大の部分は、私がEブロックとなづけた墓地です。そこには、日清戦争(正しくは、講和成立後、続けられた台湾征服戦争)の戦死者・戦病死者が葬られている場所です。
その数は、212柱。大津陸軍墓地の38%を占めています。
他の多数が眠るブロック(F、K、L)を見ると、戦死者の数よりも、戦争前後の病死者が多いのですが、ここは明確に戦死者です。
●他の兵の墓石のブロックには戦死者はまれ
明治初期から、日本は、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦とシベリア出兵、15年(第二次世界大戦)戦争と70年間、戦争をつづけてきました。
しかし、この墓地では、西南戦争の墓石は探すのが大変なくらい。日露戦争は、合葬碑以外には将校だけ、第一次大戦も、15年戦争も合葬碑だけのように思います。
KとLには、あわせて237柱の墓碑がありますが、明治11年から大正13年までの兵の墓碑があっても、戦争期間のものは見つかりません。
ですから、直接戦争と結びついているのは、このEブロックだけです。
(下士官についていえば、Bブロックも)
●歴史の記述がない
どころがです。
墓地で唯一の戦死者が集団でまつられいる事件についても、これらの犠牲者についても、明治44年の大津市志をはじめ、最近のものでも、記述があまりにも簡単です。
明治44年版は、日露戦争について、大きな部分をあてていて、事細かに書かれているのとは対照的です。
それは、なぜでしょうか?
台湾征服戦争、そのものの性格にあるのではないかと思うようになりました。
いわば、無視されたこれらの墓石に語ることが許されない事情があるのでしょうか。
●戦死者の墓石が林立するEブロック(上の写真)
この墓地で最大の部分は、私がEブロックとなづけた墓地です。そこには、日清戦争(正しくは、講和成立後、続けられた台湾征服戦争)の戦死者・戦病死者が葬られている場所です。
その数は、212柱。大津陸軍墓地の38%を占めています。
他の多数が眠るブロック(F、K、L)を見ると、戦死者の数よりも、戦争前後の病死者が多いのですが、ここは明確に戦死者です。
●他の兵の墓石のブロックには戦死者はまれ
明治初期から、日本は、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦とシベリア出兵、15年(第二次世界大戦)戦争と70年間、戦争をつづけてきました。
しかし、この墓地では、西南戦争の墓石は探すのが大変なくらい。日露戦争は、合葬碑以外には将校だけ、第一次大戦も、15年戦争も合葬碑だけのように思います。
KとLには、あわせて237柱の墓碑がありますが、明治11年から大正13年までの兵の墓碑があっても、戦争期間のものは見つかりません。
ですから、直接戦争と結びついているのは、このEブロックだけです。
(下士官についていえば、Bブロックも)
●歴史の記述がない
どころがです。
墓地で唯一の戦死者が集団でまつられいる事件についても、これらの犠牲者についても、明治44年の大津市志をはじめ、最近のものでも、記述があまりにも簡単です。
明治44年版は、日露戦争について、大きな部分をあてていて、事細かに書かれているのとは対照的です。
それは、なぜでしょうか?
台湾征服戦争、そのものの性格にあるのではないかと思うようになりました。
いわば、無視されたこれらの墓石に語ることが許されない事情があるのでしょうか。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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