お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

旅順要塞攻撃で戦死した陸軍歩兵少尉富永東一の墓石2007/10/21

旅順要塞攻撃で戦死した陸軍歩兵少尉富永東一の墓石
明治37年8月21日、旅順要塞のなかでも、もっとも
頑強な砲台である東冠山砲台への攻撃のなかで、
戦死された陸軍少尉の墓石です。

第三軍の乃木大将が旅順港要塞の攻撃を
はじめたのは、明治37(1904)年8月19日。
海軍重砲部隊は、これまでの歴史にない2日間
連続しての射撃を行いました。
そして、21日に陸軍歩兵部隊で攻撃を始めます。
第9師団は盤龍山砲台、第11師団は東冠山砲台。
しかし、ロシアの要塞の砲は2日間の砲撃で
破壊されていず、猛烈な射撃にあいます。
富永東一少尉は、この日に戦死したのです。

大津市の岡山墓地で永眠。

私が、日露戦争の記録を求めて、大津市の
民間墓地を歩いているのは、なぜか?
その直接の理由は、陸軍墓地にないからです。

陸軍墓地には、合葬碑が4基、そして、
将校の墓石が3基あるだけです。
たまたま、足を踏み入れた墓地で、
日露戦争の墓石を見つけました。
それだけで、胸に迫るものがありました。
それは、靖国神社の立場とはちがうものです。

靖国神社の遊就館は、
そのサイトでつぎのように述べています。

「近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し、英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにするのが遊就館のもつ使命であります。」

私は、戦死者を悼む気持ちは変わりません。
しかし、それは英霊として死後も祭り上げることには、
反対なのです。
「近代史の真実」は、侵略戦争を推進し、若者を
無残な死と「英霊」にした遊就館の誤った歴史観に
立ち向かってこそ、見えてくるものだと思います。

別保墓地2007/10/21

別保墓地の入り口
大津市の別保にある別保墓地。
この墓地には、杉浦重剛の墓石がある。
その他、戦死者の墓石がいたるところに見られる。
その大半は、15年戦争(第二次世界大戦)の
ものである。
しかし、日露戦争の戦死者の墓石もある。

富士見の生協が閉店するというので
見に行ったとき、その裏手がこの墓地だった。

別保墓地には日露戦争の墓石が二基あります2007/10/21

別保墓地には日露戦争の墓石が二基あります
別保墓地は、一号線の山手。
山に向かってせりあがる斜面にあります。
回りはすっかり住宅街。

日露戦争の戦死者の墓石は、
特徴的なものです。
表面が粗くなっている四角錘。
先はさらにとんがっています。
手前と、左手にあたまひとつ
でているのが、それです。

手前が藤本清三郎さんの墓石、
左手に頭がでているのが、佐々木松之助さんの墓石。

真ん中あたりに、杉浦重剛の墓。

なぜ明治44年版大津市志は台湾征服戦争に寡黙なのか?2007/10/21

大津陸軍墓地唯一の戦死者が並ぶ墓地
 旧大津陸軍墓地について書くのは、ひさしぶりの気がします。日露戦争の墓碑を探すことに熱中していたせいです。11月24日に、はじめての見学会をしますから、到達点をはっきりさせないといけませんね。原点にもどって、考えてみたいと思います。

●戦死者の墓石が林立するEブロック(上の写真)

 この墓地で最大の部分は、私がEブロックとなづけた墓地です。そこには、日清戦争(正しくは、講和成立後、続けられた台湾征服戦争)の戦死者・戦病死者が葬られている場所です。
 その数は、212柱。大津陸軍墓地の38%を占めています。
 他の多数が眠るブロック(F、K、L)を見ると、戦死者の数よりも、戦争前後の病死者が多いのですが、ここは明確に戦死者です。

●他の兵の墓石のブロックには戦死者はまれ

 明治初期から、日本は、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦とシベリア出兵、15年(第二次世界大戦)戦争と70年間、戦争をつづけてきました。
 しかし、この墓地では、西南戦争の墓石は探すのが大変なくらい。日露戦争は、合葬碑以外には将校だけ、第一次大戦も、15年戦争も合葬碑だけのように思います。
 KとLには、あわせて237柱の墓碑がありますが、明治11年から大正13年までの兵の墓碑があっても、戦争期間のものは見つかりません。
 ですから、直接戦争と結びついているのは、このEブロックだけです。
 (下士官についていえば、Bブロックも)

●歴史の記述がない

 どころがです。

 墓地で唯一の戦死者が集団でまつられいる事件についても、これらの犠牲者についても、明治44年の大津市志をはじめ、最近のものでも、記述があまりにも簡単です。
 明治44年版は、日露戦争について、大きな部分をあてていて、事細かに書かれているのとは対照的です。

 それは、なぜでしょうか?

 台湾征服戦争、そのものの性格にあるのではないかと思うようになりました。
 いわば、無視されたこれらの墓石に語ることが許されない事情があるのでしょうか。

日清戦争での第九連隊について明治44年大津市志が語ること2007/10/21

●明治44年版「大津市志」

それ以降の大津市史の記述も、基本的にこの域を超えていません。
第九連隊の活動を書いた文章は、わずか7行です。

『二十八(*1895)年三月二十八日出征の命あり屯営出発。同四月十三日宇品出帆。同月十六日奉天府大連湾に入り、同月二十二日清国柳樹屯に上陸す。然るに未だ戦に入らざるに休戦となり五月十日平和克服(*下関条約締結のこと)するに至り、それより遼東の守備に任ずること九ヶ月。同年十二月二十五日屯営に還る。然るに日を?すること僅か九日台湾匪賊討伐の為再び出征の命あり。翌年一月八日屯営を発し、同月八日宇品出帆。同十三日基隆に着す。爾来瘴風瘴雨の裡各地匪賊の掃討に従事し右碇街坪林尾石漕殺牛寮等に匪賊の集団を破る。七月一日守備隊と交代し、同月六日屯営に還る』

これだけです。

①狭義の日清戦争には参加していないこと。
   中国本土到着は、1895年4月22日。
②下関条約締結後は、遼東半島の守備。
   大津帰還は、1895年12月25日。
③台湾征服戦争
   ところが、わずか9日後には出征命令。
   1896年1月13日に台湾上陸。
   1896年7月1日に守備隊と交代。

オオオナモミ2007/10/21

オオオナモミ
舌をかみそうだが、オオオナモミ。
漢字で書くと、大葈耳。
とても読めない。
北米産の帰化植物。1929年に岡山で発見とある。

ひっつき虫の方が、正式名称に思える。

これはなに?5月末に撮影しました2007/10/21

これはなにでしょうか?
これは、その植物の種??
どこまでが本体なのか、
他の植物と茎が交じり合っていて
わかりませんでした。

これはなに?Ⅱ 同じく5月末に撮影2007/10/21

これはなんでしょうか?Ⅱ
見るからに、イネ科。
でも、ネットの図鑑では
合致するものを
私は見つけられませんでした。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)