お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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イタドリ2007/10/22

ド根性イタドリ・・・でもないか。
イタドリ。
漢字では、虎杖もしくは痛取。
「痛取」は素直に読める。
でも、「虎杖」からは、イタドリと読めるとは思えない。

茎をむいて、食べたことはよくあった。
細いのはだめで、できるだけ太いものを
選んで、むいて食べた。
そのとき、茎を折ったときに、
ポンという音がするのが、おいしいのだっけ?

写真のイタドリは、取って食べるには、
高すぎる位置にある。
周囲に仲間もいない。

よくコンクリートの穴に生えることができたと
感心してみていたら、排水溝のようだ。

秋空にトビが舞う2007/10/22

秋空にトビが舞う
空は青いけれど、雲が広がっている。
空気は澄んで、気持ちがいい。
正面のビルを見ると、ときどき、影がよぎる。
それは、はるか上空のトビの影。

夜、寒くなった。
長男のK君は一階の部屋から、
三階に移動することにした。
夏は1階は涼しいけれど、冬にかけては
寒くなるからだ。
深夜まで勉強すると、すこしこたえるように
なったのだ。

赤色が目にしみる2007/10/22

赤色が目にしみる
鮮やかな赤。
目にしみる。
食べたら、今度は
口にしみるだろうなぁ。

日常生活に刺激は必要。
それは、きっと赤い色をしていると思う。

イヌタデ(犬蓼)2007/10/22

イヌタデ(犬蓼)
イヌタデ(犬蓼)は、
なぜ、イヌタデと名前がついているのか?

あまり納得のいく説明がネット見つけられない。
ヤナギタデは食用だが、イヌタデは辛味がなく
それで、イヌタデとついたというのが、
より直接的な説明か。

役に立たない=イヌ用ってことなのか?

アカマンマとして知られているというけれど、
私は知らない。
赤飯としてままごとに使っていたのだという。
うちは、子どもは二人とも男。

雑草といわれる草花を撮りはじめて、
ピントの合わせ方が難しいと思った。
オートにすると、草が重なって生えているので、
好き勝手なところにピントがあう。
そことちがうねん!と思っても気が利かないので
マニアルにすると、近眼が邪魔をする。
ピントが合っているように見えるのに、
実際はそうじゃない!!

困った。

キレイなものには虫がつく2007/10/22

世の常ですかねぇ
遠くからキレイと思って近づけば、
そこには、しっかり虫がいる。

気がついて見回せば虫だらけ2007/10/22

花しか見えなかったけど、近づくと虫が・・・
キレイな花しか目に入らず、
近づいたら、虫がいた。
冷静になって、見渡せば
虫だらけ。1,2,3,4,5,6,7・・・
数えてどうするんだろう。

秋の湖岸の夕暮れ =これは西の方向です2007/10/22

琵琶湖の夕暮れ その1
すっかり、秋になってしまった。
夕暮れも、それらしくて。

秋の湖岸の夕暮れ =これは東方向2007/10/22

琵琶湖の夕暮れ その2
琵琶湖(南湖)の夕暮れです。
月まで見えますね。
トラディショナルな美意識で
抵抗はありますが、
まあ、キレイです。
虫はいないし。

日清戦争での第九連隊について昭和十七年版「大津市史」が語ること2007/10/22

 昭和17年4月1日発行の「大津市史」は、明治44年版よりも、日付などは詳しくなっていますが、基本的に、枠組みは変わりません。
 死者について触れることは、少ないのです。

第十一章 兵事

 明治二十七年征清の役起こるや十一月二十六日動員下令、十二月二日動員を完結した。十八日軍旗祭に併せて同連隊の管区滋賀・三重・京都・奈良の一府・三県有志者発起の出征予餞会を錬兵場に開き、長くも第四師団長白川宮殿下の御来臨を辱うし令旨を賜ふ。(中略)
翌二十八年三月二十四日師団は第二軍に編入せられて広島に集合の命を受け、連隊は二十八日屯営を発し、四月十一日宇品を解纜して愈々出征の途に上った。十六日大連に入り、二十二日柳樹屯に上陸したが、既に講和休戦となったので五月十七日第二軍の戦闘序列を解かれ、師団は遼東半島守備の命を受けて、爾来連隊は海城その他に駐屯すること九ヶ月で、同年十二月凱旋の命に接して宿営地を発し、連隊(第二中隊員)は十二月二十五日衛戌地に帰り、同三十日第二中隊帰営して茲に出征の事は全く終わった。
 然るに凱旋後未だ日を経ざるに二十九年一月四日台湾匪徒討伐の命を受け、大久保混成旅団長の隷下に属して一月七日屯営出発、八日宇品出帆、同十三日台湾基隆港に上陸して石碇街・坪林尾・石漕・殺牛察等の匪徒を掃蕩し、七月より十一月に亘り凱旋した。

以上、中巻 889~890ページ

若干、細目にわたる程度で、戦死者・戦病死者について語ることはない。
旧大津陸軍墓地のEブロックにある200を超える墓碑について言及がないのである。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)