お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
日清戦争での第九連隊について昭和十七年版「大津市史」が語ること ― 2007/10/22
昭和17年4月1日発行の「大津市史」は、明治44年版よりも、日付などは詳しくなっていますが、基本的に、枠組みは変わりません。
死者について触れることは、少ないのです。
第十一章 兵事
明治二十七年征清の役起こるや十一月二十六日動員下令、十二月二日動員を完結した。十八日軍旗祭に併せて同連隊の管区滋賀・三重・京都・奈良の一府・三県有志者発起の出征予餞会を錬兵場に開き、長くも第四師団長白川宮殿下の御来臨を辱うし令旨を賜ふ。(中略)
翌二十八年三月二十四日師団は第二軍に編入せられて広島に集合の命を受け、連隊は二十八日屯営を発し、四月十一日宇品を解纜して愈々出征の途に上った。十六日大連に入り、二十二日柳樹屯に上陸したが、既に講和休戦となったので五月十七日第二軍の戦闘序列を解かれ、師団は遼東半島守備の命を受けて、爾来連隊は海城その他に駐屯すること九ヶ月で、同年十二月凱旋の命に接して宿営地を発し、連隊(第二中隊員)は十二月二十五日衛戌地に帰り、同三十日第二中隊帰営して茲に出征の事は全く終わった。
然るに凱旋後未だ日を経ざるに二十九年一月四日台湾匪徒討伐の命を受け、大久保混成旅団長の隷下に属して一月七日屯営出発、八日宇品出帆、同十三日台湾基隆港に上陸して石碇街・坪林尾・石漕・殺牛察等の匪徒を掃蕩し、七月より十一月に亘り凱旋した。
以上、中巻 889~890ページ
若干、細目にわたる程度で、戦死者・戦病死者について語ることはない。
旧大津陸軍墓地のEブロックにある200を超える墓碑について言及がないのである。
死者について触れることは、少ないのです。
第十一章 兵事
明治二十七年征清の役起こるや十一月二十六日動員下令、十二月二日動員を完結した。十八日軍旗祭に併せて同連隊の管区滋賀・三重・京都・奈良の一府・三県有志者発起の出征予餞会を錬兵場に開き、長くも第四師団長白川宮殿下の御来臨を辱うし令旨を賜ふ。(中略)
翌二十八年三月二十四日師団は第二軍に編入せられて広島に集合の命を受け、連隊は二十八日屯営を発し、四月十一日宇品を解纜して愈々出征の途に上った。十六日大連に入り、二十二日柳樹屯に上陸したが、既に講和休戦となったので五月十七日第二軍の戦闘序列を解かれ、師団は遼東半島守備の命を受けて、爾来連隊は海城その他に駐屯すること九ヶ月で、同年十二月凱旋の命に接して宿営地を発し、連隊(第二中隊員)は十二月二十五日衛戌地に帰り、同三十日第二中隊帰営して茲に出征の事は全く終わった。
然るに凱旋後未だ日を経ざるに二十九年一月四日台湾匪徒討伐の命を受け、大久保混成旅団長の隷下に属して一月七日屯営出発、八日宇品出帆、同十三日台湾基隆港に上陸して石碇街・坪林尾・石漕・殺牛察等の匪徒を掃蕩し、七月より十一月に亘り凱旋した。
以上、中巻 889~890ページ
若干、細目にわたる程度で、戦死者・戦病死者について語ることはない。
旧大津陸軍墓地のEブロックにある200を超える墓碑について言及がないのである。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/10/22/1866106/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。