お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
墓碑が語らない兵士の死因を求めて ― 2007/10/24
旧大津陸軍墓地のEブロックは、陸軍歩兵第九連隊の日清戦争期間(1894~96)に亡くなった兵士の墓石であることがわかっています。
死亡年月日と死亡場所は(いくつかの例外を除けば)墓石に刻まれています。
それらをたどると、つぎのことがわかりました。
①明治28(1895)年大津市を出征(3月28日)して、広島の宇品港を出港(4月11日)するまでに亡くなった兵士の墓石があること、
②宇品から遼東半島の柳樹屯に上陸(4月22日)するまでに亡くなった兵士の墓石があること、
③遼東半島に着いたときには、休戦協定が締結されていて、いわゆる日清戦争そのものの戦闘には参加していないこと
などです。
その後、台湾征服戦争(1896年)に動員されますが、その期間の墓石はわずか2基。全部で、206(1期は日清戦争とは無縁の士官候補生の墓石)あるうちの204の死亡原因は、少なくとも正規の戦闘ではないことになります。
では、なにが死亡原因なんでしょうか?
推察は可能です。つまり、病死。
しかし、それを証明することはできるでしょうか?
証明はできませんが、資料があることに気がつきました。
●明治44年版「大津市志」
これには、陸軍歩兵第九連隊に所属した兵士で、西南戦争、日清戦争、日露戦争で死亡した大津出身のものの名前、生年月日、階級、死亡年月日、死亡原因などが書かれています。
私は、これを見て、旧大津市内の民間墓地に、それらの方の墓石があるのを見つけました。
日清戦争の場合は、民間墓地に墓石を(たった一つの例外を除いて)見つけることができていません。
それは、第九連隊に限っては、陸軍墓地にあると思います。
陸軍墓地のEブロックに眠る兵士の墓碑銘と明治44年版の「大津市志」を見比べて、該当する人がいれば、その人の死因はわかるわけです。
死亡年月日と死亡場所は(いくつかの例外を除けば)墓石に刻まれています。
それらをたどると、つぎのことがわかりました。
①明治28(1895)年大津市を出征(3月28日)して、広島の宇品港を出港(4月11日)するまでに亡くなった兵士の墓石があること、
②宇品から遼東半島の柳樹屯に上陸(4月22日)するまでに亡くなった兵士の墓石があること、
③遼東半島に着いたときには、休戦協定が締結されていて、いわゆる日清戦争そのものの戦闘には参加していないこと
などです。
その後、台湾征服戦争(1896年)に動員されますが、その期間の墓石はわずか2基。全部で、206(1期は日清戦争とは無縁の士官候補生の墓石)あるうちの204の死亡原因は、少なくとも正規の戦闘ではないことになります。
では、なにが死亡原因なんでしょうか?
推察は可能です。つまり、病死。
しかし、それを証明することはできるでしょうか?
証明はできませんが、資料があることに気がつきました。
●明治44年版「大津市志」
これには、陸軍歩兵第九連隊に所属した兵士で、西南戦争、日清戦争、日露戦争で死亡した大津出身のものの名前、生年月日、階級、死亡年月日、死亡原因などが書かれています。
私は、これを見て、旧大津市内の民間墓地に、それらの方の墓石があるのを見つけました。
日清戦争の場合は、民間墓地に墓石を(たった一つの例外を除いて)見つけることができていません。
それは、第九連隊に限っては、陸軍墓地にあると思います。
陸軍墓地のEブロックに眠る兵士の墓碑銘と明治44年版の「大津市志」を見比べて、該当する人がいれば、その人の死因はわかるわけです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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