お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
守屋武昌・前防衛事務次官の証人喚問を視る ― 2007/10/29
10月29日。
衆議院テロ防止特別委員会で、守屋武昌・前防衛事務次官の証人喚問があり、職場で手を止めて、見ることにした。
財界、政治家、軍隊の癒着関係にどれだけメスが入るのか、注目された。肝心なところでは、記憶喪失になるらしい。
守屋氏は、自衛隊のトップとして、倫理規定をつくり、守る立場にある。だが、自分は別物であって(それが特権意識)、守る気がない。
そこに、腐敗の根がある。
常識とかけはなれた特権的な地位と感覚が、画面から、のうのうと漂ってくる。腹立たしい。
国民の税金を分け取りして、私服を肥やす・・・トップ中のトップがそれであるならば、この軍隊は、国民を守ると真顔でいえるのか。
衆議院テロ防止特別委員会で、守屋武昌・前防衛事務次官の証人喚問があり、職場で手を止めて、見ることにした。
財界、政治家、軍隊の癒着関係にどれだけメスが入るのか、注目された。肝心なところでは、記憶喪失になるらしい。
守屋氏は、自衛隊のトップとして、倫理規定をつくり、守る立場にある。だが、自分は別物であって(それが特権意識)、守る気がない。
そこに、腐敗の根がある。
常識とかけはなれた特権的な地位と感覚が、画面から、のうのうと漂ってくる。腹立たしい。
国民の税金を分け取りして、私服を肥やす・・・トップ中のトップがそれであるならば、この軍隊は、国民を守ると真顔でいえるのか。
月下美人が咲いたら電話します ― 2007/10/29
午後、歩いて郵便局へ行く途中に、知り合いのスーパー「きょぉえ~」を通りがかった。社長がいる表のお店の前に、不気味な実(つぼみ?)をもつ植物が鉢植えになっていた。これがなにかを聞こうと、お店を見ると、ちょうど、守屋元事務次官の証人喚問がはじまったばかりだった。
郵便局への用事を後回しにして、お店に上がりこんで、TVを見させてもらった。少しだけ見て、つづきは、歩きながらワンセグで聴くことにした。
そのとき、表の植物を思い出した。
「表の不気味なものはなにですか?」
「月下美人。去年は、ひとつだけだったけど、
今年ががんばっている。三つついた。」
「いつ咲くの?」
「三日後ぐらいかな」
「何時ぐらい?」
「夜の9時半かな。
見たい?」
「見たいです」
「じゃあ、ケータイ番号おしえて。
電話するから。
他にも何人もいるから」
というところで、三日後には、月下美人の花を
アップできると思います。
郵便局への用事を後回しにして、お店に上がりこんで、TVを見させてもらった。少しだけ見て、つづきは、歩きながらワンセグで聴くことにした。
そのとき、表の植物を思い出した。
「表の不気味なものはなにですか?」
「月下美人。去年は、ひとつだけだったけど、
今年ががんばっている。三つついた。」
「いつ咲くの?」
「三日後ぐらいかな」
「何時ぐらい?」
「夜の9時半かな。
見たい?」
「見たいです」
「じゃあ、ケータイ番号おしえて。
電話するから。
他にも何人もいるから」
というところで、三日後には、月下美人の花を
アップできると思います。
情けない格好のトリがいました ― 2007/10/29
飛ぶよりさまになりますね、きっと、このトリ ― 2007/10/29
群れをなして飛び交うムクドリ ― 2007/10/29
『日露戦争下の日本 ハーグ条約の命ずるままにロシア軍人捕虜の妻の日記』(エリザ・Я・シドモア) ― 2007/10/29
インターネット上で、松山市に日露戦争のロシア人捕虜たちが多数収容されていたことを知りました。それほど、私は、この戦争に無知だったといえます。ロシア語科出身でもあり、近所に、「露国皇太子遭難の碑」が建っているわけですから、もう少し詳しくてもいいはずなんですが。
それはともかく、ロシア人捕虜の妻の立場から書かれたものは、それだけでも読んでみたいと思いました。
この本を偶然本屋で見つけて、買いました。
『日露戦争下の日本』(新人物往来社2005年)
副題が、
「ハーグ条約の命ずるままに
ロシア軍人捕虜の妻の日記」
本の帯には、訳者のまえがきからの引用があります。
それは、この本への導入としては、いいんじゃないかと思います。
『日露戦争のさなか、出征したひとりのロシア人外交官が、中国東北地方で重傷を負い捕虜となって四国・松山へ送られた。その通知を受けた夫人が、夫の看病のためにヨーロッパ経由で交戦中の日本に渡った。夫婦は終戦後の1905年12月に松山を去るが、彼女がロシアを出発して以来の約一年半の出来事を日記風にまとめたのが、この物語である。』
なにか、19世紀のデカブリストの妻を思い出します。
ロシア最初の革命運動といわれたデカブリストの反乱。それを行った将校の妻は、シベリア流刑となった夫のもとへ旅をするのです。
流し読みをしましたが、とても、興味深いです。
それはともかく、ロシア人捕虜の妻の立場から書かれたものは、それだけでも読んでみたいと思いました。
この本を偶然本屋で見つけて、買いました。
『日露戦争下の日本』(新人物往来社2005年)
副題が、
「ハーグ条約の命ずるままに
ロシア軍人捕虜の妻の日記」
本の帯には、訳者のまえがきからの引用があります。
それは、この本への導入としては、いいんじゃないかと思います。
『日露戦争のさなか、出征したひとりのロシア人外交官が、中国東北地方で重傷を負い捕虜となって四国・松山へ送られた。その通知を受けた夫人が、夫の看病のためにヨーロッパ経由で交戦中の日本に渡った。夫婦は終戦後の1905年12月に松山を去るが、彼女がロシアを出発して以来の約一年半の出来事を日記風にまとめたのが、この物語である。』
なにか、19世紀のデカブリストの妻を思い出します。
ロシア最初の革命運動といわれたデカブリストの反乱。それを行った将校の妻は、シベリア流刑となった夫のもとへ旅をするのです。
流し読みをしましたが、とても、興味深いです。
『日本人と戦争 -歴史としての戦争体験-』大濱徹也著 ― 2007/10/29
私がいま、仕事を離れたところで、日常的に目を通している本は、『陸軍墓地がかたる日本の戦争』(小田康徳他編著)です。それは、自分がやっている作業(旧大津陸軍墓地を調査する)に、もっとも寄り添った内容だという理由は、たしかにあります。
しかし、それは、調査用マニュアルという実用的な観点ではなく、戦争の遺跡・記録に立ち向かう観点に、共鳴するからです。
たとえば、
『わたくしたちは、近代日本の軍隊や戦争を、国民皆兵の名の下、徴兵制度によってそれを担わされた一人ひとりの兵士や将校・下士官・軍役夫あるいは外国人俘虜などとの関係のなかでも考察するべきではないかと考えている。すなわち、近代の軍隊は国家によって国民軍であるとされたものであるが、そうであるとするならば、いっそう「国民」の視点に立った認識の深化が求められているのではないかと考えるからである。』
難しい言葉ですが、兵士となることを求められた一人ひとりの国民の側から軍隊と戦争を見つめなおそうということだと理解しています。
それは、私が、旧大津陸軍墓地で、心にわいた感情を表現すれば、こういうものになると思うのです。
この二日間、実務的な作業(原状復帰のための名簿づくり)をしていて、かなり、気持ちが乾いてきました。そんなとき、原点を確認させてくれる本は、とてもありがたいのです。
そういう本に、連続して二冊出会いました。
その、ひとつが、
大濱徹也著
『日本人と戦争 -歴史としての戦争体験-』
です。
この方は、歴史家というリアリストであると同時に、文学者であり、宗教者でもあるような気がします。
その立場を述べているのは、次の部分です。
『思うに戦後日本は、歴史を旅することもせず、歴史を断罪してことたれりとする風潮に流されてきました。それだけに私は、現在あらためて歴史を生きるべく、時代の闇を問い質したく思います。その思いは、亡びを全身で受けとめ、生きる場を確保するとき初めて見えてくる、歴史の地平にはせる眼にほかなりません。』
「あらためて歴史を生きる」というのは、公式の歴史では省みられることが少ない庶民の立場にたって、追体験するということだと思います。
それだけに、そういう国民的体験をききとり、残し、発掘する作業が欠かせませんん。
この本に出てくるリアルな苦難や戦争の実相は、戦争というものを対象にしようとする者に、求められる峻厳さを教えています。
墓碑の順番などが目的ではなく、その奥にあるもの、その苦難、声に心をよせなさいと、私に求めている気がしました。
墓碑や記念碑、地域史など、重なるものも多く参考になりました。
しかし、それは、調査用マニュアルという実用的な観点ではなく、戦争の遺跡・記録に立ち向かう観点に、共鳴するからです。
たとえば、
『わたくしたちは、近代日本の軍隊や戦争を、国民皆兵の名の下、徴兵制度によってそれを担わされた一人ひとりの兵士や将校・下士官・軍役夫あるいは外国人俘虜などとの関係のなかでも考察するべきではないかと考えている。すなわち、近代の軍隊は国家によって国民軍であるとされたものであるが、そうであるとするならば、いっそう「国民」の視点に立った認識の深化が求められているのではないかと考えるからである。』
難しい言葉ですが、兵士となることを求められた一人ひとりの国民の側から軍隊と戦争を見つめなおそうということだと理解しています。
それは、私が、旧大津陸軍墓地で、心にわいた感情を表現すれば、こういうものになると思うのです。
この二日間、実務的な作業(原状復帰のための名簿づくり)をしていて、かなり、気持ちが乾いてきました。そんなとき、原点を確認させてくれる本は、とてもありがたいのです。
そういう本に、連続して二冊出会いました。
その、ひとつが、
大濱徹也著
『日本人と戦争 -歴史としての戦争体験-』
です。
この方は、歴史家というリアリストであると同時に、文学者であり、宗教者でもあるような気がします。
その立場を述べているのは、次の部分です。
『思うに戦後日本は、歴史を旅することもせず、歴史を断罪してことたれりとする風潮に流されてきました。それだけに私は、現在あらためて歴史を生きるべく、時代の闇を問い質したく思います。その思いは、亡びを全身で受けとめ、生きる場を確保するとき初めて見えてくる、歴史の地平にはせる眼にほかなりません。』
「あらためて歴史を生きる」というのは、公式の歴史では省みられることが少ない庶民の立場にたって、追体験するということだと思います。
それだけに、そういう国民的体験をききとり、残し、発掘する作業が欠かせませんん。
この本に出てくるリアルな苦難や戦争の実相は、戦争というものを対象にしようとする者に、求められる峻厳さを教えています。
墓碑の順番などが目的ではなく、その奥にあるもの、その苦難、声に心をよせなさいと、私に求めている気がしました。
墓碑や記念碑、地域史など、重なるものも多く参考になりました。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント