お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
原資料から様々な事実がわかってきます@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/04
国立公文書館アジア歴史センターのサイトで、調べていると、これまで状況証拠から、推論していたことが、覆ったり、確認されたりしていきます。それはそれで、興味深いものがあります。
●「大津営所埋葬地」
名称も、明治10年当時では、「大津営所埋葬地」。
明治30年では、「大津埋葬地」となっています。
●土地購入
明治10年と明治30年に敷地を拡大していることがわかります。
●「大津営所埋葬地」
名称も、明治10年当時では、「大津営所埋葬地」。
明治30年では、「大津埋葬地」となっています。
●土地購入
明治10年と明治30年に敷地を拡大していることがわかります。
大阪鎮台敦賀県下暴動鎮圧ノ為メ兵ヲ同地ニ出スヲ稟ス(明治06年03月19日) ― 2007/11/04
大阪鎮台彦根営所官員並ニ歩兵第十八大隊ヲ伏水ヘ移転ス(明治06年04月28日) ― 2007/11/04
移葬の件(第四師団経理部長横幕直好 明治40年8月2日) ― 2007/11/04
かまぼこ形の墓碑に注目@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/04
旧大津陸軍墓地には、かまぼこ形の墓碑が、
Aブロックで3基、
Kブロックでは5基あります。
●Kブロックの5基
これは、碑文から、第十八大隊の兵の墓碑が
彦根から移設されたものだと
推察することができます。
1976年のバイパス工事のときの資料で
判明した当初の埋葬位置からも
確認できますし、その年代も推測できます
●Aブロックの3基
Aブロックの大きな田中忠孝中尉は、
碑文から、経歴がわかります。
残るのは、南保一義大尉の墓碑と
読み取り困難な墓碑の2基です。
(上の写真。右が南保一義大尉の墓碑、
その左が不明の墓碑)
私は、不明の2基が、兵の5基と同時に、
彦根から移設されたものだと考えました。
それは、11月4日に観察して得た直感です。
墓碑文から裏付けようと、
昨日から読み取る作業を始めました。
●裏付ける証拠がでてきた
しかし、本日、アジア歴史資料センターに文書のなかで、
「南保一義大尉」の名前を見つけることができました。
同時に、それは、かまぼこ型の兵の墓碑5柱ともども、
彦根からの移葬を裏付けるものでした。
●不明はあと一柱
ですから、不明はあと一柱です。
昨日の午前の調査で、複数の面に
文字が刻まれていることがわかりました。
Aブロックで3基、
Kブロックでは5基あります。
●Kブロックの5基
これは、碑文から、第十八大隊の兵の墓碑が
彦根から移設されたものだと
推察することができます。
1976年のバイパス工事のときの資料で
判明した当初の埋葬位置からも
確認できますし、その年代も推測できます
●Aブロックの3基
Aブロックの大きな田中忠孝中尉は、
碑文から、経歴がわかります。
残るのは、南保一義大尉の墓碑と
読み取り困難な墓碑の2基です。
(上の写真。右が南保一義大尉の墓碑、
その左が不明の墓碑)
私は、不明の2基が、兵の5基と同時に、
彦根から移設されたものだと考えました。
それは、11月4日に観察して得た直感です。
墓碑文から裏付けようと、
昨日から読み取る作業を始めました。
●裏付ける証拠がでてきた
しかし、本日、アジア歴史資料センターに文書のなかで、
「南保一義大尉」の名前を見つけることができました。
同時に、それは、かまぼこ型の兵の墓碑5柱ともども、
彦根からの移葬を裏付けるものでした。
●不明はあと一柱
ですから、不明はあと一柱です。
昨日の午前の調査で、複数の面に
文字が刻まれていることがわかりました。
陸軍埋葬地ナキ場所ニ於テ葬儀取扱方ヲ候ス(名古屋鎮台明治07年06月26日) ― 2007/11/04
埋葬地取調派出の伺(陸軍省明治11年4月) ― 2007/11/04
内務滋賀県下埋葬地受領の義照会(陸軍省明治15年7月25日) ― 2007/11/04
軍人墓標修繕の伺(陸軍省明治16年10月29日) ― 2007/11/04
メジロでしょうね。 ― 2007/11/04
月下美人が夜咲く姿を撮ることができませんでした。せっかく深夜と早朝に、M社長がケータイに電話していただいていたのに、爆睡していました。おわび方々、お昼に会いに行きました。その途中に、いろんな花が咲いている場所があり、それを撮るつもりでした。しかし、見上げる空から、鳴き声が聞こえてきます。しかも、やめる気配がありません。狭い道の途中で、仕方なく(?)、レンズを入れ替えて、撮ることにしました。なんか催促されているみたいでした。私の横を女性が通過していきましたが、足音をひそめて・・・トリを撮っているのがわかったみたいですね。でも、気を使っていただくほどのこともないのですが。小さすぎて見えません。ズームで撮ってさらに拡大。これは、メジロでしょうね。でも、もう一種類いますよ。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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