お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
モンシロチョウ ― 2007/11/08
大阪鎮台各隊ノ称号ヲ改ム(陸軍省 明治07年05月14日) ― 2007/11/08
壮兵解除取扱伺 ― 2007/11/08
臨時陸軍建築部より大津衛戍病院敷地買収の件(内務大臣伯爵板垣退助 明治29年7月11日) ― 2007/11/08
19歳で亡くなった士族出身の陸軍歩兵伍長・生田高基(1875年10月20日没)の墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/08
旧大津陸軍墓地の最古の墓地は、Fブロック。
明治8(1875)年から同10(1877)年に亡くなった兵卒・下士官の墓碑が37柱並んでいます。
そのうちのいくつかの碑文は、かなり読み取ることが可能です。
●士族出身の生田高基・伍長の墓石
これは、陸軍歩兵伍長・生田高基という方の墓碑。
士族で、武蔵の国の出身
安政3(1856)年4月15日の生まれ。
明治6(1873)年6月2日に応徴。
大阪鎮台第四大隊に入り、
第九連隊第二大隊の伍長に昇進。
しかし、明治8(1875)年10月20日には大津営所で病死。
これを読めば、生田高基は、若干17歳で陸軍に入り、19歳で亡くなっていることがわかります。
大阪鎮台は、明治4(1871)年8月に4鎮台(東京・大阪・鎮西・東北)の一つとして設置されます。大阪鎮台の管轄領域は、名古屋や中国地方をカヴァーするものでした。滋賀県は、大阪鎮台の小浜小営の管轄下となります。明治6年1月に徴兵令が出されますが、実際の徴兵は明治7年から。当初は、生田高基がそうであるように、「壮兵」と呼ばれる士族の志願兵から編成します。明治6年9月に壮兵をもって、いくつかの大隊が作られます。第四大隊はその一つです。これは、明治8年に第十連隊第一大隊と改称します。
大津に駐屯することになるのは、第九連隊。これは、大阪鎮台第五大隊(壮兵)をもって、第九連隊第一大隊とし、明治7年の新徴兵をもって第二大隊を編成し、同年5月に発足するのです。生田高基は、かつて所属した第四大隊から、第九連隊の徴兵からなる第二大隊の伍長に昇給して、明治8(1875)年3月8日に、大津にやってくるのです。
第九連隊の壮兵からなる第一大隊は、明治8年4月に解散。第二大隊が分割され、第一大隊、第二大隊となります。佐賀の乱や西南戦争にむかう時期です。士族出身者の反乱を恐れたのでしょう。
士族出身でありながら、生田高基伍長は、その後も、第九連隊に所属し、同年10月20日病死。
明治8(1875)年から同10(1877)年に亡くなった兵卒・下士官の墓碑が37柱並んでいます。
そのうちのいくつかの碑文は、かなり読み取ることが可能です。
●士族出身の生田高基・伍長の墓石
これは、陸軍歩兵伍長・生田高基という方の墓碑。
士族で、武蔵の国の出身
安政3(1856)年4月15日の生まれ。
明治6(1873)年6月2日に応徴。
大阪鎮台第四大隊に入り、
第九連隊第二大隊の伍長に昇進。
しかし、明治8(1875)年10月20日には大津営所で病死。
これを読めば、生田高基は、若干17歳で陸軍に入り、19歳で亡くなっていることがわかります。
大阪鎮台は、明治4(1871)年8月に4鎮台(東京・大阪・鎮西・東北)の一つとして設置されます。大阪鎮台の管轄領域は、名古屋や中国地方をカヴァーするものでした。滋賀県は、大阪鎮台の小浜小営の管轄下となります。明治6年1月に徴兵令が出されますが、実際の徴兵は明治7年から。当初は、生田高基がそうであるように、「壮兵」と呼ばれる士族の志願兵から編成します。明治6年9月に壮兵をもって、いくつかの大隊が作られます。第四大隊はその一つです。これは、明治8年に第十連隊第一大隊と改称します。
大津に駐屯することになるのは、第九連隊。これは、大阪鎮台第五大隊(壮兵)をもって、第九連隊第一大隊とし、明治7年の新徴兵をもって第二大隊を編成し、同年5月に発足するのです。生田高基は、かつて所属した第四大隊から、第九連隊の徴兵からなる第二大隊の伍長に昇給して、明治8(1875)年3月8日に、大津にやってくるのです。
第九連隊の壮兵からなる第一大隊は、明治8年4月に解散。第二大隊が分割され、第一大隊、第二大隊となります。佐賀の乱や西南戦争にむかう時期です。士族出身者の反乱を恐れたのでしょう。
士族出身でありながら、生田高基伍長は、その後も、第九連隊に所属し、同年10月20日病死。
西南戦争の前年(1876年)に亡くなった21歳生兵・村田良助の墓石@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/08
旧大津陸軍墓地の最古の墓地であるFブロック。
下士官の墓石が、3基。残りの34基は兵のものです。
●生兵・村田良助の墓石
この墓石の正面は、「村田良助之墓」とだけ刻んであります。
左側面には経歴が記されています。それを読むと、この人が兵としての訓練中(正式の階級をもたないのが「生兵」)に病没したことがわかります。
生まれは、三重県の伊勢。安政2(1855)年3月12日。
明治9(1876)年4月28日応徴。
大阪鎮台第九連隊第弐大隊生兵。
明治9(1876)年11月18日大津営所で病没。21歳と8ヶ月。
先の生田伍長と異なり、壮兵(志願兵)ではなく、徴兵制度によって召集された兵です。大津営所に来て、わずか数ヶ月で兵となることなく病没しているのです。
下士官の墓石が、3基。残りの34基は兵のものです。
●生兵・村田良助の墓石
この墓石の正面は、「村田良助之墓」とだけ刻んであります。
左側面には経歴が記されています。それを読むと、この人が兵としての訓練中(正式の階級をもたないのが「生兵」)に病没したことがわかります。
生まれは、三重県の伊勢。安政2(1855)年3月12日。
明治9(1876)年4月28日応徴。
大阪鎮台第九連隊第弐大隊生兵。
明治9(1876)年11月18日大津営所で病没。21歳と8ヶ月。
先の生田伍長と異なり、壮兵(志願兵)ではなく、徴兵制度によって召集された兵です。大津営所に来て、わずか数ヶ月で兵となることなく病没しているのです。
西南戦争(1877年)の後備歩兵として召集され病没した士族出身の25歳歩兵二等卒・柴田久次郎の墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/08
旧大津陸軍墓地で最古の墓碑が集まるFブロック。そこには、明治8(1875)年から明治10(1877)年にかけて病没した下士官・兵卒の墓碑が37柱並んでいます。
●後備歩兵・二等卒 柴田久次郎の墓碑
この墓碑は、後備歩兵の墓碑です。徴兵されて、二年は現役。三年目から予備役になるそうです。戦時には、この予備役から臨時召集されて、戦地に赴くか、留守番となるのです。
柴田久次郎は、和歌山県出身。士族。明治10(1877)年3月に臨時召集され、大阪鎮台後備第五大隊に入営。この年の2月15日に西南戦争が始まっていますから、この臨時召集は、西南戦争をたたかうためのものです。つづいて、4月には後備第六大隊へ配属となり、同月14日に大津営所へ来ます。
しかし、同年8月27日に病没。
25歳8ヶ月で亡くなっています。
●後備歩兵・二等卒 柴田久次郎の墓碑
この墓碑は、後備歩兵の墓碑です。徴兵されて、二年は現役。三年目から予備役になるそうです。戦時には、この予備役から臨時召集されて、戦地に赴くか、留守番となるのです。
柴田久次郎は、和歌山県出身。士族。明治10(1877)年3月に臨時召集され、大阪鎮台後備第五大隊に入営。この年の2月15日に西南戦争が始まっていますから、この臨時召集は、西南戦争をたたかうためのものです。つづいて、4月には後備第六大隊へ配属となり、同月14日に大津営所へ来ます。
しかし、同年8月27日に病没。
25歳8ヶ月で亡くなっています。
西南戦争の直前(1877年1月)に病死した兵卒・矢田権助の墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/08
士族の運命が刻まれた墓石が並ぶ ― 2007/11/08
不可避となった士族との対決を念頭において、明治政府が、徴兵による軍事機構を作り出していく過程が、旧陸軍墓地の墓石に刻まれた墓碑にも反映しています。
私が「士族の運命」と書いたのは、明治政府に刃向かって最後まで戦うか、それとも、ほかの道を選んで生き延びるか(帰農ということも可能ですが)、そういう選択に直面したであろうと思うのです。
●壮兵
「壮兵」とは、士族からなる志願兵のことです。明治政府は、徴兵制度に踏み切る前は、志願兵にたよらざるをえませんでした。明治政府は、明治4(1871)年8月、四鎮台。明治6(1873)年1月には、六鎮台に。大阪鎮台には、壮兵からなる第四(番)大隊、第五(番)大隊、第十(番)大隊、第十四(番)大隊があったと思われます。
しかし、士族の反乱を恐れた明治政府は、明治8(1875)年4月、壮兵部隊を解除して、徴兵部隊に置き換えていきます。
旧大津陸軍墓地には、明治8年以前に存在した「壮兵」たちの墓碑もあります。
彦根の陸軍埋葬地から明治40年に移設された5名の兵卒と1名の大尉の墓碑がそれです。
●将校、下士官として生き延びる
では、すべての士族が明治政府の軍事機構から排除されたのか?
そういうわけではありません。将校、下士官として生き延びることは可能だったのです。
旧大津陸軍墓地に眠るのは、後者の道をたどった士族です。
奇兵隊出身の田中忠孝大尉や19歳で亡くなった生田高基・陸軍歩兵伍長などです。
これから、個々の墓碑を見ていきますが、さらにその姿が浮き彫りになっていくことと思います。
生田高基↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/11/08/1897197
私が「士族の運命」と書いたのは、明治政府に刃向かって最後まで戦うか、それとも、ほかの道を選んで生き延びるか(帰農ということも可能ですが)、そういう選択に直面したであろうと思うのです。
●壮兵
「壮兵」とは、士族からなる志願兵のことです。明治政府は、徴兵制度に踏み切る前は、志願兵にたよらざるをえませんでした。明治政府は、明治4(1871)年8月、四鎮台。明治6(1873)年1月には、六鎮台に。大阪鎮台には、壮兵からなる第四(番)大隊、第五(番)大隊、第十(番)大隊、第十四(番)大隊があったと思われます。
しかし、士族の反乱を恐れた明治政府は、明治8(1875)年4月、壮兵部隊を解除して、徴兵部隊に置き換えていきます。
旧大津陸軍墓地には、明治8年以前に存在した「壮兵」たちの墓碑もあります。
彦根の陸軍埋葬地から明治40年に移設された5名の兵卒と1名の大尉の墓碑がそれです。
●将校、下士官として生き延びる
では、すべての士族が明治政府の軍事機構から排除されたのか?
そういうわけではありません。将校、下士官として生き延びることは可能だったのです。
旧大津陸軍墓地に眠るのは、後者の道をたどった士族です。
奇兵隊出身の田中忠孝大尉や19歳で亡くなった生田高基・陸軍歩兵伍長などです。
これから、個々の墓碑を見ていきますが、さらにその姿が浮き彫りになっていくことと思います。
生田高基↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/11/08/1897197
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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