お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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モンシロチョウ2007/11/08

近づいても逃げないほど、蜜に夢中?

大阪鎮台各隊ノ称号ヲ改ム(陸軍省 明治07年05月14日)2007/11/08

大坂鎮台各隊ノ称号ヲ改ム 達大坂鎮台
大阪鎮台歩兵第十大隊 歩兵第八連隊第壹大隊ト改称候事
同 歩兵第十四大隊 歩兵第八連隊第貳大隊ト改称候事
同 本年第一徴兵 歩兵第八連隊第三大隊ト改称候事
同 歩兵第五大隊 歩兵第九連隊第壹大隊ト改称候事
同 本年第二徴兵 歩兵第九連隊第貳大隊ト改称候事
同 歩兵第四大隊 歩兵第十連隊第壹大隊ト改称候事
同 本年第三徴兵 歩兵第十連隊第貳大隊ト改称候事衆規淵鑑

壮兵解除取扱伺2007/11/08

三百十九@五十七布四十一号ノ次ヨリ@@ヘシ 一行アキ 大阪鎮台ヨリ本省ヘ伺 本月九日布第四十一号ヲ以テ全国壮兵漸ク以テ悉皆免役申付候条解除ノ順次早々取調可伺@旨御達ニ付左之通解除致シ度此段相伺候也 八年二月二十七日 歩兵第一連隊第一大隊 @第二大隊 @第三大隊 歩兵第十連隊第一大隊 砲兵第七大隊 右三月中解隊申付度候事 歩兵第九連隊第一大隊 右四月中解隊申付度候事 右御許可相成候ハ@本年三月中解隊之砌歩兵第八連隊第一第二両大隊ヘ分賦可仕第九第十両連隊兵員ノ儀モ徴兵入営前各二大隊ヘ相当分賦可仕候事 指令 八年三月十三日 伺之通 衆規淵鑑

臨時陸軍建築部より大津衛戍病院敷地買収の件(内務大臣伯爵板垣退助 明治29年7月11日)2007/11/08

参第五一二号
臨時陸軍建築部 大津衛戍病院敷地買収ノ件
提出 二十九年七月十四日
執行 年 月 日
御指令案 伺之通 但買収地内ニ介在スル道路受領之義ハ更ニ伺出ツヘシ 陸甲第八〇号 本年七月八日附送甲第二三二九号ヲ以テ滋賀県滋賀郡滋賀村ニ於テ民有地及別一町一反四畝四歩ラ御戍病院敷地トシテ買収地種組替方照会ニ依リ此旨該県ヘ及訓令候条御了知相成度此段及回答候也
明治二十九年七月十一日 内務大臣伯爵板垣退助
陸軍大臣候爵大山厳殿 追テ該地所ニ付在セル還路ヲモ者発地ニ編入相成度備ニ相之候ハヘ手続御所運相成度此段申

19歳で亡くなった士族出身の陸軍歩兵伍長・生田高基(1875年10月20日没)の墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/08

陸軍歩兵伍長(1856年4月15日~1875年10月20日)の墓碑
旧大津陸軍墓地の最古の墓地は、Fブロック。
明治8(1875)年から同10(1877)年に亡くなった兵卒・下士官の墓碑が37柱並んでいます。
そのうちのいくつかの碑文は、かなり読み取ることが可能です。

●士族出身の生田高基・伍長の墓石

これは、陸軍歩兵伍長・生田高基という方の墓碑。
士族で、武蔵の国の出身
安政3(1856)年4月15日の生まれ。
明治6(1873)年6月2日に応徴。
大阪鎮台第四大隊に入り、
第九連隊第二大隊の伍長に昇進。
しかし、明治8(1875)年10月20日には大津営所で病死。

 これを読めば、生田高基は、若干17歳で陸軍に入り、19歳で亡くなっていることがわかります。
 大阪鎮台は、明治4(1871)年8月に4鎮台(東京・大阪・鎮西・東北)の一つとして設置されます。大阪鎮台の管轄領域は、名古屋や中国地方をカヴァーするものでした。滋賀県は、大阪鎮台の小浜小営の管轄下となります。明治6年1月に徴兵令が出されますが、実際の徴兵は明治7年から。当初は、生田高基がそうであるように、「壮兵」と呼ばれる士族の志願兵から編成します。明治6年9月に壮兵をもって、いくつかの大隊が作られます。第四大隊はその一つです。これは、明治8年に第十連隊第一大隊と改称します。
 大津に駐屯することになるのは、第九連隊。これは、大阪鎮台第五大隊(壮兵)をもって、第九連隊第一大隊とし、明治7年の新徴兵をもって第二大隊を編成し、同年5月に発足するのです。生田高基は、かつて所属した第四大隊から、第九連隊の徴兵からなる第二大隊の伍長に昇給して、明治8(1875)年3月8日に、大津にやってくるのです。
   第九連隊の壮兵からなる第一大隊は、明治8年4月に解散。第二大隊が分割され、第一大隊、第二大隊となります。佐賀の乱や西南戦争にむかう時期です。士族出身者の反乱を恐れたのでしょう。
 士族出身でありながら、生田高基伍長は、その後も、第九連隊に所属し、同年10月20日病死。

西南戦争の前年(1876年)に亡くなった21歳生兵・村田良助の墓石@旧大津陸軍墓地2007/11/08

21歳で亡くなった生兵・村田良助の墓石@旧大津陸軍墓地
旧大津陸軍墓地の最古の墓地であるFブロック。
下士官の墓石が、3基。残りの34基は兵のものです。

●生兵・村田良助の墓石

 この墓石の正面は、「村田良助之墓」とだけ刻んであります。
 左側面には経歴が記されています。それを読むと、この人が兵としての訓練中(正式の階級をもたないのが「生兵」)に病没したことがわかります。
 生まれは、三重県の伊勢。安政2(1855)年3月12日。
明治9(1876)年4月28日応徴。
大阪鎮台第九連隊第弐大隊生兵。
明治9(1876)年11月18日大津営所で病没。21歳と8ヶ月。

 先の生田伍長と異なり、壮兵(志願兵)ではなく、徴兵制度によって召集された兵です。大津営所に来て、わずか数ヶ月で兵となることなく病没しているのです。

西南戦争(1877年)の後備歩兵として召集され病没した士族出身の25歳歩兵二等卒・柴田久次郎の墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/08

西南戦争のために後備歩兵として召集され病没した陸軍歩兵二等卒・柴田久次郎の墓碑
旧大津陸軍墓地で最古の墓碑が集まるFブロック。そこには、明治8(1875)年から明治10(1877)年にかけて病没した下士官・兵卒の墓碑が37柱並んでいます。

●後備歩兵・二等卒 柴田久次郎の墓碑

 この墓碑は、後備歩兵の墓碑です。徴兵されて、二年は現役。三年目から予備役になるそうです。戦時には、この予備役から臨時召集されて、戦地に赴くか、留守番となるのです。
 柴田久次郎は、和歌山県出身。士族。明治10(1877)年3月に臨時召集され、大阪鎮台後備第五大隊に入営。この年の2月15日に西南戦争が始まっていますから、この臨時召集は、西南戦争をたたかうためのものです。つづいて、4月には後備第六大隊へ配属となり、同月14日に大津営所へ来ます。
 しかし、同年8月27日に病没。
25歳8ヶ月で亡くなっています。

西南戦争の直前(1877年1月)に病死した兵卒・矢田権助の墓碑@旧大津陸軍墓地2007/11/08

西南戦争の直前(1877年1月)に病死した兵卒・矢田権助の墓碑
旧大津陸軍墓地のFブロックには、明治7(1874)年に6鎮台制に移行すると共に新編成された陸軍歩兵第九連隊が、大津営所に移動してきた明治8(1875)年3月8日以降、約2年間に亡くなった方の墓碑37柱が並んでいます。
 今日、碑文を読み解いていますが、この方で4人目となります。

●矢田権助

 矢田権助は、三重県の出身。ペリーが浦賀に来航した寛永六(1853)年12月7日生まれ。
 明治7(1874)年4月25日に応召。大阪鎮台歩兵第九連隊第二大隊。
 しかし、西南戦争が勃発する直前の明治10(1877)年1月9日に病没。23歳と2ヶ月の命でした。

士族の運命が刻まれた墓石が並ぶ2007/11/08

 不可避となった士族との対決を念頭において、明治政府が、徴兵による軍事機構を作り出していく過程が、旧陸軍墓地の墓石に刻まれた墓碑にも反映しています。
 私が「士族の運命」と書いたのは、明治政府に刃向かって最後まで戦うか、それとも、ほかの道を選んで生き延びるか(帰農ということも可能ですが)、そういう選択に直面したであろうと思うのです。

●壮兵

 「壮兵」とは、士族からなる志願兵のことです。明治政府は、徴兵制度に踏み切る前は、志願兵にたよらざるをえませんでした。明治政府は、明治4(1871)年8月、四鎮台。明治6(1873)年1月には、六鎮台に。大阪鎮台には、壮兵からなる第四(番)大隊、第五(番)大隊、第十(番)大隊、第十四(番)大隊があったと思われます。
 しかし、士族の反乱を恐れた明治政府は、明治8(1875)年4月、壮兵部隊を解除して、徴兵部隊に置き換えていきます。
 旧大津陸軍墓地には、明治8年以前に存在した「壮兵」たちの墓碑もあります。
 彦根の陸軍埋葬地から明治40年に移設された5名の兵卒と1名の大尉の墓碑がそれです。

●将校、下士官として生き延びる

 では、すべての士族が明治政府の軍事機構から排除されたのか?
 そういうわけではありません。将校、下士官として生き延びることは可能だったのです。
 旧大津陸軍墓地に眠るのは、後者の道をたどった士族です。
 奇兵隊出身の田中忠孝大尉や19歳で亡くなった生田高基・陸軍歩兵伍長などです。
 これから、個々の墓碑を見ていきますが、さらにその姿が浮き彫りになっていくことと思います。

生田高基↓
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/11/08/1897197

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)