お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「大津(営所附)埋葬地」(=大津陸軍墓地)の建設プロセスを推察してみる ― 2007/11/15
●建設の動機
大津営所附埋葬地という名称そのものが目的を表している。第九連隊の訓練中に死亡した兵を葬るための墓地である。
第九連隊は明治8(1875)年3月に、大津に移転し、兵の訓練を開始する。4ヵ月後の7月にはすでに病死者が出ている。これらを葬る場所が必要となる。明治8年末には、建設計画は進行しはじめている。
●第一次工事の開始と完成
明治8(1875)年から計画がはじまり、明治10(1877)年に用地買収も終わり、工事が行われる。
●当初の構造
当初から、上段、中段、下段という三段構造であったのか、それとも二段構造であったのかを決める材料はない。しかし、上段の将校の墓地は、明治20年以降しか必要がなかたので、建設されていても、実際は、下段と中段しかなかったと同じである。
当初の幅は、下段と同じだったと思われる。
具体的には、真ん中の通路(下段、中段、上段と貫通)の左右に18メートルづつの幅で広がっていたと思われる。下段は、40数メートルの長さ、中段は、30メートル程度。
●本体以外の墓地
実は、ここから、はみだす墓地が当初からあったのではないかと思われる。
明治11(1878)年には第一期工事が完成していたはずだが、その工事が終わるまでに亡くなった下士官・兵が30数名存在する。それらの人々の墓地が、西側のガケのふちに建設されていたのではないかと思う。
土地買収が終わったらすぐに、葬ったのかも知れない。
工事の完成をまてないゆえに、予定の用地の外につくり、葬ったと考える。
そういう事情から、下士官も兵もおなじ用地内に葬られたのだろう。
西南戦争では、将校・下士官・兵は戦死した九州に葬られ、大津には合葬碑が建てられた。そもそも、西南戦争直後には、この埋葬地は影も形もなかったのだから、対応のしようもないのである。
●明治30年まで基本構造に変更なし
完成した明治11(1878)年から、日清戦争までは、中段は下士官、下段は兵というように、丘の上から右から左へ並べるオーダーで埋葬が続けられた。
●墓地拡張が必要となった事情の発生
増設工事が必要となったのは、明治28(1895)年の日清戦争への出征と台湾征服戦争が起こったからである。
第九連隊が大陸に上陸したころには、休戦協定が成立していた。したがって、日清戦争の戦闘には参加することはなかった。しかし、講和条約以降も、遼東半島の守備を命じられ、そのときに、多数の病死者を出した。
その病死者の墓地が必要となった。
このために、明治30(1897)年に、中段を拡張することになった。
その拡張は西側をさらに広げることである。
たまたま、その方向のガケには、墓地完成までの病死者の墓地があった。ガケより山手をけずり、そこに遼東半島での病死者およびその後の台湾征服戦争に参加したときの死者を葬ることになった。
これが第二期目の工事である。
●バイパスによる移転工事
最後に、第三期目の工事。それが、昭和51(1976)年のバイパス開通にともなって、下段すべてを取り壊す工事である。下段の墓碑は、中段の西の谷を埋め立てた土地に移された。
このように、増設は、つねに、中段を西側に広げる工事によって行われた。
以上、私の推察である。いかがでしょうか?
大津営所附埋葬地という名称そのものが目的を表している。第九連隊の訓練中に死亡した兵を葬るための墓地である。
第九連隊は明治8(1875)年3月に、大津に移転し、兵の訓練を開始する。4ヵ月後の7月にはすでに病死者が出ている。これらを葬る場所が必要となる。明治8年末には、建設計画は進行しはじめている。
●第一次工事の開始と完成
明治8(1875)年から計画がはじまり、明治10(1877)年に用地買収も終わり、工事が行われる。
●当初の構造
当初から、上段、中段、下段という三段構造であったのか、それとも二段構造であったのかを決める材料はない。しかし、上段の将校の墓地は、明治20年以降しか必要がなかたので、建設されていても、実際は、下段と中段しかなかったと同じである。
当初の幅は、下段と同じだったと思われる。
具体的には、真ん中の通路(下段、中段、上段と貫通)の左右に18メートルづつの幅で広がっていたと思われる。下段は、40数メートルの長さ、中段は、30メートル程度。
●本体以外の墓地
実は、ここから、はみだす墓地が当初からあったのではないかと思われる。
明治11(1878)年には第一期工事が完成していたはずだが、その工事が終わるまでに亡くなった下士官・兵が30数名存在する。それらの人々の墓地が、西側のガケのふちに建設されていたのではないかと思う。
土地買収が終わったらすぐに、葬ったのかも知れない。
工事の完成をまてないゆえに、予定の用地の外につくり、葬ったと考える。
そういう事情から、下士官も兵もおなじ用地内に葬られたのだろう。
西南戦争では、将校・下士官・兵は戦死した九州に葬られ、大津には合葬碑が建てられた。そもそも、西南戦争直後には、この埋葬地は影も形もなかったのだから、対応のしようもないのである。
●明治30年まで基本構造に変更なし
完成した明治11(1878)年から、日清戦争までは、中段は下士官、下段は兵というように、丘の上から右から左へ並べるオーダーで埋葬が続けられた。
●墓地拡張が必要となった事情の発生
増設工事が必要となったのは、明治28(1895)年の日清戦争への出征と台湾征服戦争が起こったからである。
第九連隊が大陸に上陸したころには、休戦協定が成立していた。したがって、日清戦争の戦闘には参加することはなかった。しかし、講和条約以降も、遼東半島の守備を命じられ、そのときに、多数の病死者を出した。
その病死者の墓地が必要となった。
このために、明治30(1897)年に、中段を拡張することになった。
その拡張は西側をさらに広げることである。
たまたま、その方向のガケには、墓地完成までの病死者の墓地があった。ガケより山手をけずり、そこに遼東半島での病死者およびその後の台湾征服戦争に参加したときの死者を葬ることになった。
これが第二期目の工事である。
●バイパスによる移転工事
最後に、第三期目の工事。それが、昭和51(1976)年のバイパス開通にともなって、下段すべてを取り壊す工事である。下段の墓碑は、中段の西の谷を埋め立てた土地に移された。
このように、増設は、つねに、中段を西側に広げる工事によって行われた。
以上、私の推察である。いかがでしょうか?
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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