
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
勝利したという事実だけが伝わり、悲惨な現実が伝わらない ― 2007/11/16
ネット上にある「福井県史」の近代史の部分を読みました。
『福井県文書館データベース デジタル歴史情報』というサイトです。
明治初期は、県の境目が流動しながら、決まってくる時期なので、福井県の情報を頭に入れておこうと思ったのです。そういう目的でしたが、近代の部分を読み下しながら、衝撃を受けました。
それは、「苦渋にみちた二つの行軍」という部分です。
●混成旅団
日清戦争で兵站をになった混成旅団は、朝鮮民衆の敵意と非協力で、極度の困難に陥り、調達することも、運搬することもできなくなります。この責任をとって大隊長が自殺するという事態にいたった行軍。
●金沢第七連隊
部隊の移動ひとつとっても、現在の私たちには想像もつかない事態がおこっていたことがわかったのです。福井県の出身者を含む金沢第七連隊は、金沢を出発するのですが、朝鮮半島に到達するまえに、国内を縦断する必要があります。この当時は、北陸線は敦賀まで。つまり、金沢と敦賀の間は、徒歩での行軍です。その距離140キロメートル。8月29日に営所を勇んで出発。しかし、炎天下の行軍によって、30日には日射病にかかるものが続出。30日には1名が死亡。つづく9月1日にも死亡者がでます。郷土の誇りとなる出征の姿を見ようと集まった福井市民は、驚愕して、200名を超える日射病にくるしむ落伍兵の悲惨な行軍を見ることになるのです。市は急ごしらえの看護施設や運搬をすることになりますが、あまりの多さに対応ができないのです。さらに事態を深刻にしたのは、靴擦れ。靴をはく習慣のなかった当時には、一歩もあるけない兵が続出する原因の一つでした。
国内ですら、この状態。風土のちがう異土で、しかも食糧難と非衛生状態のもとでの病気の蔓延、脚気など、あらゆる辛酸を兵はなめることになるのです。
わたしは、これらの現実をほとんど知りませんでした。
教科書に日清戦争や日露戦争が載ったとしても、勝利の結果だけが知らされ、このような戦争そのものにともなう悲惨さは洗い流されてしまいます。そんなもとでは、戦争を美化する流れに押し流される若者が生まれてるのではないかと不安を覚えるのです。「集団自決」での軍の関与や「従軍慰安婦」などの記述を削除しようという動きには、私は反対です。
『福井県文書館データベース デジタル歴史情報』というサイトです。
明治初期は、県の境目が流動しながら、決まってくる時期なので、福井県の情報を頭に入れておこうと思ったのです。そういう目的でしたが、近代の部分を読み下しながら、衝撃を受けました。
それは、「苦渋にみちた二つの行軍」という部分です。
●混成旅団
日清戦争で兵站をになった混成旅団は、朝鮮民衆の敵意と非協力で、極度の困難に陥り、調達することも、運搬することもできなくなります。この責任をとって大隊長が自殺するという事態にいたった行軍。
●金沢第七連隊
部隊の移動ひとつとっても、現在の私たちには想像もつかない事態がおこっていたことがわかったのです。福井県の出身者を含む金沢第七連隊は、金沢を出発するのですが、朝鮮半島に到達するまえに、国内を縦断する必要があります。この当時は、北陸線は敦賀まで。つまり、金沢と敦賀の間は、徒歩での行軍です。その距離140キロメートル。8月29日に営所を勇んで出発。しかし、炎天下の行軍によって、30日には日射病にかかるものが続出。30日には1名が死亡。つづく9月1日にも死亡者がでます。郷土の誇りとなる出征の姿を見ようと集まった福井市民は、驚愕して、200名を超える日射病にくるしむ落伍兵の悲惨な行軍を見ることになるのです。市は急ごしらえの看護施設や運搬をすることになりますが、あまりの多さに対応ができないのです。さらに事態を深刻にしたのは、靴擦れ。靴をはく習慣のなかった当時には、一歩もあるけない兵が続出する原因の一つでした。
国内ですら、この状態。風土のちがう異土で、しかも食糧難と非衛生状態のもとでの病気の蔓延、脚気など、あらゆる辛酸を兵はなめることになるのです。
わたしは、これらの現実をほとんど知りませんでした。
教科書に日清戦争や日露戦争が載ったとしても、勝利の結果だけが知らされ、このような戦争そのものにともなう悲惨さは洗い流されてしまいます。そんなもとでは、戦争を美化する流れに押し流される若者が生まれてるのではないかと不安を覚えるのです。「集団自決」での軍の関与や「従軍慰安婦」などの記述を削除しようという動きには、私は反対です。
コメント
_ マハ ― 2007年11月16日 23時26分29秒
_ BIN★ ― 2007年11月17日 10時03分02秒
私は、ボロになっていますが、はきなれた靴が一番ですね。遠足なんかで、おニューの靴を履くのは、うれしいにしても、結果は悲惨ですから。あらためて、日本人は靴をはく習慣を近代になってもったんだと・・・思った次第です。その当時は、わらじが最高!!という時代ですね。わらじなら、農家の手仕事でつくることができますから、手に入れやすいものでもあったのです。・・・もしかしたら、兵隊さんも明治の時代は、出征のときだけしか、靴をはかせてもらえなかったのかもと思ったりします。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
表に出ない苦労が、表現しきれないほどあったでしょうね。
お呼びがかかって、出かけても、今のように車が、電車が、飛行機がまともにあるわけでもなく、移動だけで大層な日数と労力、そして通過する町の人々の苦労があったと思います。
そういうことは隠すことの無いように伝えていくべきですね。
昨日、私も久しぶりの靴をはいて両足で5つも靴ずれが・・・
最悪ですよねぇ~あの痛み。
読んだだけで、痛く感じます。