お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
明治28年4月、第九連隊の14名の病死者について ― 2007/11/21
●あまりにも簡略な「経歴書」の記述
旧大津陸軍墓地の個人墓碑数の3割強が日清戦争にかかわる墓碑。そのなかでも、もっとも多数を占めるのが、明治28年4月の墓碑数で69柱ある。
にもかかわらず、公式の文書はなにひとつ語ろうとしない。
あらためてこの月の動きをまとめると以下のようになる。
第四師団歩兵第九連隊は、日清戦争の休戦協定(3月30日)の直前に大津市を出征(3月28日)し、広島に到着した。ここで約10日間逗留したのち、遼東半島にむかって11日と13日に宇品港を出向し、4月14日と16日に大連湾に到着した。だが、4月17日に、日清講和条約が締結された。21日、講和の詔勅が下りた。上陸前に戦争は終結してしまったのである。
第九連隊は、22日と23日に柳樹屯に上陸。24日と25日に「沙家屯附近ニ在ル西華家屯附近ノ舎営地」(第九連隊戦役経歴書)に到着した。
●私がしようとしていること
明治28年4月の第九連隊の行動については、これ以上詳しい記述が「戦役経歴書」にも、明治44年の「大津市志」にも、昭和17年の「大津市史」にも見当たらない。
ましてや、病死者についての記述は存在しない。
その空白を補い、旧大津陸軍墓地に眠る人たちの姿を辿ること--
それが、私の目的である。
●コレラの流行について
一之瀬俊也著『旅順と南京』(文春新書 2007年11月20日!!)によると、この年の1月下旬ごろから金州地方でコレラの流行がはじまっていたらしいことがわかる(「第一連隊戦役経歴書」)。日本軍はこれを警戒し、飲み水への注意を促している。毒を流すといううわさも流れている。
山本俊一『日本コレラ史』(1982)によれば、この年の日本での最初の患者は、大連から帰国した解雇人夫であり、宇品港で発見されたという。大陸から持ち込まれたコレラは国内でもたちまち広がったのである。
●柳樹屯、劉家店、沙家屯の病死者
22日と23日の上陸地点である柳樹屯には、金州最大の柳樹屯兵站病院があった。ここで4月に亡くなった方の墓石が、下士官1基兵卒12基合計13基ある。
劉家店では、4月24日に劉家店避病室が開設された。開設前の日付から29日までの日付で、下士官1基兵卒16基合計17基。
舎営地(附近)の沙家屯には、4月26日に、第四師団によって舎営病院がつくられた。この地を死亡場所とする墓碑は、4月27日から29日の3日間だけで下士官1基兵卒16基で合計17基。5月17日までの総計は36基である。
●死亡場所不明者の墓碑
旧大津陸軍墓地Eブロックには、死亡場所が省略されている兵卒の墓石が4月だけで3基ある。
4月 6日 一等卒 岩田 夛吉(78)
4月 6日 一等卒 幾田 幾之助(121)
4月11日 二等卒 吉田 清次郎(25)
4月6日は広島に滞在中の日付。11日は第一大隊と第二大隊が出航の日付である。ちなみに第三大隊は13日。
また場所の記入はあっても読解困難な墓石が同じく4月だけで4基ある。
これらについては後日の課題としたい。
●死亡年月日が4月6日柳樹屯の墓碑
これも1基ある。誤記なのか。
●4月11日に船中で病死
特務曹長の尾嵜常人である。
●4月に死亡したとある残り14名の墓石
4月に亡くなった人たちの墓石には、さまざまな地名が刻まれている。地名に詳しくない私は思わぬミスをするかも知れないので、その点はご容赦を。
亡くなった日付の順に並べると以下のとおり
4月17日 旅順口(181)
4月21日 旅順口(79)
4月21日 大連湾(44)
4月24日 金州(84)
4月25日 劉家屯(87)
4月26日 金州(81)
4月26日 花家屯(177)
4月27日 花家屯(下士官)
4月27日 林家屯(109)
4月27日 林家屯(149)
4月27日 林家屯(152)
4月28日 孫家屯(93)
4月28日 孫家屯(108)
4月29日 蔡家店(42)
一見して、旅順口には旅順口兵站病院、大連湾には大連湾検疫所、金州には金州兵站病院があるので、それらの地名ならば、それぞれ病院または検疫所で亡くなったものと推測できる。
しかし、その他については、すぐにわかるとは思えない。後日を期したい。
とりあえず、つづく・・・・。(一部訂正あり)
旧大津陸軍墓地の個人墓碑数の3割強が日清戦争にかかわる墓碑。そのなかでも、もっとも多数を占めるのが、明治28年4月の墓碑数で69柱ある。
にもかかわらず、公式の文書はなにひとつ語ろうとしない。
あらためてこの月の動きをまとめると以下のようになる。
第四師団歩兵第九連隊は、日清戦争の休戦協定(3月30日)の直前に大津市を出征(3月28日)し、広島に到着した。ここで約10日間逗留したのち、遼東半島にむかって11日と13日に宇品港を出向し、4月14日と16日に大連湾に到着した。だが、4月17日に、日清講和条約が締結された。21日、講和の詔勅が下りた。上陸前に戦争は終結してしまったのである。
第九連隊は、22日と23日に柳樹屯に上陸。24日と25日に「沙家屯附近ニ在ル西華家屯附近ノ舎営地」(第九連隊戦役経歴書)に到着した。
●私がしようとしていること
明治28年4月の第九連隊の行動については、これ以上詳しい記述が「戦役経歴書」にも、明治44年の「大津市志」にも、昭和17年の「大津市史」にも見当たらない。
ましてや、病死者についての記述は存在しない。
その空白を補い、旧大津陸軍墓地に眠る人たちの姿を辿ること--
それが、私の目的である。
●コレラの流行について
一之瀬俊也著『旅順と南京』(文春新書 2007年11月20日!!)によると、この年の1月下旬ごろから金州地方でコレラの流行がはじまっていたらしいことがわかる(「第一連隊戦役経歴書」)。日本軍はこれを警戒し、飲み水への注意を促している。毒を流すといううわさも流れている。
山本俊一『日本コレラ史』(1982)によれば、この年の日本での最初の患者は、大連から帰国した解雇人夫であり、宇品港で発見されたという。大陸から持ち込まれたコレラは国内でもたちまち広がったのである。
●柳樹屯、劉家店、沙家屯の病死者
22日と23日の上陸地点である柳樹屯には、金州最大の柳樹屯兵站病院があった。ここで4月に亡くなった方の墓石が、下士官1基兵卒12基合計13基ある。
劉家店では、4月24日に劉家店避病室が開設された。開設前の日付から29日までの日付で、下士官1基兵卒16基合計17基。
舎営地(附近)の沙家屯には、4月26日に、第四師団によって舎営病院がつくられた。この地を死亡場所とする墓碑は、4月27日から29日の3日間だけで下士官1基兵卒16基で合計17基。5月17日までの総計は36基である。
●死亡場所不明者の墓碑
旧大津陸軍墓地Eブロックには、死亡場所が省略されている兵卒の墓石が4月だけで3基ある。
4月 6日 一等卒 岩田 夛吉(78)
4月 6日 一等卒 幾田 幾之助(121)
4月11日 二等卒 吉田 清次郎(25)
4月6日は広島に滞在中の日付。11日は第一大隊と第二大隊が出航の日付である。ちなみに第三大隊は13日。
また場所の記入はあっても読解困難な墓石が同じく4月だけで4基ある。
これらについては後日の課題としたい。
●死亡年月日が4月6日柳樹屯の墓碑
これも1基ある。誤記なのか。
●4月11日に船中で病死
特務曹長の尾嵜常人である。
●4月に死亡したとある残り14名の墓石
4月に亡くなった人たちの墓石には、さまざまな地名が刻まれている。地名に詳しくない私は思わぬミスをするかも知れないので、その点はご容赦を。
亡くなった日付の順に並べると以下のとおり
4月17日 旅順口(181)
4月21日 旅順口(79)
4月21日 大連湾(44)
4月24日 金州(84)
4月25日 劉家屯(87)
4月26日 金州(81)
4月26日 花家屯(177)
4月27日 花家屯(下士官)
4月27日 林家屯(109)
4月27日 林家屯(149)
4月27日 林家屯(152)
4月28日 孫家屯(93)
4月28日 孫家屯(108)
4月29日 蔡家店(42)
一見して、旅順口には旅順口兵站病院、大連湾には大連湾検疫所、金州には金州兵站病院があるので、それらの地名ならば、それぞれ病院または検疫所で亡くなったものと推測できる。
しかし、その他については、すぐにわかるとは思えない。後日を期したい。
とりあえず、つづく・・・・。(一部訂正あり)
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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