お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
琵琶湖と上空に広がる雲に ― 2007/12/13
なぎさ公園から見た琵琶湖。
雲が広がっています。
昼休みのわずかな時間に、
湖岸に出て写真を撮ってきました。
私は、楽しそうになぎさ公園を歩いていましたが、
市議会議員のTさんは、この「なぎさ公園」を含む
埋め立てを許そうとはしませんでした。
(たぶん現在も)
わたしは、浜大津港から北に住んでいましたから、
この土地の原風景を頭に描くことはできません。
そのせいで、怒りがわかないのだと思っていました。
今日、事務所ビルの3階で会議をしているさなか、
その主題とは関係ないことでしたが、
この埋め立てが、湖岸での高層建築林立の
原型をなしていることに気がつきました。
当然といえば当然ですが、私は
はじめて実感をもって受け止められたのです。
石山団地建設のために、山を削った土砂の
始末の場所として、琵琶湖が選ばれ、
かなり広大な面積の埋め立てられました。
それが、なぎさ公園を外周にもつ
高層の事務所ビルが立ち並ぶ区画です。
埋め立て=水質悪化という問題もあります。
しかし、旧市街を500メートル近い幅で
琵琶湖からせり出して、そこに高層建築を
建て続けたことによって、住民の目を琵琶湖から
遮断する長い「壁」が生まれたのです。
この地域に、ビジネスビルを誘致したことによって、
県都としての経済機能を拡大したという側面は
あると思います。もともと山と琵琶湖のわずかな
すきまにあるまちですから。
しかし、その結果どうなったのか。
親水性を高めると「なぎさ公園」をつくりましたが、
市民は、そこまで足をはこばなければ、
琵琶湖に出会うことはできなくなりました。
過ぎたことをいまさらとやかくいうつもりは、
ありません。
ただ、埋め立て後の風景を当たり前(原風景)と感じる
ようになってしまえが、さらなる林立を
とめる力は生まれません。
300万年を越す貴重な古代湖に接するまち大津。
その貴重な自然と景観にだれしも接することが
できる権利を認め、それを阻害するものを許さないまち、
そんなまちづくりを夢見るのです。
雲が広がっています。
昼休みのわずかな時間に、
湖岸に出て写真を撮ってきました。
私は、楽しそうになぎさ公園を歩いていましたが、
市議会議員のTさんは、この「なぎさ公園」を含む
埋め立てを許そうとはしませんでした。
(たぶん現在も)
わたしは、浜大津港から北に住んでいましたから、
この土地の原風景を頭に描くことはできません。
そのせいで、怒りがわかないのだと思っていました。
今日、事務所ビルの3階で会議をしているさなか、
その主題とは関係ないことでしたが、
この埋め立てが、湖岸での高層建築林立の
原型をなしていることに気がつきました。
当然といえば当然ですが、私は
はじめて実感をもって受け止められたのです。
石山団地建設のために、山を削った土砂の
始末の場所として、琵琶湖が選ばれ、
かなり広大な面積の埋め立てられました。
それが、なぎさ公園を外周にもつ
高層の事務所ビルが立ち並ぶ区画です。
埋め立て=水質悪化という問題もあります。
しかし、旧市街を500メートル近い幅で
琵琶湖からせり出して、そこに高層建築を
建て続けたことによって、住民の目を琵琶湖から
遮断する長い「壁」が生まれたのです。
この地域に、ビジネスビルを誘致したことによって、
県都としての経済機能を拡大したという側面は
あると思います。もともと山と琵琶湖のわずかな
すきまにあるまちですから。
しかし、その結果どうなったのか。
親水性を高めると「なぎさ公園」をつくりましたが、
市民は、そこまで足をはこばなければ、
琵琶湖に出会うことはできなくなりました。
過ぎたことをいまさらとやかくいうつもりは、
ありません。
ただ、埋め立て後の風景を当たり前(原風景)と感じる
ようになってしまえが、さらなる林立を
とめる力は生まれません。
300万年を越す貴重な古代湖に接するまち大津。
その貴重な自然と景観にだれしも接することが
できる権利を認め、それを阻害するものを許さないまち、
そんなまちづくりを夢見るのです。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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