お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
変わる道 ― 2007/12/15
●変わらない道と変わる道
悠久の歴史のなかで変わらない道もあれば、
変わる道もあります。
1990年代の深刻な不況以来、
閉店と出店を繰り返す道があります。
まちをつらぬく幹線道路の161号線がそれ。
DVDナビで検索して出向いても、
そこにお店がないことが普通に生まれています。
「リアルタイムで更新できるHDナビを買えば
いいんじゃない」という問題ではありません。
それは、まちの荒廃という事態です。
●新幽霊ビル
1970年に大阪万博があり、その人気をあてにして
ホテル建設がすすみました。
しかし、資金が足りなくなり、建設中に放置された
ビルが大津市にあり、幽霊ビルとよばれました。
いま、中央部に進出した大型店が
先の見通しもなく、閉店され、
その巨大な廃墟としての姿をさらしています。
上の写真のビルがそれです。
堅田に存在するこのビルのことを
私は、「新幽霊ビル」と呼びます。
●スクラップ・アン・ドビルドもしくは焼畑商業
全国一律のチェーン店。
それはどの幹線道路でも見かけることができます。
それは、便利かも知れませんが、
どのまちも個性のないものに変えています。
儲かると思えば出店。
儲からなければ閉店。
それも戦略のひとつとなっているのでしょう。
しかし、それは、まちの荒廃を生んでいるの
ではないでしょうか。
営利を推進力にして激しく変わる道、
それは、決して未来に通じる道では
ないと私は思います。
悠久の歴史のなかで変わらない道もあれば、
変わる道もあります。
1990年代の深刻な不況以来、
閉店と出店を繰り返す道があります。
まちをつらぬく幹線道路の161号線がそれ。
DVDナビで検索して出向いても、
そこにお店がないことが普通に生まれています。
「リアルタイムで更新できるHDナビを買えば
いいんじゃない」という問題ではありません。
それは、まちの荒廃という事態です。
●新幽霊ビル
1970年に大阪万博があり、その人気をあてにして
ホテル建設がすすみました。
しかし、資金が足りなくなり、建設中に放置された
ビルが大津市にあり、幽霊ビルとよばれました。
いま、中央部に進出した大型店が
先の見通しもなく、閉店され、
その巨大な廃墟としての姿をさらしています。
上の写真のビルがそれです。
堅田に存在するこのビルのことを
私は、「新幽霊ビル」と呼びます。
●スクラップ・アン・ドビルドもしくは焼畑商業
全国一律のチェーン店。
それはどの幹線道路でも見かけることができます。
それは、便利かも知れませんが、
どのまちも個性のないものに変えています。
儲かると思えば出店。
儲からなければ閉店。
それも戦略のひとつとなっているのでしょう。
しかし、それは、まちの荒廃を生んでいるの
ではないでしょうか。
営利を推進力にして激しく変わる道、
それは、決して未来に通じる道では
ないと私は思います。
自分の生まれた場所がわかった ― 2007/12/15
私は、大津市で生まれたのですが、
父も母もすでに亡くなっているので、
自分が生まれた具体的な場所を
きくことができませんでした。
自宅ではなく、病院だということだけ
知っていました。
私の妹は、4歳年下。
妹の生まれた場所と私の生まれた場所は同じ。
妹が生まれたあと、
その病院に連れて行かれました。
電車に乗って、降りた駅は、「粟津」
そこから、背の高い葦の生えた道を通り抜けて、
病院にたどりついたことを覚えています。
いま、「粟津」の駅はありますけれど、
それらしい建物を近くに見つけることは
できませんでした。
まちは、様子を変えていたのです。
今日の午後の膳所の集まりで
その話をしたら、
そこで私も子どもを生んだという
人がいました。
それで、その病院があった場所と
名前がわかったのです。
そこは、知らない場所ではありませんでした。
私が琵琶湖の水質問題で
資料を求めて訪問した場所でした。
上の写真がそれです。
旧滋賀県立衛生環境センター
当時の名前では、「大津産院」
父も母もすでに亡くなっているので、
自分が生まれた具体的な場所を
きくことができませんでした。
自宅ではなく、病院だということだけ
知っていました。
私の妹は、4歳年下。
妹の生まれた場所と私の生まれた場所は同じ。
妹が生まれたあと、
その病院に連れて行かれました。
電車に乗って、降りた駅は、「粟津」
そこから、背の高い葦の生えた道を通り抜けて、
病院にたどりついたことを覚えています。
いま、「粟津」の駅はありますけれど、
それらしい建物を近くに見つけることは
できませんでした。
まちは、様子を変えていたのです。
今日の午後の膳所の集まりで
その話をしたら、
そこで私も子どもを生んだという
人がいました。
それで、その病院があった場所と
名前がわかったのです。
そこは、知らない場所ではありませんでした。
私が琵琶湖の水質問題で
資料を求めて訪問した場所でした。
上の写真がそれです。
旧滋賀県立衛生環境センター
当時の名前では、「大津産院」
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント