お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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思いの共有2007/12/06

●記者会見にて

こういう記者会見は、はじめてではないのです。
これで三度目。
政策的には整理はできていたので、
今日の会見をどういう場にしたいのかを自問しながら、
臨むことにしました。
私が伝えたいことは、
大津市というまちが、大きな曲がり角にあって、
大切なものを失う危機にあるという認識です。
だからこそ、変えたいと願い決意したわけです。
それは短期的に見ていたり、
時流に流されていては、
見えない変化も含まれています。
多くの困難に直面しているまちの将来を争うときに、
「無風」とか、「争点なし」という報道ほど、悲しいものはないのです。
私は、できるだけ具体的に、
大津市が直面している問題点を示し、
それとのかかわりで行政のあり方についての考えを話したつもりです。
私の思い込みかも知れませんが、
真剣に聞いていただいたことに感謝したいと思います。
尊大な言い方を許していただけるならば、
私たちの考えを知っていただくとともに、
市民が争点について、
つっこんだ認識をもてる記事を
書いていただくのに
お役に立ちたいと願ってもいたのです。

●建設業の方とのお話

たちまち事務所を借りる必要があるので、
そのために出かけていきました。
そのなかで、建設業の方に
ごあいさつをする機会がありました。
その方が口から出てきた言葉に注目しました。
「暮らしが大変。仕事がなく活気がなくなった」
「まちづくりに計画性がないために、
 かつて揃っていた町並みがくずれ去り美観が失われている」
「美しい街、びわ湖の景観がつぎつぎ失われていっている」
それらは、私が記者会見で
代弁しようとしてことの一つでもありました。
このまちに暮らしている者同士が思いの共有したひとときでした。

《日本型コンパクト・シティの幻想》ということ2007/12/07

●岡田知弘氏の詳論を読みました。

《岡田教授の地域づくり実践講座》のなかの
《日本型コンパクト・シティの幻想》という一文です。
「イオンモール出店反対とまちづくりを考える会」の
Hさんからファックスを送っていただいて、
いま、読み終わったところです。
せっかく送っていただいたので、
Hさんへの返事のつもりで、感想を書いてみたいと思います。

●「コンパクト・シティ」という概念

この言葉は知っています。
「まちづくりを考える会」に参加するなかで、
読み漁った本にもよく出てくるからです。
岡田教授は、それが生まれた欧米と、
政府サイドがキイ概念として使っている日本では、
意味が同じではないと述べています。
それゆえに、氏は「日本型」という言葉を頭につけているのです。

●日本型はどういうものか

岡田教授はそれを次のようにまとめています。

《その意味するところは「人口減少」時代において郊外への社会資本の投資や、人口の少ない山間部の除雪費用は財政負担を増すだけであり、できるだけ郊外や農山村居住者を都心に移して、そこに住宅、医療、福祉、商業、交通機能をコンパクトにまとめることが必要だということのようです。》

●その問題点

ここで「平成の大合併」とのかかわりが生まれます。
私には「上からの押し付け合併」としか思えないこの合併によって、
きわめて広大な地域をかかえる自治体が登場しました。
そういう反コンパクト・シティ(エクスパンション・シティ=拡大都市)のもとで、
「コンパクトシティ」が唱えられる意味はどこにあるのかと問いかけ、
つぎのように答えます。

《結論的にいえば、中心部に空家・空き店舗が目立つ地方中心都市において、行政投資の集中と規制緩和による大手デベロッパーやゼネコン中心の大規模開発をおこなうということでしょう。》

青森市の例が挙げられていますが、
高齢者向けマンションを建設しても、
高価すぎて山村の高齢者が入居することができません。
無理やりコンパクトにすれば、
農林業の担い手が枯渇し、
国土の荒廃がすすむだけで都市そのものの維持機能が危機におちいるのです。

●住民参加で本来の意味でのコンパクトシティづくり

岡田教授の結論は、つぎの2点だと思います。

①《都市でも農村でも、人々が自然と共生し安心して健康な生活ができるような生活ができるような本来の意味でのコンパクトな生活圏を多数形成し、それらをネットワークするまちづくりことが、必要》

②《その主役は、ゼネコンではなく、あくまでの主権者としての人間》

というものです。
最後に、

《住民の主権が発揮できるように自治の単位は、お互いに顔がわかる生活領域が最も合理的な範囲》

と述べています。

●私の感想

住民の実情にあわない大型公共事業が進めるために、
いろんな概念が生み出されてきました。
「コンパクト・シティ」の発想は、
それとは逆の方向のもののはずですが、
それすら、大型開発の推進に使われるということに、
驚くほかはありません。
もともと旧いまちは、コンパクトにできているのです。
500メートルの範囲に、お店があり、お風呂屋があり、
仕事場があり、それで生活がなりたっていたのです。
新しく団地として住宅建設された土地でも、
当初はお店や学校があり、便利にできていたはずです。
しかし、それらがいま失われようとしているのです。
岡田教授のいうように、住民自身の手によって、
本当の意味でのコンパクト・シティをつくることは
切実になっていると思います。

湖岸のランドマーク=琵琶湖文化館に廃館の危機2007/12/07

中央郵便局に用事があり立ち寄りました。
近くに、建設中のビルと琵琶湖文化館がありますが、
それぞれ注目すべきときにきているので、
近くで見てみることにしました。
大津市のランドマークの役割と琵琶湖に
親しむ役割を演じてきた琵琶湖文化館。
いまは、水族館としての機能を琵琶湖博物館に移し、
残っているのは、滋賀の文化を展示する役割。
それが、県の財政危機、つまり、
今後3年間で400億円を越す歳入不足のために
廃館の対象になっているのです。
この歳入不足をどう見るのか、
どう打開するのかは
今後の県民生活にとって、重大な分岐となります。

建設中の警察本庁が姿を現しました2007/12/07

まだ築10数年の琵琶湖研究所を取り壊して、
建設中の警察本庁。
基礎工事のときは、フェンスに隠れて見ることができませんでした。
いまその姿を見せるようになっています。
10数階立てのビルになる予定です。
こういう大型で不急の公共事業の推進が、
県財政の危機の要因のひとつになっているのです。
しかし、建設が進むなかどうすればいいのか。
財政を救う対策のひとつは、そのテンポを落とすことです。

旧真田山陸軍墓地で第15回研究報告会2007/12/08

11月24日に、旧大津陸軍墓地の見学会をしたときに、小田康徳理事長に来ていただいたこともあり、12月8日の「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の第15回研究報告会には、時間を割いて出席することにしました。
研究報告会では、「第一次世界大戦史下の日独戦争と大阪俘虜収容所」と題して大阪市史編纂所長の堀田暁生氏が報告しました。
 旧真田山陸軍墓地には、ドイツ人俘虜の墓碑が2基建てられています。今見ることのできる墓碑は、氏名だけが刻まれていて、仔細を知る手がかりはそこにはありません。
 そもそも大阪の俘虜収容所は、大正区にありました。今日、堀田暁生氏の報告の裏づけとなったのは、俘虜となったドイツ人自身の日記や手紙、そして俘虜であったテェオドール・エアハルトの写真(180枚ぐらい残っている)でした。とくに、エアハルト・アルバムは、本国で偶然発見されたものです。入手した藤井さんのお話では、藤井さんとの出会いがなければ、やがでゴミ箱に捨てられる運命にあったかも知れない記録でした。
 私が俘虜の生活を具体的に知るのは、これが初めてであり、どの内容も、興味深いものでした。

旧真田山墓地を再訪 その目的2007/12/09

 貴重な1日ではあったのですが、一ヶ月前に決めたとおり、旧真田山陸軍墓地に出かけました。
直接の目的は、第15回の研究報告会に出席することです。
しかし、別の目的も持っていました。
それは、西南戦争の戦病死者の墓地で、大津営所の陸軍歩兵第九連隊の兵卒の墓碑を見つけることです。
 旧大津陸軍墓地には、西南戦争であれだけ多数の戦死者を出したにもかかわらず、戦死者の墓碑は存在しません。戦病死者の墓碑もです。戦死者は九州の戦場に、戦病死者は旧真田山陸軍墓地にあるはずです。それを、この目で確かめたかったからです。
 見つけたのは、3基でした。それを紹介したいと思うのです。

 上の写真は、見学会の様子です。

「二等卒 有井政吉墓」(西南戦争にて)2007/12/09

 旧真田山陸軍墓地は、地下鉄玉造駅から地上にでるともう入り口が目にはいります。実際目に見えるのは、三光神社の入り口なのですが、そこに隣接しているのです。
 三光神社を通り抜けて、「陸軍省所轄地」という石碑を越えると、陸軍墓地です。そこに立ってすぐに「大阪鎮台第九連隊」という文字が刻まれた墓碑を見つけました。前回来たときは落ち着いて見ることができていなかったんですね、きっと。

「喇叭卒 水口直次郎之墓」(西南戦争)2007/12/09

 大津市に営所を置いて2年後に、西南戦争があり、そこへ出征した第九連隊の墓碑は、大津市に見出すことができません。それを、旧真田山陸軍墓地で見つけました。まるで、故郷の友人の墓碑を見つけたような気分になってしましました。これは「喇叭卒 水口直次郎」という人の墓碑ですね。左側面には、「明治十年鹿児島県賊徒征討之役」と刻まれています。この方は、4月4日にあの田原坂の戦いで負傷し、大阪陸軍臨時病院で死亡されています。22歳という若さです。

「兵卒 森下源右衛門之墓」(西南戦争)2007/12/09

旧真田山陸軍墓地で、つぎつぎと陸軍歩兵第九連隊(大津市に営所があった)の兵卒の墓碑を見つけることができました。これは三番目に見つけた墓碑です。名前の横に「大阪鎮台第九連隊」の文字が見えます。

講演会に出席した大学生の悩みについて2007/12/09

 12月8日を休日にした理由は、「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の研究報告会に出席するだけではありませんでした。
その日、息子のK君は、梅田で講演会を聴きにいくからでもありました。
 朝いっしょに電車で大阪に向かいましたが、大阪駅を下りると別々の行動。それぞれの予定をすませば、旭屋書店で落ち合う予定でした。
 講演はどうだったと聞くと、よかったという返事。
大学入試をひかえた高校生などを対象にした講演会だったのに、高校生はわずかで、大学生を入れても数人だったといいます。
最前列に座った大学生が質問したそうです。

「活字が読めないのですが、どうしたらいいでしょうか」。

私は、絶句しましたが、講師の方はていねいに回答されていたそうです。
 大学生活では(普通はどこでも)活字を読まないで研究はできないと思います。大学に入るまではお決まりの授業を聴いていれば、なんとかなったのでしょう。しかし、大学に入り、自らの力で知識を深める必要ができたとき、活字(専門書のことなんでしょうか?)にぶつからざるをえません。そこで、こういう質問になったと私は考えました。
 でも、もっと深刻な問題があるのかも知れませんね。
そもそも活字嫌いとか、活字を見たとたんにうんざりするとか。
 「大学生が真顔で相談する時代になったのか!」と嘆くのは、私が時代に追いついていないってことなんでしょうか?
 それが現実なら、それを受け止めて、真剣に対策をうってあげないといけませんね。こういう質問をすることを非難がましく書くのはいいことではないと反省しました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)